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リベラルって誰?(超簡単解説)

リベラルというのがどうも分かりにくい。簡単に言えば、個人の自由や多様性を尊重する立場となるが、もちろんそれは「Sounds Good」である。しかし「自由」と言いながら、どこか圧迫感があり、逆の全体主義っぽく感じてしまう。だが自由を旗印にされると抗しがたい。何故か?その辺りを少し考えてみました。

(1)「自由」には2種類ある。

・自由は英語でFreedomですが、前置詞の違いで「Freedom from~」と「Freedom to~」がありそう。前者何らかの「拘束」からの自由(=解放)。後者は何らかを「する」自由又は「意思決定」の自由。

・自由と聞いたときに、我々は前者を思い浮かべるので「そりゃ大事だ!」と直感するのですが、どうも今のリベラルが向いてるのは後者なので、そっちなら「ちょっと待てよ」となるのではないでしょうか?

・少なくとも日本では前者を語る意義は薄れて来ているように思います。それは前者の敵であり対である規律・道徳・慣習などの束縛が弱くなったことが原因かもしれません。そのせいか今のリベラルはいつの間にか主張を後者に比重を移したような気もする。この辺りを注意する必要はありそうです。

(2)リベラルにも何種類かありそう

同じリベラルの中にも微妙に異なる主張がありそうです。
株式市場を例にとると

①平等アクセス主義:
・透明で共通なルールがあること。
・運も実力も使って勝ったものが賞賛される世界
⇒運も実力のうち

②実力中心主義:
・親の遺産や優秀なアドバイザーのおかげで勝利するのは、彼の実力ではない。運である。
・そのような成功は賞賛されるべきではない。
⇒運は排するべきだ

③是正主義:
・実力と言っても、結局は実力の獲得は家庭環境や運に左右される(東大生の親は結構金持ちが多いみたいなものか?)ので、その辺りは是正介入してスタート位置を一緒にすべき。
⇒運にも能力にも介入して、スタート位置は合わせるべきだ

①も一種のリベラルだが、②③あたりがいま議論している狭義のリベラリズムのような気がする。
いずれにしても、どれもが重要視しているのは
①は「参加条件の平等化」で、競争結果には無関心
②は「能力だけで戦うこと」で、結果をどう使うかは無関心
③は「スタートの平等化」で、結果どういう生き方を考えているのかは無関心

各リベラルが想定している個人(ペルソナ)像はというと、
①は目の前に現存している現実人間
②は運・偶然を排除された仮想人間
③は運・偶然だけでなく、実力・能力も排除された抽象的な人間

・特に②③のような仮想的・抽象的人間に権利を付加したのがリベラルの人間観。特に③ってどんな人間なんだろうと思いますね。想像できない。
・経済学でも経済人の仮定という抽象化された人間で理論を構築しているので、現実経済や経営にはそのまま持ち込めない。同様にリベラルもその非現実な個人像をそのまま政治という現実世界に持ち込んでいないだろうか。経済学と同じように、ここも要注意かも。

(3)リベラルが重視するもの

・リベラルにとっては「(何であれ)自分で選択できる」ということが重要。しかし、その価値(=選択基準)については少々無関心で、「そんなものは個人の主観でしょ」みたいなところがあるように見える。つまり、よく聞く「自己責任」。もっと言えば、「自己選択による自己責任」が重要であってその結果には全く無関心。性別も自分で選べる、結婚相手に同性も選べることが大事。その結果共同体たる国がどうなるかはあまり問題ではなさそうだ。(後述しますが、国は自由の源泉)そういえば昔「援助交際」というのがあった。「皆が喜ぶのに何が悪いの?」と少女に問われ答えに窮した大人たち。でも心の中では「それで良いのだろうか?」というあたりにモヤモヤがある。

・株式投資でもそうだが、自由に選べることはもちろん大事。しかし自己責任と言われて本当に理解して選べる人はどれくらいいるのでしょうか。選んだ結果が、個人や共同体に何をもたらすのかの方がもっと大事だと思うが、リベラの方は無関心に見える。リベラルの方が主張しているときは、自由選択結果どうなるのかも注意して聞けばいいかも知れませんね。

(4)リベラルの行く末

・価値は現実社会と切っては切れない。あらゆる場面で価値判断を行っているでしょう。国の政策も価値判断、それが共同体的に承認されなければ政権を追われる。そう考えると「共通の価値観のない国家?」そんな国家はあるだろうかと思われるし、逆に国家を国家たらしめているバックボーンって価値観ではないのかとさえ思う。姿かたちは見えないが皆が意識しているもの、生まれてすぐ両親から無自覚的に刷り込まれ(三つ子の魂百まで)、自意識が目覚めてからは両親・親戚・先生・友達・周囲の影響を受け引き継がれている。運動部でへたっぴであっても先輩には直立不動みたいなこと、何故そうしなければならないのか論理的に説明はできなかった。論理的に説明できないが、人を縛っている価値観は存在する。

・また、リベラルの①~③にも、実は「どういう人が賞賛されるのか?」という社会的価値が含まれているのではないか。

・「都度都度の自由選択」が最も重要で「その結果には無関心」だとすると、そして自由が最高の価値であるなら、「悪いことをする自由」も「良いことをする自由」も両方認めなければならない。

・同様に平等を至上価値とするといかなる差別も認められなくなり、全体主義に近寄りそうだ。

・社会の目的がすべて個人主観的でバラバラで統一感が欠ける共同体って、共同体の体をなすだろうか?国ならば混乱してしまうし、分断されてしまう。これについてのご意見も注意して聞いた方が良いでしょうね。

(5)価値(=選択基準)って何だろう

・「価値」といっても実はいくつか種類があって、一緒くたにされてることで見えなくなっている可能性がある。
1つは個人的な趣味・嗜好のレベルのモノ。もう1つは共同体としての価値レベルのもの。
後者は社会がこれまで蓄積してきた歴史的記憶・慣習などに根ざしたもの。例えば、どこかを散歩したり、何かを読んだり、何かを食べたりするのは個人レベルの話です(こんなことすら出来ない全体主義国家もありますが)。こんなものには共同体の承認はいらない。しかし世の中には共同体的承認が必要なものありそうだ。例えば、国防に関すること、外国人参政権みたいな政治的なこと、先ほどの長幼の功みたいな文化的なこと、はてまた前述の援助交際。これらは選択を間違えると結果として共同体を壊してしまう可能性があるからです。この2つの明確な区別はちょっと説明し難いですが、差がありそうなことは誰にでもわかる。この難しさを突いて、何でもかんでも前者の入れてしまうと、すべてが「個人の主観」なって答えが出なくなる。さらに「国は価値にかかわるべきではない」と考えてしまうと、共同体としての判断がしづらくなってくる。この辺りもモヤモヤ感につながってるのではないでしょうか?この辺も注意して聞きましょう。

(6)自由を支えているのは何か?

・海外に行ったことがある人はわかると思いますが、「自由」というのは国家権力によって支えられています。パスポートにも渡航先の国家に対して「所持者の人身保護をよろしく」と書かれています。わからない人はパスポートなしでアフガニスタンをウロウロするか、(ホントにすると危ないので)イメージしてみましょう。

・紛争地域に行くカメラマンとかボランティアが時々捕まって、それに対して「勝手に行ったのは自己責任なので助けに行く必要はない」という主張がたまにありますが、国としては助ける責任があります。個人の自由意志がどうであれ、それから独立した「国という共同体」の論理があるということです。

・国は「公」に専念しルールを作る。個人はそのルールの範囲内で自由であるというのが現在の姿で、逆に言えば国に所属する個人は(ある枠内で)自由に選択できるが、「公」たる国(=共同体)への義務はやはりある。(もちろん、戦場に取材に行ってはいけないとは言っていない)

・国あっての自由であって、国は自由の障害ではなく前提である。その範囲で「自由」であるということ。それが嫌なら、どこかの無人島でどこの国にも属さず、ひっそりと暮らすしかないかも知れませんね。