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何故世界は今狂っているのか?

現在の世界は混沌としていて、何が正しいのかが判らなくなっています。ポリコレ、ジェンダー、バイデン一家汚職、トランプ・ロシア問題、南部国境問題、FBIや検察の暴走など、アメリカの惨状は目を覆うばかり。欧州では致命的な移民問題、ノルドストリーム爆破の経緯をめぐるドイツ政府の不可解な動き。何が正しいのか判らない、世の中の価値観が狂っていると言うか、崩壊しているように見えます。MSM(Main Stream Media)がこれらを報じることもないので、人々は「何かおかしい」とは感じつつも状況が理解できていないように思えます。なので動きも取りづらい。どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。

これは長い歴史の最後の一コマであろうというのが今回の話です。結論から言うと、現在、世界中の多くの人類が何かしらの恩恵を受けている西洋(=欧米)文化。それを支えているのが西洋哲学ですが、プラトン以来のその政治哲学がニーチェの卓袱台返しで崩壊し、これまでの価値感が崩壊してしまった。そんなニーチェの逝去から約120年、まだその幕が続いているように感じます。

人が社会生活を営む時は何らかの共通理解(=基準)が必要になります。それが無ければ優劣(=価値)の諍いが起きても調停ができないことになります。諍い治めるには絶対価値基準からの距離比較が必要です。ニーチェの卓袱台返しはその絶対的価値基準を崩壊させ、ニヒリズム(虚無)状態を引き起こし、何が正しいのか判らない状態を引き起こして現代に至っています。

資本主義、民主主義、科学、論理実証主義、こんなものまで実は底ではそんな西洋哲学が支えている。日本では、日本型○○主義と揶揄されているが、西洋の○○主義をそのまま受け入れていないので、被害は比較的少なく実感は少ないのですが、欧米では日本人には信じられないことが起こっているようです。

そんなカオスな状態でも人は何かの基準を求めており、そんな隙に侵入してきたのが、様々な悪魔の哲学や価値(=基準)。サヨク、銭ゲバ、(形を変えた共産主義である)グローバリズム。それらの価値争いに解決手段のないまま社会が分断され、お互いが自らの価値の勝利を目指して闘争を引き起こしているようである。それこそ、ニーチェが予言した「力への意志」の時代なのかもしれない。ニーチェは「一切の価値の崩壊した荒野で『力への意志』が姿を現す」と予言している。


しかし、それは西洋哲学の始まりから運命づけられていたと主張するのが「西洋の没落」(シュンペングラー)。これは第一次大戦中に書かれた黙示的な書物で、「1つの文化が成立し、生育し、爛熟を迎え、文明となるが、それが衰退し没落するのは文明の普遍の法則。」とまで言い切っている。
我々には救いはないのでしょうか。
少し過去を振り返ってみましょう。

■西洋哲学の始まり

始まりはプラトン。この人が「イデア」という考えを打ち立てたことから始まる。それ以前はソクラテスの時代。当時は「万物の尺度は人間である」(プロタゴラス)というように物事の価値は人によって異なる時代。つまり真理も人によって異なるから、物事に優劣を付けることもできず、あらゆることが相対的になってしまう。


プラトン

そんな時代を闊歩していたのはソフィストと呼ばれる連中。彼らは真理は語らない、いや語れない。そんな彼らがやる(=できる)ことは、その言論術で人を説得すること、もっと言えば言いくるめることだけだった。彼らは馬を白いとも茶色いとも結論づけることができる。しかし、真理がないということは、言うことがコロコロ変わってしまうということ。言葉が確実な何かに結びついていない。それが政治原理になってしまうと、絶対的基準がないので、百家争鳴からポピュリズムの政治になってしまう。それは政治を不安定にし、争いが生じて、力による戦いを制した者が独裁者となる。プラトンたちはそんな危惧を持っていたようだ。

前述のように、人が社会生活を営む時は何らかの共通理解が必要になる。それが無ければ優劣の諍いが起こっても調停ができないから。諍いを治めるには絶対基準である真理からの距離が必要である。そこでプラトンが考案したのが「イデア」

■イデア

例えば目の前に2種類の机があるとする。色・形は違うがどちらも机と認識されている。それは何故だろう。プラトンはそれは「机のイデアがあるからだ」と言う。イデアとは理想とか真実とか言われるが、机のイデアというのは机の「本質(=絶対的・普遍的価値)」のことである。イデアそのものを絶対に見ることはできないが、物に光を当てると角度によっていろいろな形の影が現れるように、イデアは現実世界に様々な形で現れる。現実に目の前にある2つの机は、そんな「机の本質」の2つの影のようなもので、見え方は異なるが同じ机のイデアから生じている。そんなイデアを此岸(この世)に置くことは出来ないので、彼岸(あの世)に置いたことで、その後ニーチェが卓袱台返しをするまでの2200年もの間続く西洋哲学の重要なコアが成立した。要は形而上学である。

イデアはその後名前を変えて行くが本質的なことは何も変わっていない。要は「絶対的超自然的存在」である。
 ・アリストテレス→純粋形相
 ・キリスト教  →人格神
 ・デカルト   →理性によって認識されるもの
 ・カント    →物自体
 ・ヘーゲル   →精神によって形成されるもの

■ニーチェの登場

私は専門家ではないので、ニーチェについて語るなどと言うことは出来ませんが、彼が果たした役割については、ここまでに記述した事柄だと理解しています。ニーチェの言葉を少し掲げておきましょう。

「最高の価値は崩壊した(=神は死んだ)」

「彼方に捏造した超越的価値を置き、人類を服従させるようなことは健康的ではない」
「そんな価値に服従することに、本当に矜持はあるのか、自尊心はあるのか?」
「そんなのは『奴隷』の道徳にすぎない」

ニーチェは「超人」の登場に救いを求めた。「超人」とは簡単に言えば、上の「奴隷」に対しての言葉で、自らの意思で行動する「人間」と考えれば良いと思うが、しかしそんな「超人」ですら、どこか形而上学的に感じる。

ニーチェの人間観はこんな感じではないかと推測される。
・人間は動物のようにバラバラに生きているのではなく、社会的であり他人と生きざるを得ない
・その結果、自分を他人と常に比較し、他人から認められたいという承認欲求を持つ。
・その承認欲求と他人に対する優越性・支配を求める。
・より大きな価値を求めて争い、自己を高めようとする。
・「より大きなものを目指す絶えざる運動」が人間の本質。つまり人間は強者であろうとし、強者は弱者を支配する。

そのような戦いのエネルギーが西欧文化を作り育ててきたが、闘争を避け享楽を求め始め、その戦いのエネルギーはドンドンと減ってきてしまった。
一方、西洋文化が自ら育ててきた科学の発達などで、宗教的価値がドンドン失われてきたことも大きいと思われるが、私見ですが、決定的だったのはダーウィンの進化論(1859年:種の起源)ではなかったと思える。

■進化論の衝撃

進化論の衝撃については、下記投稿をご覧ください。

https://note.com/masami_tetsuda/n/n5286ab2c1660

要は、
・ダーウィンは神業の設計者なしにありえない進化を巧妙かつシンプルに説明してしまった。
・全体を通してみれば「ありえない」進化を小さな進化の断片に分割し、その一つひとつですらあり得ないかもしれないが、断片にするとそれぞれはそれほど無茶苦茶ではないという形で説明し、その証拠として中間型(現在の我々の視点では完成途上の形態)は動物界の至る所に存在している。
・比類のない仕掛けを持つ「ヒトの眼」が、自然淘汰によって形成されたことを想定するのは、極めて困難かも知れない。しかし例えば、扁形動物は眼を一つ持っているが、人間の眼の半分以下のものでしかない(光と影の区別ぐらいで像は結ばない)。オウムガイはその中間ぐらいの眼を持っている(ピンホールカメラ並)
・自然淘汰はスタート起源も単純で、最終的に単純さから複雑さを生み出すことのできる唯一の過程である。

つまり、神が作らなくても人間は生まれてきた。人間の生死も自然の一部ではないかということ。神の存在が大きく揺らいだ事件であった。

その後、物理学でも大きな変化が現れました。量子力学です。それまでのニュートン力学では始点での初期条件が決まればその後の運動は予測でき測定可能と考えますが、量子力学では、例えば電子を一粒電子銃から発射しても運動量と位置を同時には測定できません。ニュートン力学では問題にならなかった「観測者」の「観測」と言う行為が電子の立ち振る舞いに影響を与えるからです。ニュートン力学では「観測者」はまるで別世界(彼岸=神の位置)にいて、この世(此岸)にいる電子を観測するかのようでしたが、実際には「観測者」も電子と同じ此岸にいることがはっきりしました。

西洋哲学が生んだ科学自身が生みの親を崩壊させていくとは、何と皮肉なことかと思います。

■では、どうすれば?

アメリカでは多くの人が民主党の欺瞞に気付き始めています。本家欧州でも歩みは遅いですが、少しずつ何かおかしいと気づいています。どちらも移民という後遺症からは逃れませんが。

日本に限ると、前述のように、西洋文化をモロに受け入れている訳ではなく、日本型○○みたいに日本流にアレンジしてしまう癖があります。和魂洋才です。それを完全に実施することは難しいでしょうが、何とかやってきた日本人。聖徳太子が変質させた仏教、江戸時代に「忠」と「孝」を同格において変質させられた朱子学。こんな例をこれまでの投稿で紹介してきましたが、そのおかげで被害は軽いかもしれないません。しかし、世界で何が起きているのかが見えなくなってきているかも知れません。

「結局、人間も自然の一部なんだ」というのは日本人の心にある考えではないかということも過去の投稿で紹介しました。結局、西洋のドタバタを避けつつ、このような日本的哲学を見直し、心を浄化することが重要かもしれませんね。
何だか最後は馬渕睦夫さんみたいになってしまいました。(^^;;