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人生はオーディションの連続だ

✒︎✒︎10/7追記✒︎✒︎

このnoteから2か月。808人から選ばれた42人の人生が20通りの喜怒哀楽爆発劇になり、10/17.18の「ルーツ」第1回公演に向け絶賛稽古中‼︎ 今井雅子は10/18(日)の「秋」チーム(15:00-17:00)「運命のテンテキ」と「冬」チーム(18:00-20:00)「私じゃダメですか?」に脚本で参加。

✒︎✒︎10/7追記終わり✒︎✒︎

2つ前に書いた記事、あなたの役をあなたと創るユニバーサル・オーディション「ルーツ」が公開から10日で1万PVを超えた。7月24日の「ルーツ」第1回生配信を見て、他のオーディションと何が違うのか、どんなお楽しみが待っているのか、脚本家として参加している立場から気づいたことを綴ったものだ。

「ルーツ」と「ズーム」が混ざる

第1回生配信の次の週、「ルーツ」のzoom会議に初参加した。みんなより少し遅れて入った部活の飲み会に初めて顔を出した感じ。最初は車座の外側で正座してかしこまっていたのが、足を崩し、輪の中に膝を進め、手酌でいきましょうよとなり、飲み方も口調もほどけていく。あの感覚を味わった。オンラインで。

ところで、「ルーツ」っていい名前なんだけど、油断すると「ズーム」と言い間違えてしまう。どちらもカタカナ3文字で真ん中が音引きで、2020年、わたしの人生に急浮上した。頭の中で近い立ち位置にいるらしく、今も打ち間違えている。お酒が入ったら「ルーツ」と言っているつもりで「ズーム」を連呼してしまう気がする。

zoom飲み会で「映画」の人と「演劇」の人が「なんか一緒にやりたいね」と盛り上がったのが「ルーツ」の始まりらしいし、オーディションもその後の脚本開発も、その先の短編演劇上演配信もzoomが舞台になるだろうから、ごっちゃになってもいいのかもしれない。むしろ前のめりに。

8/1の第2回配信(アーカイブあり)は、ゲストとしてzoomトークにお邪魔した。

まずは自己紹介を兼ねて、

✔︎「ルーツ」での役割(何をする人なのか)
✔︎人生で本気で救われた言葉や誰かを救った言葉
✔︎「ルーツ」に関わったきっかけ

について順番に話した。わたしは、

✔︎「ルーツ」での役割(何をする人なのか)
オーディションで選ばれた人と一緒に、その人の人生を原作にした短編演劇の脚本を作る。
✔︎人生で本気で救われた言葉や誰かを救った言葉
中学1年の担任で美術教師だった先生に「今井には今井の色がある」と絵を褒められた。決して「うまい」とは言われなかったけど、自分らしさを認めてもらった。脚本を書くときも教えるときも、その人にしかない色を引き出すことを心がけている。
✔︎「ルーツ」に関わったきっかけ
映画『子ぎつねヘレン』でお世話になったプロデューサーの石塚慶生さんから「今こんなこと考えているんですよ」と話を聞いて、「面白そうですね」と言ったら、巻き込まれていた。

といった話をした。

映画や企画は人をつなげる天才。「ルーツ」では、メ〜テレの移住促進ドラマ「岐阜にイジュー」の柳英里紗さん(水崎綾女さんとダブル主演)とつながることができた。「イジューは岐阜と」の脚本を書くときに、前身である「岐阜にイジュー」を見て、「岐阜いいな。楽しそうだな」と思わせてくれた柳さん。「ルーツ」には脚本家・演出家として参加。この日の生配信にも出演されていて、画面越しにご挨拶できた。デビューは0歳(お母さんが服飾のお仕事をされていて、赤ちゃんモデルに)、ミニシアター「シネマスコーレ」の支配人さんとのご縁から始まった「柳英里紗映画祭」……聞けば聞くほど面白い人。

名古屋をベースに活動する演劇ユニット「空宙空地」代表の、おぐりまさこさん。劇団『渋谷ニコルソンズ』主宰でリモート演劇の上演回数が百回を超える木下半太さん。札幌から気を吐くアートディレクター(よつ葉乳業のロゴも!)の亀山圭一さん。縁があったり、縁を感じたりして「ルーツ」に集まった人たちの話に、一視聴者として聞き入った。なにせ情報量と熱量に追いつき中の新入部員なもので。

思えば入社試験もオーディションだった

続いては「真夏のオーディション対策」と題して、オーディションでどんなところを見るか(見られているか)、それぞれの立場から話した。

わたしは出たとこ勝負が好きなので、よっぽど「この役はこの人!」がない限り、キャスティングはプロデューサーや監督におまかせしている。広告代理店でコピーライターだった頃のほうが、オーディションに立ち会う機会があった。

ひと通りの質問が終わってから、帰りがけ、ドアを出ようとするのをつかまえて不意打ちに話しかけてみる。「素敵な上着ですね」とか、「雨、降ってましたか」とか。そのときの反応に、その人の「素」が出る。そこで評価が変わることがあるという話をした。

広告代理店時代からの連想で、入社試験のことを思い出した。

最終面接は一騎討ちだった。どちらか一人に絞ると聞かされていた。右隣に座ったライバルは男の子で、東大生で、物静かで、落ち着いていた。わたしは緊張のあまり、いつもよりハイテンションでおしゃべりになっていた。

「うちの会社に落ちたらどうしますか?」と聞かれて、わたしは「留学します!」と威勢良く答えた。その理由もベラベラしゃべった。外資系広告代理店ウケする直球ど真ん中を狙った。決まったと思った。すると隣の男の子は一言、「詩人になります」とだけ答えた。

負けた。あっちのほうが断然面白い。

書類審査の課題だった「3K労働のイメージアップコピー」の話になった(「きつい」「汚い」「危険」の頭文字を取って3K。最近聞かなくなった)。わたしはこれでもかと何十案も出して、こんなに引き出し持ってますよとアピールした。「君が一番たくさん書いてきたよ」と言われ、そうでしょうともとささやかな胸を張った。

対する隣の男の子が出したのは、数案だけだったらしい。「正直、よくわからなかったけど、あの一案がずば抜けてた」と審査員の一人が言うと、まわりの審査員がうなずいた。その一案とは、

この字が読めますか?

というもの。「嘴」という漢字を見て「鶴嘴(ツルハシ)のハシ」だとわかる人はなかなかいない。鶴の嘴(くちばし)に形が似ているから、ツルハシ。その字を読めるのは、その道具を知っているから。「その道のプロ」への敬意が感じられてる。

そうか。これがコピーというものなのか。たちまち自分の書いたコピーの浅さに気づいて、顔から火を噴いた。

「石の上にも3K」「3Kは一日にしてならず」「3Kベリーマッチ」

切り口を見せたつもりが、ダジャレのバリエーションを並べただけだった。やる気は買われたが、コピーは買われていなかった。

落とされるのはわたしのほうだと覚悟したが、「あまりに二人が違いすぎて選べなかった」という理由で拾ってもらえた。バブルが弾ける前、まだ採用に余裕があった時代。応援団チアリーダー部出身という物珍しさと、履歴書にびっしり書き込んだコンクール受賞歴も後押しになったらしい。

コンクール応募で生活費を稼いでいたのは、高校時代のアメリカ留学の影響が大きい。部活に入るのにも選抜があり、「手を伸ばす人にチャンスが用意されているという意味で、競争は平等だ」と知った。脚本家になったのも、コンクールというドアを開けたから。と以前のnote「キナリ杯というドア」に書いた。

留学のチャンスも選抜試験で手にしたものだ。互いを「ロン」「ヤス」と呼び合っていた中曽根康弘首相とロナルド・レーガン大統領が「お互いの47都道府県と50州の高校生を交換するのどう?」「いいね!」となって生まれた留学プログラムに手を挙げた。試験のたびに人数が絞られ、最終面接は確か4人で男の子が一人いた。

「海外の人に相撲をどんな風に紹介するか?」「日本のいいところはどこか?」

質問の答えの中に、他の人とは違う自分の色を出そうとした。短い受け答えの中で、自分を知ってもらおうとした。好きになって、選んでもらおうとした。

あれもオーディションみたいなものだった。

入試や就職の面接もそう。広告代理店時代のプレゼンも。恋愛の駆け引きだって、オーディションと呼べるかもしれない。

人生はオーディションの連続だ。

何かを変えたい。何者かになりたい。そのとっかかりをつかもうと手を伸ばす。つかみ損ねても爪先ぐらいは引っかけて、爪痕を残したい。

「選ばれる」前にオーディションを「選ぶ」

連想がどんどん過去にさかのぼり、時間の地層に埋もれていた出来事や感情が顔を出す。「ルーツ」は記憶を掘るスコップだ。

これからオーディションを受ける人を思い浮かべて、自己紹介を書いてみた。

小さい頃は喘息で、発作になると「このまま死んでしまうんやろか」とおびえた。死ぬというのはどういうことやろか。今目の前の食卓にある醤油差しやお皿は残るけど、わたしはいなくなること。などと考える幼稚園児。絵本を読んでは物語の続きを妄想して現実逃避。  
小学校の校長先生は、今も続く「堺かるた」と児童文芸誌「はとぶえ」を作った別所八十次先生。日本語の名調子と書く喜びを体で覚えたことが、書き続ける根っこに。中学1年のときの担任で美術教師だった吉田恵子先生に「今井には今井の色がある」とほめられた(「うまい」とは言われなかった)ことは「自分らしさ」の根っこを伸ばしてくれた。
高校1年の終わり、職員室の前に貼り出された広告に目を留め、留学プログラムに応募。幼稚園の年長から小学2年にかけて隣人の研究者一家がドイツで暮らす間、インド人一家が隣に住んでいて、海外への興味が募っていました。書類選考、試験、面接と絞り込まれる間、家族には内緒にしておき、合格してから、
「ちょっとアメリカ行ってくるわ」
「いつ?」
「夏から1年」
「なんぼ?」
「タダ」
留学中に20キロ太り(当社比150%)、ホストファミリーは「成長したね。横に」。体重と脂肪の他に一生ものの財産も。部活に入るのにもトライアウトという選抜試験があり、「チャンスは勝ち取るもの」と教えられたことは、後のコンクール応募につながった。
留学中は美術と演劇で半分埋まる時間割を組み、好きなだけ絵を描いていた。帰国して一年下の学年に。3年の文化祭、ブロードウェイミュージカルの来日公演のパンフにあった脚本から『オズの魔法使い』の上演台本を起こし、演出。大学4年の教育実習で受け持ったクラスが奇しくも同じ演目。授業より劇の稽古に燃え、生徒よりも青春。担当教官に「教師に向いていない」とバッサリ言ってもらえて進路の迷いがなくなった。
大学時代は応援団チアリーダー部で歌って踊る日々。「これからは言葉を踊らせます!」と売り込み、外資系広告代理店のコピーライターに。生活費稼ぎのコンクール応募での受賞も後押しに。会社勤めの傍ら脚本コンクールに応募。映画脚本デビュー作『パコダテ人』のチケットを全社メールで売らせてもらい、200枚以上売れた。『子ぎつねヘレン』の北海道ロケ前に会社を辞めることに。「脚本一本で食えるようになったのか? おめでとう。食えなくなったら戻っておいで」。毎日が文化祭みたいで今も大好きな会社。
脚本を書き始めたきっかけは「月刊公募ガイド」に連載されていた新井一先生の誌上シナリオ講座。原稿を応募したら「面白い発想ですね」と手書きのコメントが返ってきて、先生に見込まれたと舞い上がり、長編を書くようになった。新井先生が亡くなった後、すべての応募原稿にコメントをしていたことを知り、当初は見落としていた「B」の評価も見つけた(病身のため力が入らなかったのか、手書き文字の判読が難しくなっていた)。
教師に向いていないと言われたわたしは、その後、学校講演に呼ばれるようになった。勘違いでも自分に才能があると思い込めたら木に登れるし、好きなものは巡り巡ってつながるから、「好き」に向かって走れ!

いくつもの根っこがいろんな方向に伸びている。植物が栄養を求めて根を張るように、好きなもの、やりたいことに向かって手を伸ばしてきた結果だ。

コンクールもオーディションも「選ばれる」ものだけど、チャンスを見つけて自分から手を伸ばすのは「選ぶ」行為だ。「選考される」のは受け身だけど、「選考まで」と「選考の後」は、自分が決める。自分が作る。選考はあくまで転機、転換点。その前と後のほうがずっと大きい。

auditionとは声を聞くこと

手元の辞書で“audition”を引いてみる。

audition  聴取テスト;オーディション(音楽家・俳優などと契約するときに行う)

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audioは「聴覚の、音の」を意味する接頭辞。単語の成り立ちから見ると、auditionは「声を聞く」「聴き取り」に重きを置いている。オーディションというと、「まず写真審査があって、容姿でふるいにかけられる」印象があるが、元々はどんな言葉をどのように放つのか、セリフや歌をどんな風に響かせるのかを聴くものだった。映画やテレビが生まれる前にできた単語なのだろうか。

辞書は、高校に入ったときに買って、アメリカ留学にも持って行ったライトハウス。35年物。表紙ははがれてしまっているが、ページはめくりやすい。

よく見ると、調べた単語に下線を引いている。留学前からの習慣で、留学してからもせっせと引いた。細かい文字に定規を当てて線を引くわたしを見て、ホストファーザーは言った。

「マサコ、線を引きにアメリカに来たんじゃないだろ?」

見渡せば生きた英語教材だらけなのに、日本から持って来た辞書の相手をしているなんて。ホストファーザーはわたしの留学先の高校の英語教師だったけれど、わたしに「英語を教えよう」とは構えていなかった。他の人と同じように「英語を使う相手」になってくれた。

英語を話すのも、演技をするのも、脚本を書くのも、「自分の伝えたいこと」を「自分の表現」にのせて伝えようとするところは共通している。

歌うのも、楽器を奏でるのも、絵を描くのも、料理をするのも。

うまくなるためには、失敗を恐れずに、やってみること。寄り道を面倒がらずに、繰り返すこと。

そして、あんな風になりたいという存在を見つけたら、近づいてみること。真似てみること。線を引いている辞書から顔を上げたら、視界がひらける。世界がひろがる。

「どうなりたい?」「どこに行きたい?」

「どんな景色が見たい?」「どんな景色を見せたい?」

まずは自分の声に耳を澄ましてみる。オーディションは、あなたから始まる。

「ルーツ」公式サイト


目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。