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キリスト教は仏教と違って、なぜ日本で「はやらない」のか

仏教は日本にはす~っと入ってきたように見えるのに、キリスト教はいくらゴリゴリがんばっても全く広まらない。でも仏教は広まったと言っても、インドのオリジナル仏教と日本の仏教は明らかに違うというか、もう別物である。この辺りのなぞ解きをしてくれるのが、今回の「受容と排除の軌跡」(山本七平)です。

結論から言えば、「強固な伝統的文化をもつ民族は、外来の思想や文化に接した場合、自らの文化を基準として受容と排除を行う。」ということになります。外来思想を理解しようとするときはどうしても従来の自分の思想を元に理解せざるを得ません。そして、受容と排除の過程を通じて、元あった自分の思想を発展させていくことになります。考えれば当たり前で、そうでなければ、元あった思想は虐殺され、新しい思想に乗っ取られ、それは日本人ではなくなってしまうという事を意味します。

・無視できないのが受容の時の言葉の問題。日本で「神」というと今でも「一神教の神」をなかなかイメージできないと思います。「三位一体」と言って「神、神の子、精霊は同じ」と言われても、簡単には理解できないと思います。そして創造者(一神教の神)は全知全能であり予定説であるというのは、普通の「因果律」頭の日本人には理解が超えています。神に救われることと行い(良いことしようが悪いことしようが)は「そんなの関係ね~、オッパッピ!」なわけですから。
・つまり、「言葉の各単語には、それぞれの文化がその一語に集約され、単語自体が思想を内包しており、それが複雑に結合して一つの文化を表わしている。翻訳は否応なく変質を招来し、数百年後には新しい文化を生み、その中で育った人は別の文化を構成する場合もあるだろう。」という訳です。
・これもいつに間にか乗っ取られてしまう危険がありますね。まさにSilent Invasionの一つです。「いつの間にか」という辺りが恐ろしくて、カオスをもたらします。あれ?今って。

■いくつかの例示

① 仏教:
・仏教はただ中国を通過したわけではありません。その頃の中国には儒教・道教という伝統的思想が既に存在していました。そこに外来思想の仏教が接触した結果、受容→排除→変質→融合→同化→新文化という過程が3~4世紀を通じて行われ、中国では三教合一(儒・釈・道)が成立していました。これが日本に輸入された仏教と呼ばれるものだったわけです。例えば、以前の投稿で示したように、位牌などは儒教由来であるし、お盆も道教由来と聞いています。なので、仏教は日本に入る前から変質していたのでした。
・そして中国の三教合一思想が日本に輸入されて、日本でも同じよう受容と排除の過程が起ったのは間違いないでしょう。日本は稲作文化で、日本的自然に従うことが重要であったと思われるので、常に気候を意識し、それに対応することが必要だった。なので自然法的発想や自然神話的発想があったと想像されます。そこで両者とも自然教的であった道教と神道で合一が起ったのだろうと思われます(神・儒・仏的合一)。それが聖徳太子によって取り上げた仏教ですが、神道には文字で書かれた内容が無かったので、「仏教」という名前が残されたのかなとも思います。
・一神教のように、排他的な宗教はこのような合一には進みにくいのはよくわかります。

② キリスト教:
・この著書で山本七平氏は「不干斎ハビアン」を事例に取り上げています。この名を聞いてピンとくるのはキリスト教関係者だけだとは思いますが、1565年加賀生まれの日本人です。この方については面白いので別途取り上げるつもりですので、ここでは簡単にご紹介します。一旦、京都の禅寺入り恵俊と称しました。1583年にキリシタンとなり、洗礼名をハビアン(巴鼻庵)と称した。1586年イエスズ会に入会、長崎のコレジオ(神学校)で学び、秀吉の伴天連追放令(1587年)などがあったが、1593年に無事卒業してイルマン(パードレ(バテレン)の下にある助修士)となる。1605年の「妙貞問答」を著わし、それは対話形式でキリシタンである幽貞が神道・儒教・仏教を批判し、キリスト教の教理を説いて妙秀を入信に導くというキリスト教の啓蒙書であった。その後、1606年に林羅山との論争などで名を上げた。しかし、1608年に棄教、更に1620年には「破提宇子」というキリスト教批判書を著わし、その直後1621年に死去。仏教徒から始まり一度は日本人の中ではトップクラスのキリスト教徒になり、その後棄教して反キリスト教徒と化したこの人の受容と排除を見るとわかりやすいという事です。

・山本七平氏の結論を言うと、ハビヤンは日本的三教合一論を批判したが、しかしそれは神・儒・仏・基を並べてどれが「使えるか」を言っているに過ぎない。つまり、日本的「自然(ナツウラ)の教え」に使える方法論はどれが適当かということです。
・「妙貞問答」ではキリスト教が使えるから選んだに過ぎず、キリスト教より良いものがあればそっちを選んでいたでしょう。おそらくキリスト教の一部をチェリーピックすることも恐らく厭わなかった。つまり、彼の洗礼→棄教は「変節」ではない。「節義」はずっと変わっていない。
・彼が求めていたのは「国家秩序」。当時、支配階級は自分の身を守るのに精いっぱい、仏教は役立たず(禅宗は幕府の下に成り下がった、曹洞宗は密教化した、浄土宗は諦念し、本願寺は暴力装置になったなど、国家の精神的統合の原理にはならなかった)なので、キリスト教を利用しようとしたということ。

③ 新井白石:
新井白石は潜入修道士ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティへ尋問の記録(「西洋紀聞」)を通じて、彼の受容と排除の記録を残している。長くなるので割愛しますが、結論としては、シドッティの話には「智」(科学的・論理的な部分で「形而下なるもの」と呼んでいた)の部分もあれば「愚」の部分(精神的な部分で「形而上なるもの」)もあり、愚の部分は迷妄で話にならないと判断している。特に「創造主」といいう考え方、即ち「歴史を神が支配している」という考え方であろう。ここでも白石は自身のこれまでの思想の枠組みで判断して、シドッティの言説で「智」の部分をチェリーピック(受容)し、「愚」の部分を排除すべきと考え、「日本的なもの」を維持する方法論となりえないものを棄却しているように見える。

④ 石田梅岩:
・石田梅岩の「都鄙問答」の引用のみ書いて置きます。意味は分かると思いますが、「助けとなるように用いる」と書かれています。
「且仏老荘の教も、いはば心をみがく磨種なれば、舎(すつ)べきにも非す。一度琢(みがき)て後は、仏老荘より、百家衆技の類を寄集め見ても、心は鏡の如し。」
「故に儒道仏道老子荘子に至るまで、盡く此国の相(たすけ)とするやうに用ゆることを可思(おもふべし)」

⑤平田篤胤:
そして、平田篤胤はとうとうキリスト教から創造論を借用し、日本神話を自然神教的に改訂し、神道を神学的なものに変えてしまった。

■これはご参考ですが、「ザビエルの見た日本」(ピーター・ミルワード(講談社学術文庫))には、離日後のザビエルから多くの手紙が紹介されています。その中で日本人庶民の反応が記載されています。

①「人間が救いのない地獄に投げ込まれれることもあり得る」という考えを受け入れ難い。
以下、引用です。宣教師に対する日本人の言葉。
「もし神が善ならば、それほど悪い悪魔などを創造するはずはない。」
「それほど厳しく罰する神は哀れみ深い者ではない」
「神はいったいどういう訳で神を礼拝する人間を世界に送り出しておきながら人間が悪魔に誘われたり苦しめられたりするのを許したのか」
「神が善なら、神はどうして人間をこれほど弱くて、罪に傾きやすく、すべての悪から逃れられない者にしたのか」
「何らの憐れみもなく地獄という牢獄を創造したような神は善だと言えるのか」
「神が善なら、天主の十戒などという難しい掟を人間に押し付けたのか」
「助けを乞うものは誰でも地獄の責め苦から救われるのだと私たちは教わっている。」

②地獄に落ちたものは救えない事に対する深い悲しみ
日本人はキリスト教の教えを知る前に既に亡くなった子供・両親が地獄で悲しい目に遭っていて、彼らを救う道がないことを知ると深く悲しむ。

③神は愛の摂理の基に置かれているなら、なぜ無法な将軍たちを率先して牽制して戦争を終結させないのか。

思想の根本からそっくり変えなければ、理解されそうにはない気がします。

■一民族はそう簡単に変わった例はない

・日本民族も昔から現代にかけて精神が変わったようにみえるかもしれないが、伝統的な「日本なるもの」の発想と規範を維持する為、外的なものの受容の排除の対応が変わっただけのようです。明治維新も戦後も根っ子は同じ。つまり、規範の維持に役立つものは受容し、役立たないものは排除・黙殺する。宗教に限らず、民主主義でも、キリスト教でも、マルクス主義でも、役立つなら薬として使っていい。思想が歴史を作り、歴史が新しい思想を生み、その思想が歴史を作るという過程の連続。しかしその背後には絶対的な「何か、日本なるもの」ものがあるようですが、それは果たして何でしょうか?