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あらためて資本論に沿って

再び前稿の続きです。
いろいろ脱線してしまいましたので「資本論」に沿って改めて整理してみましょう。重複する部分もありますがご容赦ください。

■資本主義社会では富は巨大な商品集積となって現れる

・資本主義以外や資本主義以前の社会を含めて、社会には「富」があります。「(貨幣で価値が測れるか否かを問わず)人間が豊かに生きる為に必要なもの」と思えばいいと思います、衣食住もそうですし、空気、水、コミュニティ、公園、図書館、美術館なども含まれます。しかし、マルクスは資本論を「資本主義的生産様式が支配的な社会の富は『巨大なる商品集積』となって現れる」という有名なフレーズで始めています。これは、資本主義以外やそれ以前の社会では、「労働」によって「富」を生成・維持させてきましたが、資本主義社会では労働で生産されるものは「商品」となってしまうという意味です。
・では「商品」とは何か。商品はとは「使うもの」ではなく「売れそうなもの(交換の対象)」です。使うものは比較的簡素に簡単に生産出来ますが、売るものは売るための工夫が必要です。魅力的な商品が増えたことで、暮らしが豊かになったかのようですが、商品となってしまったことで、入手には貨幣が必要となったという意味で、富としては貧しくなったというのがマルクスの指摘です。
・水を例にとりましょう。水は以前は共有財ですが、必要な分を取るのに自分の労働を使いました。最近、水はお金で買う「商品」になりました。多く売れば売るほど儲かるわけです。

■商品が持つ2つの顔

・マルクス曰く、
1つは有用性。これは使用価値とも呼ばれ、人間の欲望を充足させるという者の属性。これの価値は「素材」で決まると。
もう一つは交換価値。1クォーターの小麦はx量の靴墨やy量の絹、又はz量の金との交換価値を持っている。この価値は、その商品を生産するのにどれくらいの労働時間を投入するかで決まると。
これがマルクスの労働価値説ですが、「決まり方」には少々違和感はありますが、この分類は見事だと思います。交換価値あれば役に立とうが立たなかろうがどんどん作っていくことになります。以前、「資本は運動」と定義されていることに触れましたが、この運動自体が自己目的化し人間と言えども、その運動を止めることができなくしまうことを、マルクスは物象化と指摘していました。

■囲い込み

・それまではコモンズ(共有地。日本で言う入会地)で無料で燃料の枝を拾ったり、牛に草を食ましたり、水汲み場で水を手に入れることが出来ました。コモンズでは「富」が豊富にあった。しかし「囲い込み」が始まって、コモンズが貴族・領主に独占され、落ちている枝ですら「商品」となってしまった。お金がある人ならいざ知らず、お金に乏しい人は途端に入手しづらくなりました。これを「希少化」と言います。この希少化は自然現象ではなく人工的に作り出された希少化。つまり、資本主義は人工的に希少性を作り出すことで、利益を上げようとするシステムとも言えます。
・囲い込みで追い出された人は、必要となったお金を入手するためには、自分の労働力を売ることしかできず、「資本家が囲い込んだ資本から商品を作る労働」に従事するほかなかった。要は、貴族・領主は非合法とも言える囲い込みで農地(目的は農地より儲かる放牧地にすること)と労働力を一気に手に入れることができたという訳です。マルクスはこれを「本源的蓄積」と呼んでいます。人間が自然から切り離されて貧しくなっていったということです。
・労働の目的も変わりました。以前は生活の為の欲求を満たすための労働だったものが、利益を蓄積(=資本の無限なる増加)の為の労働に変質しました。
・公的事業の民営化は現代版囲い込みとも見えるでしょう。最低限の衣食住、水、医療・健康・エネルギー・教育・公園・図書館。これら人間が生きていく上で必要な富にはお金を持っている人したアクセスできなくなる。そして、お金を稼ぐためには唯一のネタである労働力を何とかして売らなければならない、そんな状況に労働者はどんどん追い込まれているようにも見えます。

■資本家はカネの亡者か?

・では資本家というのはカネの亡者なのか?マルクスはそうは言ってないようです。むしろ彼らも資本主義の軛に囚われた、ある意味気の毒な人たちかもしれません。資本主義社会での競争に敗れれば淘汰されてしまいますから。
・資本家の地位を保つためには回り続けなくてはならないのです。もちろん労働者も。

■労働と労働力

・マルクスは労働と労働力の違いについても分析しています。この2つは似てますが非なるもので、この区別はかなり重要です。
・労働力とは労働をする能力。資本家と労働者は、この労働力を売買しています。資本家の視点では実際に商品の価値を作るのは、(結果としての)労働です。しかし、資本家が労働者から買っているのは、労働が生み出す価値ではなく労働力です。つまり、労働の結果がどれくらいの(交換)価値を生もうが、労働者へ支払われるのは基本的に「労働力への対価」に過ぎません。この議論も現在の視点では引っかかる点もありますが、この2つを区別する意味は分かります。「賃金」と「労働が生む価値」は分断されているということです。
・資本家視点では「時間当たりの賃金」が下がれば利益が増えますし、生む価値/労働時間(=生産性)が上がればその分利益が増えます。前者では労働時間の延長(含、サービス残業とか)、後者では生産性向上運動になります。日本の女工哀史と同様の話が資本主義黎明期にはイギリスでも起こっていたことをマルクスも伝えています。
・では労働者は黙って労働時間を増やすのでしょうか?一部ではその通りです。過労死などはそれに相当します。マルクスは「労働者が自由だから」と少々意味不明ことを言います。この自由というのは、ドイツ語で何と書かれているのかわからないですが、英語だとFreeでドイツ語が同じかどうかも分かりませんが、英語のFreeはやや間違いやすい単語だと、以前の投稿(「リベラルって誰?」)でも指摘しました。

①Free from(何らかの束縛からの自由)
②Free to(何かをする自由)
③Free of(何かがない)
でかなり異なります。この場合のマルクスが言う「自由」は①の「奴隷ではない」という意味もありますが、③の「生産手段がない」という意味でもあるようです。
・ここで決定的に重要なのは「生産手段がなければ自活できない」即ち「生産手段を持つ人(=資本家)に依存しなければ生きていけない」という事実です。特定の資本家に隷属する奴隷ではないにしても、いずれかの資本家に隷属しなければならない。呼称はともかく身分階層としては奴隷に近いとも言えます。しかし、逆に生産手段にアクセスできる環境を作れば、資本家から独立できる可能性があるとも言えます。
・「そんな中で労働者は何故頑張るのか?」のかという疑問に対してのマルクスの回答は「自分で選んで自発的に働いているから」という労働者の一種の自負心であるというもの。その自負心が生活を失うかもしれないという恐怖よりも強いと指摘しています。そんな自負心は責任感を生みます。失敗すれば反省し、無茶振りにも対応し、結果自分を追い込んでしまい、自らを企業戦士のようにしてしまう。

■生産力が高まると、労働の構想(精神的部分)と実行(肉体的部分)が分離する。

・陶芸「職人」は構想から実行まですべてを行っている。これはある意味「自活」の世界です。そんな職人の世界は利益を上げることは最優先ではなく、「(自分にとって)良いもの」を作ることが優先される世界。これは資本家にとっては好ましくないものです。従って、構想と実行を分離して、構想は資本家の手下にさせて、実行を労働者にさせる。いわゆる分業です。そして実行部分を更に細かくする(単純化)ことで、職人が持っていた生産能力を奪っていく。単純化された労働しかできない労働者はそんな分業の中でしか働けなくなってしまう。テイラーの科学的管理法は古典的に有名ですが、それも一種の「囲い込み」と言えそうです。「職人」が「生産に関する技術・智恵・ノウハウ」(=構想)を取り上げ、それを手下に持たせるのですから。

では、我々にはもう助かる道はないのでしょうか?
全くない訳ではないでしょうが、かなり厳しいのは間違いないでしょう。