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葉隠~「武士道とは死ぬことと見つけたり」

「武士道とは死ぬことと見つけたり」という部分だけが有名ですが、決して「死を推奨」している訳ではありません。奥義としては、常に死を意識しながら生きていくことで(常住死身)、行いが「正しく」、知も充実し、人様のお役にも立てるということだと思います。では、少々長くなりますが、まずは概要から。

■葉隠とは

・この書は、1700年頃鍋島藩(佐賀)で主君鍋島光茂が亡くなった後に出家した藩士山本常朝が隠遁生活を送っている最中に、常朝を慕う若い藩士田代陣基が常朝を訪れ、その時常朝が語った内容を口述筆記したもの。武士の日頃の行動規範を示したものと言えます。その目的はあくまでの「御家(=共同体)の存続」であって、共同体存続の為に個人が守るべき行動原理ではないかと思います。
・常朝は幼少から42歳まで鍋島藩に仕え、主君の信頼も厚く本来なら家老にでもなろうかという人物ではあったが、42歳の時に光茂が逝去、常朝は殉死の覚悟を決めていたが、光茂は殉死の禁止を言明したので、しかたなく出家し61歳で亡くなる最後まで隠遁生活を続けた。
・その後内容が編集され「葉隠聞書」と呼ばれていたが、常朝はかねがねそんなものは書き捨てよと命じていたにも関わらず、いつとはなしに佐賀藩士の間に写本が出回って藩士の間では密かに読まれ続けていた。

山本常朝

■時代背景:
・当時は元禄文化の時代。芭蕉、西鶴、近松門左衛門など文芸が発達し、庶民から武士に至るまで、それなにはまっていた時代で、武士道や儒学なども観念論化していた。

■構成

・第一巻と二巻は常朝自身の教訓
・第三巻~五巻は鍋島直茂(藩祖)、勝茂(初代)、光茂、綱茂などの言行
・第六巻~九巻は佐賀藩に関すること及び藩士の言行
・第十巻~十一巻は補遺

中心をなすのは第一巻と二巻で、ここに常朝の思想が含まれています。本稿も第一巻と二巻を中心に書いています。

■葉隠が持つ意味

・個人の行動原理を示している:
共同体存続のための個人の行動原理はどうあるべきかが主題。なので時代を越えた普遍性を持つと思われる。

・死を意識して生きるということ:
常に死を意識し生きていくことで人は自由になれる(=束縛、しがらみを断ち切れる)。そして、それが正しい行動を導く。それは最期は真の自分になる。更に日々そのように過ごすことが蓄積を生み、それが結果的に生に役立つ。
崎門学派の山崎闇斎にも通ずる気がします。

・理性より経験を重視。保守的思想が見られる:
1人の智恵など高々知れている。利害のない知恵者に相談することで道理にかなった智恵が得られる。

・合理主義が隠すもの:
合理的に考えれば死は損であり生は得である。この合理性に立脚した思想が普遍的であると見なせば、それは内面の弱みや主観の脆弱さを隠蔽してしまう。思想が損得勘定の上に成り立つのであれば、単なる才知弁舌によって自分の内心と臆病を隠すなら、自らを欺き欺かれる人間の浅ましい姿である。つまり「死にたくない」という動物的感情とそれで利得を得ようとする心を、他人の死への同情にかこつけて隠蔽する行為である。


葉隠(岩波文庫)

■葉隠の言葉

それでは葉隠にある名言とも思える言葉をいくつかピックアップしてみましょう。どこかで思い当たることも多いのではないかと思われます。各言葉の最後の出典は岩波文庫版葉隠に記されている文番号に基づきます。

(1)常住死身のすすめ

「武士道とは死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場(生か死かの二択の場面)にて、速く死ぬ方に片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。図に当たらぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上がりたる武道なるべし...」(聞書第一:2)

・生か死か二択を迫られたら、余計なことは考えず、早く死ぬ方を選ぶべき。(注:「死ね」とは言っていない)
・人は誰でも生きる方を選びたい。その為にいろいろな理屈をつけてしまう。そして失敗に終われば「腰抜け」とそしられる。しかし死を選べば、それを犬死とか気違いとか言われようとも恥にはならない。
・朝に夕に繰返し死を覚悟することで武士道が自分のものとなり、生涯誤りなく尽くすことが出来る。

(2)無私思考

「四誓願に押し当て、私なく案ずる時、不思議の智恵も出づるなり。皆人、物を深く案ずれば、遠き事も案じ出すやうに思へども、私を根にして案じ回らし、皆邪智の働きにて、悪事となる事のみなり。」(聞書第一:4)

・何かを考える時に、無私になれば、大きく外れることはない。

(3)自分の能力の限界を知り、知恵者に相談する。

「我が智恵一分の智恵ばかりにて万事をなす故、私となり天道に背き、悪事となるなり。(中略)真の智恵にかなひがたき時は、知恵ある人に談合するがよし。その人は、我が上にてこれなき故、私なく有体の智恵にて了簡する時、道に叶ふものなり」(聞書第一:5)

・我々の智恵は大したことないのに、それに頼って物事を判断するから道を過ってしまう。良い知恵が浮かばないときは知恵者に相談しよう。知恵者は自分のことでなければ、客観的に判断でき、その結果通りに叶うことになる。

⇒観念論ではなく経験論、そこに保守的思想が見えている。

(4)水清ければ魚棲まず

「何某当時倹約を細かに仕る由申し候へば、よろしからざる事なり。水至って清ければ魚棲まずと言ふことあり。藻がらなどのあるゆえに、その蔭に魚はかくれて成長するなり。少々の見のがし聞きのがしある故に、下々は安穏するなり。人の身持ちなども、この心得あるべき事なり」(聞書第一:24)

・雁字搦めではなく、少しは見逃し聞き逃しがないと窮屈である。人の品行も同じ。

(5)奉公人は高い志を(滅私奉公)

「今時の奉公人を見るに、いかう低い眼のつけ所なり。スリの目遣ひの様なり。大かた身のための欲得か、利発だてか、又は少し魂の落ち着きたる様なれば、身構えをするばかりなり。我が身を主君に奉り、すみやかに死に切って幽霊となりて、二六時中主君の御事を嘆き、事を整えて進上申し、御国家を堅むると云ふ所に眼をつけねば、奉公人とは言はれぬなり。上下に差別あるべき様なし。」(聞書第一:35)

・今どきの奉公人(現代で言えば公務員やサラリーマン)は志が低い。スリの目配せのようである。おおかた自分の欲得か小賢しさを示しているようであり、ちょっと心の落ち着いたようにみえる連中も格好づけに過ぎない。そうではなく。自らの身体を主君に預け、速やかに死に切って、幽霊のごとく、常に主君の身を案じ、物事を整理して意見具申し、藩(国、企業)の基礎固めに着目しなければ真の奉公人とは言えない。そうの意味では地位は関係ない。

(6)色即是空

「幻はマボロシと読むなり。天竺にては術師のことを幻出師と云ふ。世界は皆からくり人形なり。幻の字を用ひるなり。」(聞書第一:42)

・この世はインドの幻出師が作り出すマボロシであり、からくり人形のようである。

⇒葉隠の背景には大乗仏教があり、これはその空の概念だと思われる。即ち、「全ての物は縁あって生まれた一時的な仮のものであって、縁が消えれば物も消える。恒久的に存在するものなどない」

(7)生涯修行

「柳生殿の『人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり。』と申され候由。昨日よりは上手になり、今日よりは上手になりして、一生日々仕上ぐる事なり。これも果はなきといふ事なりと」(聞書第一:45)

・徳川幕府剣術指南役の柳生殿は人に勝つ方法は知らないが己に勝つ方法は知っていると言った。修行とは日々研鑽を積み上達しながら果てしなく続くものである。

(8)大事は普段から考えておく

「直茂公の御壁書に『大事の思案は軽くすべし』とあり。一鼎の注には、『小事の思案は重くすべし。』と致され候。大事と云ふは、二三箇条ならではあるまじく候。これは平生に詮議してみれば知れているなり。これ前提に思案し置きて、大事の時取り出して軽くする事と思はるるなり」(聞書第一:46)

・直茂公の遺訓には「大事な思案は軽くすべし」というのがあり、(石田)一鼎はそれに「小事の思案は重くすべし」と注釈をつけた。大事というのは2~3件ぐらいだろう。そのようなことは普段から考え抜いておけば、事が起きてもすぐに対処できると思われる。

(9)過ちのない者など信用できない

「何がし立身御詮議の時、この前酒狂仕り候事これあり。立身無用の由衆議一決の時、何某申され候は『一度誤これありたる者を御捨てなされ候ては、人は出来申すまじく候。一度誤りたる者はその誤を後悔いたす故、随分嗜み候て御用に立ち申し候。立身仰せつけられ然るべき』由申され候。(中略)『誤一度もなきものはあぶなく候』」(聞書第一:50)

・一度過ちを犯したからと言って出世させないなら優れた人物は見出せない。一度間違った者は後悔するので、案外役に立つようになるもの。間違ったことはないなどという者はかえって危ないと思う。

(10)生涯修行

「一世帯構ふるがわろきなり。精を出して見解などのあれば、はや済まして居る故間違ふなり。尤も精を出して、先づ種子はたしかに握って、さてそれの熟する様にと修行する事は、一生止むる事はならず。」(聞書第一:59)

・固定観念をもつことはよくない。精進の末、わかったつもりになると、それで(修行が)終わったと勘違いしてしまう。

(11)常住討死の心

「常住討死の仕組に打ちはまり、篤と染に死身になり切って、奉公も勤め、武辺も仕り候はば、恥辱あるまじく、斯様の事を夢にも心つかず、欲得我儘ばかりにて日を送り、行き当たりては恥をかき、それも恥とも思はず、我さへ快く候へば、何も構はずなどと云って、放埓不作法の行跡になり行き候事、返す返す口惜しき次第にて候」(聞書第一:63)

・いつも討死の覚悟で死んだ身になりきって、奉公に精を出し武芸に励めば恥をかくこともないのに、そうとは夢にも思わず、欲得や我儘なことに日々精を出していては恥をかくのだが、それも恥とも思わず、自分だけうまく行けば良いというのが風潮で、とても残念だ。

(12)不釣り合いな贅沢はしない

「又三十年以来風規打ち替り、若侍どもの出合ひの咄に、金銀の噂、損得の考え、内証事の咄、衣装の吟味、色欲の雑談ばかりにて、この事なければ一座しまぬ様に相聞え候。是非なく風俗になり行き候。(中略)これは世上花麗になり、内証方ばかりを肝要に目つけ候故にてこれあるべく候。我身に似合はざる驕りさへ仕らず候へば、兎も角も相済む物にて候。又、今時若き者の始末心これあるをよき家持などど褒むるは浅ましきことにて候。始末心これある者は義理欠き申し候。義理なき者はすくたれなり。」(聞書第一:63)

・この2~30年、世の中が変わったのか、若侍たちが道で出会っても、話の話題といえば、お金、損得、家計、衣装、色欲といった雑談ばかり。こんな話題が無ければ場がしらけるというのは、まったく困ったことだ。
・世間の風潮が派手になり、お金ばかりが重視されるからであろう。不釣り合いな贅沢さへしなければ、そんなこと考えなくても良いのに。また今時の若者に倹約の心があると言って褒めるのはいかがなものか。倹約の心があると義理を欠くことになりかねない。義理を忘れてはならない。

⇒昔からカネに溺れないようにという戒めがある。

(13)酒席での心得

「大酒にて後れを取りたる人数多なり。別して残念の事なり。先づ我がたけ分けをよく覚え、その上は呑まぬ様にありたきなり。その内にも、時により、酔ひ過す事あり。酒座ににては就中気をぬかさず、不図事出来ても間に合う了簡あるべき事なり。又酒宴は公界ものなり。心得べき事なり。」(聞書第一:68)

・大酒を飲んで失敗する人は多い。残念なことだ。自分の限界を知って、それ以上は呑まぬことに限る。とはいっても、酔ってしまうこともある。酒席ではいつも気を抜かず、思いがけぬことが起きても対処できるように心がけておくことが必要。酒宴は公の席である。心しておくように。

⇒今も昔も(^^;)

(14)芸は身を滅ぼす?

「芸は身を助くると云ふは、他方の侍の事なり。御当家の侍は、芸は身を滅ぼすなり。何にでも一芸これある者は芸者なり、侍にあらず。何某は侍なりといはるるように心懸くべき事なり。少しにても芸能あれば侍の害になる事と得心したる時、諸芸共に用に立つなり。この当たり心得べき事なり。」(聞書第一:88)

・芸は身を助けるというが、それは他藩の侍の話である。当家では身を滅ぼすだけだ。何事であっても一芸に秀でている者は技芸者であって侍ではない。彼はサムライだと言われるように心がけるべきである。少しでも技芸があることは侍にとっては害になるという事を理解して初めて、諸芸が役に立つのである。この点十分承知しておくこと。

(15)案ずるより生むがやすし

「死の道も、平生死習ふでは、心安く死ぬべき事なり。災難は前方了簡したる程にはなきものなるを、先を量って苦しむは愚かなる事なり。奉公人の打留は浪人切腹に極りたると、兼で覚悟すべきなり」(聞書第一:92)

・死についても日頃から練習していれば、その時には安らかに死ねる。災難についても、たいてい事前に思っているほどのこともないので、前もって苦しむなんて馬鹿らしい。奉公人の終点は浪人か切腹と決まっている。初めから覚悟しておくべきだろう。

(16)真の友

「『人の心を見んと思はば煩へ。』と云ふことあり。日頃は心安く寄合ひ、病気又は難儀の時大方にする者は腰ぬけなり。すべて人の不仕合せ時別けて立ち入り、見舞・付届仕るべきなきなり。恩を受け候人には、一生の内疎遠にあるまじきなり。斯様のことにて、人の心入れは見ゆるものなり。多分我が難儀の時は人を頼み、後には思ひも出さぬ人多し。」(聞書第一:94)

・「人の心を見定めたければ病気になれ」とも言われる。日頃は親しく付き合いながら、病気や災難の時になると知らん顔をする奴は卑怯者である。人が不仕合わせな時こそは親身になって見舞や付届けをするべきである。恩ある人とは一生疎遠になってはいけない。こんなことで、人の真の心が分かるものである。しかしたいていは困ってる時は人を頼るくせに後になってそんな恩を忘れているような輩が多いものである。

(17)人の盛衰は運命である

「盛衰を以て、人の善悪は沙汰されぬ事なり。盛衰は天然の事なり。善悪は人の道なり。教訓の為には盛衰を以て云ふなり」(聞書第一:95)

・人の善悪をその人の盛衰で判断することはできない。盛衰は自然のなり行きだが、善悪は人間の判断であるから。ただ、教訓の為に、人の盛衰が善悪の結果であるかのようにいうことがある。

(18)能ある鷹は爪を隠す

「利発を面に出し候者は、諸人請け取り申さず候。ゆりすわりて、しかとしたる所のなくては、風体宜しからざるなり。うやうやしく、にがみありて、調子静かなるがよし。」(聞書第一:108)

・利口さが前面に出る者は、信用されにくいものである。落ち着き払って、ちゃんとしたところが無ければ、格好は良くないものである。うやうやしく、苦みがあって、静かなのが良いのである。

(19)責任者ほど上には厳しく

「上に目を付くるが本意なり。然るに、下々の悪事を見出し聞き出し、言上致す時悪事たえず、却って害になるなり。下々に直なる者は稀なり。下々の悪事は御国家の害にはならぬものなり。」(聞書第一:110)

・目付け役とは上に厳しく目を付けるというのが本来の意味である。なのに、下々の悪事を見出したり聞き出したりして言いつけるから、却って悪事が絶えず害になっている。下々には真っ当な者は少ないかもしれないないが、そもそも下々の悪事は国家の害にはならないのである。

(20)損得だけが判断基準ではない

「勘定者はすくたるるものなり。仔細は、勘定は損得の考するものなれば、常に損得の心絶えざるなり。死は損、生は得なれば、死ぬる事をすかぬ故、すくたるるものなり。又学問者は才智弁口にて、本体の臆病、欲心などを仕かくすものなり。人の見誤る所なり。」(聞書第一:112)

・計算高いものは卑怯者である。いつも損得を考え、それが先立つから。なので死は損、生は得みたいに単純化して死を避けるからである。
・また学のある者は才知に長け弁舌爽やかであるが、その内に臆病さや私利私欲を隠しているのである。この点で人への判断を誤るのである。

(21)困難を喜べ

「大難大変に逢うても動転せぬといふは、まだしきなり。大変に逢うては歓喜踊躍して勇み進むべきなり。一関越えたる所なり。『水増されば船高し。』といふが如し。」(聞書第一:116)

・大変な困難に合っても気が動転しないぐらいではまだまだレベルが低い。困難に出会っても大いに喜んでさらに立ち向かっていくぐらいが必要。要はレベルがワンランクアップしてということで、「水位が上がれば船も高くなる」ようなものだ。

(22)名人も人なら我も人。何で劣ることがあろうか

「名人の上を見聞して、及ばざる事と思ふは、ふがひなきことなり。名人も人なり、我もなり、何しに劣るべきと思ふて、一度打ち向はば、最早その道に入りたるなり。『十有五にして学に志すところが聖人なり。後に修行して聖人になり給ふにはあらず。』と一鼎申され候。」(聞書第一:117)

・名人を見聞きして、これはかなわないと思うのはふがいない話である。名人も人なら我も人。何で劣ることがあろうかと一度対決してみれば、もうその道に入ったようなものである。「聖人の聖人たる所以は15歳ほどで学問を志したことで、修行の後に聖人になったのではない」と石田一鼎(常朝のかつての師で佐賀藩第一の碩学)も仰っていた。

(23)嫌われる人・好かれる人

「少し理屈などを合点したる者は、やがて高慢して、一ふり者と云はれては悦び、我今の世間に合はぬ生まれつきなどと云ひて、我が上あらじと思ふは、天罰あるべきなり。何様の能事持ちたりとて、人のすかぬ者は役に立たず。御用に立つ事、奉公する事には好きて、随分へりくだり、朋輩の下に居るを悦ぶ心入れの者は、諸人嫌はぬ者なり、」(聞書第一:123)

・人は少し理屈でも知ろうものなら、やがて高慢になり、ひとかどの者と呼ばれて舞い上がり、自分は今に時代にはもったいない存在だと思い、自分よりできる人間はいないとまで思ったりするが、そうなれば天罰が下るだろう。いかに有能であっても、人から好かれない人は役には立たない。逆に、人の役に立ちたい、仕事が好き、謙譲の心を持ち、同僚が風下に居ても悦ぶような人物は誰からも嫌われないだろう。

(24)出世を急ぐことはない

「若き内に立身して御用に立つは、のうぢなきものなり。発明の生まれつきにても、器量熟せず、人も請け取らぬなり。五十ばかりより、そろそろ仕上がるがよきなり。その内には諸人の目に立身遅きと思ふ程なるが、のうぢあるなり。又身上崩しても、志ある者は私曲の事これなき故、早く直るなり。」(聞書第一:127)」

・若いうちに出世しても余り効果はない。例えどれほど利口な生まれつきであっても、才能がまだ成熟していないので、人が十分納得しないからである。50歳ぐらいから徐々に仕上げていくのが良い。そのこうしつつ、人から見て出世が遅いと見られるぐらいの方が効果があるものである。
・また、例え身上を崩しても、志のある者は不正をしないので、早く立ち直るものである。

(25)部下にはよく声をかけよ

「義経軍歌に、『大将は人に言葉をよくかけよ。』とあり。組被官にても自然の時は申すに及ばず、平生にも『さても良く仕たり、ここを一つ働き候へ、曲者かな。』と申し候時、身命を惜しまぬものなり。とかく一言が大事なものなり」(聞書第一:131)

・義経に関する歌に「大将は部下によく声をかけよ。」とある。下級武士には、非常時だけでなく普段でも「良く仕えてくれているな、ここはもう一働きを頼む。したたかな奴よ」とでもいうと、命を惜しまず働いてくれるこのである。とにかく、そんな一言が重要である。

(26)歳も30を越えても教えを乞うこと

「世に教訓する人は多し。教訓を悦ぶ人はすくなし。まして教訓に従ふ人は稀なり。年三十も越したる者は、教訓する人もなし。されば教訓の道ふさがりて、我儘なる故、一生非を重ね。愚を増して、すたるなり。道を知れる人には、何とぞ馴れ近づきて教訓を受くべき事なり」(聞書第一:154)

・教え垂れる人は多いが、喜んで聞く人は少ない。まして、それを実践する人は稀である。30歳を越えたら、教しえてくれる人もいない。なので教育されることがなくなり、わがままになってしまい、一生を愚かに過ごしてダメになる。なので、道理を知っている人は、何とか慣れ親しんで、教えを乞う必要がある。

(27)名誉にも富にも執着すること

「名利薄き士は多分えせものになって人をののしり、高慢にして益にたたず、名利深き者には劣るなり。今日の用にたたざるなり。」(聞書第一:155)」

・名誉や富に執着しない人は、多分つまらない人間になって、人を罵ったり、高慢で役に立たないことが多く、執着する人よりも劣ってしまうのである。今日の役には立たない。

(28)若いうちの苦労は多い方が良い

「『奉公人の禁物は、何事にて候はんや。』と尋ね候へば、『大酒・自慢・奢りなるべし不仕合わせの時は気遣ひなし。ちろ仕合せよき時分、この三箇条あぶなきものなり。人の上を見給え、やがて乗気さし、自慢・奢が付きて散々見苦しく候。それ故、人は苦をみたるものならでは根性すわらず、若き中には随分不仕合わせなるがよし。不仕合わせの時草臥るる者は、益に立たざるなり。』と。」(聞書第二:1)

・「奉公人がやってはいけないことは何でしょうか」と聞いてみると「大酒・自慢・奢侈だろう。不幸な時は構わないが、少し運が良い時はこの3つは命取りになる。他所の人を見てみなさい。うまく行けば調子に乗って、自慢や贅沢が増えて見苦しい人がいる。だから、苦しい目に遭わないと根性が据わらないもの。なので若いうちは苦労が多い方が良い。苦労が多い時、それに負けてしまうようでは使い物にならない」

(29)好人物は落ちこぼれる

「結構者はすり下り候。強みにてなければならぬものなり」(聞書第二:)

・好人物は落伍するもの。強みの溢れた人でなければならない。

(30)勝つ方法よりも、チャンスを逃さない方法を

「謙信の、『始終の勝などといふ事は知らず、場を迦[はず]さぬ所ばかりを仕覚えたり。」と申され候由。これが面白き事なり。」(聞書第二:35)

・上杉謙信は「常に勝てる方法などは知らないが、チャンスを逃さない方法は知った」と申されたとか。これは面白い。

(31)男でも化粧を

「写し紅粉を懐中したるがよし。自然の時に、酔覚か寝起などは顔の色悪し事あり。斯様の時、紅粉を出し、引きたるがよし」(聞書第二:66)

・化粧用紅を携帯した方が良い。酔い覚めや寝起きでは、顔色が悪い時がある。こんな時は紅を引いた方が良い

(32)話をまとめる方法

「談合事などは、まづ一人と示し合ひ、その後聞くべき人々を集め一決すべし。さなければ、恨み出来るなり。又大事の相談は、関係なき人、世外の人などに、潜かに批判させたるがよし。贔屓なき故、よく理が見ゆるなり。一くるわの人に談合候へば、わが心の利方に申すものに候。これにては益に立ち申さず候由。

・相談事はまず関係する1人と話し、その後にその他の関係者を集めて決めるべき。そうでなければ恨みが残ることになる。また重要な件は無関係の人や外部の人にひそかに批判させるのが良い。贔屓目がないから、合理的になる。関係ある人に相談したら、自分に有利な話しに傾きがちなので、これでは役に立たない。

(33)成りあがり者には徳がある

「下賤より行為になりたる人は、その徳ある故なり。然るを、氏もなき者と同役はなるまじ、昨今まで足軽にてありし者を頭人には罷り成らず、と思ふは以ての外の取り違ひなり。その位に備はりたる人よりは、下より登りたるは、徳を貴みて一入崇敬する筈なり。」(聞書第二:92)

貧しい身分から叩きあげて高い地位に登った人は、徳を備えていたということだろう。なのに素性のハッキリしない輩と同じ仕事はイヤだとか、さっきまで足軽であった者を私の上司とは認めないとか思うのは間違いである。もともとその地位にいた人よりも、駆け上がってきた人は、徳があるので、より一層尊敬されるべきである。

(34)口は慎め

「人事を云ふは、大なる失なり。誉むるも似合はぬ事なり。兎角我が丈を知り、我が修行を精出し、口を慎みたるがよし。」(聞書第二:103)

・人のことをあれこれ言うのは良くない。誉めることも良くない。とにかく、身の丈を知り、自分のやるべき事に集中し、口は慎んだ方が良い。」

(35)保身は精神を萎縮させる

「今時の若き者、女風になりたがるなり。結構者・人愛の有る者・物を破らぬ人・柔なる人と云ふ様さるを、よき人と取りはやす時代になりたる故、矛手延びず、突つ切れたる事をならぬなり。第一は身上を抱き留むる合点が強き故、大事とはかり思ひ、心縮まると見えたり。」(聞書第二:110)

・最近の若者は女性的になった。好人物、愛想のいい人、角を立てない人、柔和な人を良い人と見なす時代になったことで、万事消極的になり、思い切ったことが出来ない。第一の理由は保身ばかり考えるから心を委縮させてしまっている。

⇒いつの時代も同じ。

(36)老いの繰言と言う勿れ

「巧者の咄等聞く時、たとへ我が知りたる事にても、深く信仰して聞くべきなり。同じ事を十度も二十度も聞くに、不図胸に請け取る時節あり。その時は格別のものになるなり。老の繰言と云ふも巧者なる事なりと。」(聞書第二:134)

・経験者の話を聞く時は、例え自分が知っている事であっても、有難く聞くことである。同じ内容でも10回、20回と聞いているうちに、ふと胸に刺さる時がある。それは特別の意味を持っているはずだ。老人の繰言かも知れないが、経験者の言葉であることに留意せよ。

■最後に

・植物は毎年花を咲かせ種子を作り散っていく。そして翌年も同じことを繰返していく。個々の「個体」は死んでいくが、その繰返しの中で「種」としては進化し生き残ったものだけが繁栄していく。人間は智恵をつけたお陰で死を避け、「個人の生」を重視するようになり、「種(=共同体)」の存続をあまり意識しなくなったようにも思える。
・葉隠が語っているのは、誰もが避けることができない「死」を意識することで、「生」に活力を与え、「種」としての保存をも図ろうという事かも知れない。

以上