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キナリ杯というドア

岸田奈美さんのキナリ杯に応募する西田梓さんのnoteを応援したくてnoteを始めたことを最初の投稿に書いた(彼女のnoteを応援したくて元応援団員はnoteを始めた)。

梓さんの応募作「言葉から広がる新しい世界」は編集部ピックアップにも選ばれ、鈴なりのプチトマトのように「スキ」を集めている。このnoteを書いている6月3日13時22分現在で281。これがどれだけ愛されている数字であるかは、自分がnoteをやってみてよくわかる。

20代の頃、つき合っていた陸上部出身の彼氏が市民マラソン大会の完走請負人として参加した。わたしも会場ボランティアとしてゴールにある本部で記録のお手伝いをしていた。レース終盤、「完走請負人」のゼッケンをつけた彼がゴールした。完走した参加ランナーに両脇を支えられて。

…という青春の一ページが思い起こされる構図。応援する側が、応援される側の背中を追いかけている。

そんな西田梓さんと「いよいよですね」と楽しみにしている本日14時からのキナリ杯発表。わたしの友人も何人か応募しているし、参加作品もいくつか読ませてもらっているので、知り合いがたくさん出ているコンクールの結果を待つみたいにワクワクしていた。

キナリ杯発表の当日に

とそこに、梓さんから「岸田奈美さんが大変です!」とLINEが入った。

急いで岸田さんのツイッターを見に行くと、「応募作品を読んだ印にスキをつけていたけど、スキの上限があることを知らず、スキが反映されなかった作品がある」という事態に対して、自分の作品がちゃんと読まれているのかという問い合わせとともに、失望の声や運営方法への批判が寄せられている様子。

岸田さんにコメントを寄せた人たちのはやる気持ちはわかる。わたしもかつて「当日消印有効」の消印をもらいに24時間やっている郵便局に駆け込んだけど一次審査通過者の中に自分の名前がなかったとき、応募作品が受けつけられてなかったのではと疑い、問い合わせようかと思った。読んだ作品にはスキをつけることになっていたのに自分の作品が漏れていたら、「読まれてる?」と心配になるだろうし、問い合わせる人がいるのもわかる(実際には、応募作品はリストを作っているので読み落としはないとのこと)。

でも、自分の作品可愛さに賞の運営に口出しするのは、ちょっと待って欲しい。キナリ杯は岸田奈美さんが給付金10万円の使い道として思いついて、後からのってくれる人が次々現れ、賞金はどんどん膨らんだけど、「岸田さんが読んで面白いと思ったものに授ける」というとても個人的で個性的な賞だ。

そこが、100人規模でも手分けして下読みして、絞り込まれた10数編だけを審査員が読んで受賞作が決まる世の中の多くの賞と決定的に違う。

もしわたしが自分で思いついて自分でお金出したコンクールがどんどん大きくなって、でもそのせいで予期せぬミスが起きてしまって、そんなことになるならやらなきゃ良かったのになんて言われたら、心が折れる。好きでやってるねん。機嫌良ぅやらせてと思う。

急いで引用リツイートして、句読点少なめの一気書きで岸田さんにエールを送った。

応募した時点で女神の前髪はつかんでいる

コンクールの応募作にはネタも時間も気持ちも込められている。それは「投資」とも言える。コンクールの結果で投資を回収しようと思ったら、出資者の立場で運営に物を言いたくなる。でも、受賞できる人はほんのわずかだ。では、受賞しない大多数にとって、コンクールは無駄な投資なのかというと、そうではない。

コンクールという目標に向かって書くことで、自分の中に眠っていた物語が掘り起こされて形になる。コンクールに応募することで「自分一人のもの」から「誰かと分かち合えるもの」へ解き放たれる。その時点で投資の回収は始まっている。人によって応募のハードルはまちまちだけど、宿題の読書感想文ぐらいしか書いたことないという人にとっては、応募できただけで祝杯もの。元は取れてる。賞が取れたらおまけ、利息だ。

わたしは函館港(みなと)イルミナシオン映画祭のシナリオコンクールに応募した脚本を前田哲(てつ)監督に見つけてもらい、2002年公開の『パコダテ人』で映画脚本デビューした。その前田監督に言われた。

「運命の女神には前髪しかないから、こっち向いてるときにつかまなあかんねん」

後になってあちこちでこの言葉を聞き、有名なフレーズだと知った。わたしの頭の中では前田監督の大阪弁で再生される。

コンクールはまさに運命の女神の前髪をつかみに行く場だ。同じコンクールが毎年あるわけじゃないし、同じ審査員が次も読んでくれるとは限らない。一期一会の気まぐれ。募集を知り、作品を仕上げ、締め切りに間に合わせだけで「女神の前髪賞」は手にしている。ガシッとつかんで女神にしっかりこっち向かせて微笑ませることができるか、つかんだと思ったらすぐ切れる枝毛だったか、そこは運次第だけど。

challengeの中にはchanceとchangeがある

『パコダテ人』が劇場公開された翌年の2003年、「月刊ドラマ」11月号の「コンクールに挑戦していた頃」という連載に「チャンス!チャレンジ!チェンジ!」と題して原稿を寄せた。こんな書き出しだ。

challengeという単語の中には、changeがある。chanceの2つ目のcに手を伸ばした姿はchangeに似ている。

チャンスが欲しければ、自分から手を伸ばさなくてはならない。「女神の前髪」にも通じるが、そのことを強く意識したのはアメリカの高校での留学中だった。ソフトボール部に入ろうとしたら選抜試験でふるい落とされた。部活やるのにテストがあるのかと驚くと同時に「競争が生む平等」に気づいた。

さまざまな人種や民族が集まる国で、競争は「どんな人にもチャンスはある」という平等を生み出していた。「チャンスが欲しければ手を挙げ、手に入れる」を繰り返すうちに、「自分は何がしたいのか」が見えてきた。そして、「与えられた」のではなく「勝ち取った」チャンスには力を尽くすことを実感した。

その経験があったから、大学時代は「月刊公募ガイド」に載っているコンクールに応募しまくった。ハガキで応募できる標語やキャッチコピーを中心に。バブルの時代、落選してもテレカが送られることが多かった。切手代の50円が500円に化けた。一番高騰したのは交通事故撲滅キャンペーンの提言で賞金30万円に化けた。

交通事故多発のため涙が不足しております。
涙の節約にご協力ください。

東京での授賞式に呼んでもらい、審査員の秋元康さんに「食べにくい人参を食べやすくする」ようなところが良かったと講評された。「おニャン子クラブを手がけた人がわたしの書いたもんほめてくれた」ことが賞金よりうれしかった。

自分の声で読み上げた提言が全国のラジオで放送され、「涙」を伏字にして当てさせる関西のテレビ番組のクイズ問題にもなった。「金」や「血」といった答えが出て、正解者はいなかった。

公募の受賞実績を履歴書にびっしり書き込み、広告代理店にコピーライターとして就職。CMみたいに時に流されず、自分の名前がクレジットされる作品を書きたいと思うようになり、これまた公募ガイドがきっかけで脚本コンクールに応募するようになった。

チャレンジしたからこそ手にできたチャンスとチェンジは、前髪をつかまれた運命の女神からの特別賞だ。

コンクールはドアのようなもの

さらに時は流れ、朝ドラ「マッサン」が終わった頃、NHKの創作ドラマ大賞募集(コンクール応募時代に挑戦していた賞のひとつだった)の対策講座に呼んでいただき、コンクール出身者の立場から話をした。「マッサン」とセットで覚えているのは、羽原(はばら)大介さんと登壇させていただいたからだ。

そのときに「コンクールはドアのようなもの」と喩えた。

その向こうにデビューが待っているドアだ。

頑丈でなかなか開かないドア。背の高いドア。分厚いドア。小さなドア。変わった形のドア。それぞれのドアには癖がある。

どのドアを選ぶか。そのドアをどうやって開けるか。そこに一人一人の個性が出る。

こじ開けようとする人。よじ登ろうとする人。まわり道をする人。鍵が落ちてないかと探す人。そっとノックして、返事を待つ人。

ドアの向こう側にいる人との相性もある。だから、自分に合うドアを探して、そのドアを開ける方法を探って、向こう側へ行けるまで何度でも試みる必要がある。

月刊ドラマに寄稿した「チャンス!チャレンジ!チェンジ!」(全文は最後に)は、こう締めくくっている。

どんな才能も「わたしはここだよ」とアピールしなければ、埋もれるだけだ。どこかに自分と響きあう人がいると思うなら、その人に向かって書き続けるしかない。コンクールはみんなに厳しいという点で平等だし、そこに挑むことは夢を引き寄せることだと思う。

キナリ杯という面白いドアを見つけてチャレンジした人たちに女神が微笑み、チャンスとチェンジが訪れますように。

というnoteをキナリ杯発表が始まる14時前に書き上げようと思ったけど、1時間遅れ。でも、あのツイートからnote1本書けた。目標に向かって書くって大事。

「チャンス!チャレンジ!チェンジ!」(掘り出し原稿)

(「月刊ドラマ」2003年11月号「コンクールに挑戦していた頃」第29回)

challengeという単語の中には、changeがある。chanceの2つ目のcに手を伸ばした姿はchangeに似ている。

高校2年のとき、学校の掲示板で公費留学生の募集を知った。選ばれれば、1年間タダでアメリカの高校に通える!外国への憧れも手伝って応募した。1次、2次と面接を通過するうち、アメリカで勉強したいという思いが高まっていった。最終面接に臨む頃には、何が何でもという気持ちになっていた。

ラブレターを書くことで恋が募るように、チャンスに応募するということで、その夢を強く意識するようになるのだと知った。そして、チャンスを手にするのは、夢見るパワーであることも。

競争社会だと聞いていたアメリカ。学校も小さな競争社会だった。選択した演劇のクラスには、みんなに役をあげましょうという感覚はなかった。欲しい役があれば、オーディションで勝ち取る。英語の発音が悪く、容姿も冴えないわたしにはまる役などなかった。だったら自分で作ってしまえ、と「変な英語をしゃべる東洋人」というキャラクターを作った。その役は採用されなかったが、「マサコはファニーだ」と何人かのクラスメートが認めてくれるきっかけにはなった。

放課後のクラブ活動にも競争があった。中学時代にやっていたソフトボール部に入ろうとしたら、適性審査があるという。2週間のトライアウトの後、選抜メンバーの中にわたしの名前はなかった。

運動会で順位をつけることすら議論になる横並びの国で育ったわたしには、戸惑うことが多かった。だが、さまざまな人種や民族が集まる国で、競争は「どんな人にもチャンスはある」という平等を生み出していた。

「チャンスが欲しければ手を挙げ、手に入れる」を繰り返すうちに、「自分は何がしたいのか」が見えてきた。そして、「与えられた」のではなく「勝ち取った」チャンスには力を尽くすことを実感した。

アメリカ留学での発見は、美術のクラスで「天才」と呼ばれたことだった。日本では小中学校で絵の基本をたたきこまれる。それが思わぬアドバンテージになった。他の日本人留学生も天才呼ばわりされていたと知るのは後のこと。おだてられると調子に乗り、夢中で描いた。「君の絵には独創性がある。想像力をかきたてる。君はクリエーターだ」という美術教師の言葉が自信になった。

日本に帰ると「美術の天才ではない」現実が待っていたが、作品を創りたい衝動は衰えなかった。標語やネーミングに応募するようになり、入賞を重ねた。コピーライターへの道が拓け、広告の世界に飛びこんだ。

シナリオコンクールに応募するようになったきっかけは、公募誌に連載されていたシナリオ講座だった。課題を送ると、講師の新井一先生から直筆の添削が返ってきた。「面白い発想ですね。才能があります」。この言葉に舞い上がった勢いで書き上げたテレビドラマが2次審査まで残った。応募総数3千超から20分の1に絞られた計算。いけるかも、とさらに調子づいた。

2本目の応募作『昭和七十三年七月三日』が函館山ロープウェイ映画祭(翌年、函館港イルミナシオン映画祭と改称)のコンクールで賞を取った。翌年、『雪だるまの詩』がNHK札幌放送局のオーディオドラマコンクールで受賞し、デビューにつながった。映画デビュー作品『パコダテ人』の原作シナリオ『ぱこだて人』も函館のコンクールで賞を取っているが、映画化は受賞とは関係ない。審査員宅にあった応募原稿がたまたま前田哲監督の目に留まったのがきっかけだった。こんな幸運な出会いも、コンクールに応募したからこそ、である。

恩師・新井一先生は一度もお会いできないまま亡くなった。先生は送られてきた課題すべてに返事を書かれていたという。先日読み返したら、「才能があります」とはどこにも書かれていなかった。わたしは何を勘違いしていたのか。でも、そのおかげでデビューしてしまった。命が燃えつきる間際まで見知らぬ後進を励まし続けた先生のあたたかさが、わたしに書く力を授けてくれたのだろう。

シナリオライターへの道は、決して楽ではないかもしれない。だけど、どんな才能も「わたしはここだよ」とアピールしなければ、埋もれるだけだ。どこかに自分と響きあう人がいると思うなら、その人に向かって書き続けるしかない。コンクールはみんなに厳しいという点で平等だし、そこに挑むことは夢を引き寄せることだと思う。

clubhouse朗読をreplayで

2023.3.10 鈴蘭さん

2023.3.17 鈴蘭さん


目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。