ハダカは究極のバリアフリーだ─『喜劇 特出しヒモ天国』に寄せて

MacbookとiCloudが容量オーバーを訴えてくる。Macbookに至っては、「お腹いっぱい。動けません」と一日に何度か凍りつく。画像がたくさん貼りついたファイルを整理したほうが早いのだけど、後から同じものを作るのが大変。いつか使うかもと思うものを断捨離できないから片づかない。でも、捨てた途端必要になるあの現象に備えて取っておく。取り急ぎ、文字原稿で引っ越せるものをnoteに移していこう。

特集上映「脚本で観る日本映画史」

まずは、「月刊シナリオ」2019年1月号(作協ニュース455号)に掲載された「脚本で観る日本映画史」第二弾第3回レポート。『喜劇 特出しヒモ天国』に寄せて書いた「ハダカは究極のバリアフリーだ」。

「脚本で観る日本映画史」は、コロナ禍で中断している日本シナリオ作家協会主催の上映会。ご尊顔を拝めるだけでありがたやな豪華登壇者によるアフタートークつきで1200円という商売っ気のなさ。毎回札止めになる人気で、見に来ている人たちの熱気もすごかった。質疑応答はマニアックで、何十年も閉じ込められていた昔の話が目の前で封印を解かれるような興奮があった。知的で刺激的で無形文化財として閉じ込めておきたい時間だった。脚本界隈の同窓会にもなっていて、関係者試写のような気心知れた感じも。これからデビューする人には、独特の匂いを嗅げる場になっていたと思う。再開、再会の日を心待ちにしている。

「ハダカは究極のバリアフリーだ」 今井雅子

脚本家デビューした頃、「映画を知らなさすぎる」とプロデューサーによく呆れられた。「フェリーニの道を見ておいたほうがいいよ」と言われたとき、フェリーニを地名だと勘違いし、「その道は、どこにありますか?」と尋ねたところ、「ツタヤとか」と答えが返ってきて、「映像の魔術師」と名高いフェデリコ・フェリーニという巨匠監督がいることを知った。

日本映画に明るいかといえば、映画通の友人に連れられて京橋のフィルムセンターで小津安二郎や成瀬巳喜男の作品をいくつか観たぐらい。『喜劇 特出しヒモ天国』もタイトルすら初耳で、会場に着くまで『喜劇 ヒモ出し天国』だと勘違いしていた。

そんな不勉強なヤツが、畏れ多くも『喜劇 特出しヒモ天国』を語ります。

と、まくらはこれくらいにして。

ストリップ小屋の話という情報は仕入れていたのだけど、寺の坊主の説教で幕が開け、のっけから面食らう。ダミ声で死生観らしいものを語っているが、何を言っているのかよくわからない坊主。ありがたいんだか、ありがたくないんだか、よくわからない表情で聞いているおばちゃん、おばあちゃんたち。

墓が並ぶその寺の裏にストリップ小屋「A級京都」がある。「性」と「死」が背中合わせというのが面白い。名前のB級感も良い。

いよいよストリップ小屋。ストリップ嬢役の女優たちの脱ぎっぷりが実にいい。脱ぐ商売だから当然だけど、もったいぶらず、セコい隠し方をせず、バンバン脱いでいる。あまりにハダカが大盤振る舞いされるので、ハダカが普段着みたいな感じで、見るほうもあっけらかんとしてくる。

女たちはそれぞれ事情を抱えてストリップ小屋に流れ着くが、ヒモになる男たちも人生色々、出たり入ったり流れたり。

ローンの取り立てに来たセールスマン(山城新伍)は鑑賞中に警察のガサ入れにあい、社長の身代わりで逮捕され、会社をクビに。そのままストリップ小屋の支配人におさまり、看板娘(池玲子)のヒモになる。因縁の刑事(川谷拓三)は、後に仕返しを食らって警察をクビになり、アル中娘(芹明香)のヒモになる。

夜は大部屋で男女雑魚寝。あるカップルがおっ始めると、他のカップルも次々と。その同時多発交歓会が、くすくす笑いを誘う楽しいシーンになっている。

甲羅から首を出した亀のごとく布団をかぶったままの男たちが、他の男と波長を合わせて腰を振る。ゆったりまったり、船を漕ぐように。ついている音楽がまたそれっぽかった記憶があるが、ここは笑うところですよと和やかにいざなってくれる。ハリウッド映画によくあるモーテルでの娼婦シーンを、荒馬を乗りこなすロデオに喩えるなら、こちらは公園のシーソーのギッコンバッタンのようなのどかさ。原始的で牧歌的で、いやらしさはなく、開放感がある。これが人間のあるべき姿であるようにも思えてくる。

ふと脳裏に蘇ったのは、数年前に見た春画展の光景だ。

超絶技巧の筆で性器を生々しくかつ誇張して描き込んだ男と女の交わりを、話題を集め過ぎて満員電車状態となった小さな美術館で見ず知らずの老若男女とひしめき合って見た。「立派だよなあ」と老紳士が嘆息し、「あなた、負けたわね」と夫人が朗らかにからかう。淑女のグループが「フランスパン級ね」と感心し、ほほほと笑い合う。田んぼで用を足すようなのどかさと大らかさがあった。

春画が描かれた頃の人々も、こんな風に性器や性交をあっけらかんと眺め、話の種にしていたのだろうかと想像した。性というものは、隠すから「イケナイモノ」という背徳感が生まれるのだ。分かち合えば、なんとも自然で平和な当たり前の眺めであり、食事の延長上にあるような生きる営みのひとつなのだと思った。

満員電車状態で春画展を見た、あのときの感慨が思い起こされた。

万葉集の相聞歌にもあけすけに性を歌っていると思われるものがあるし、日本には古来から性を大らかに分かち合って面白がる風土があったのだ。その名残が、この『ヒモ天国』が作られた時代(公開は一九七五年、昭和五十年)にはまだあったのかもしれない。あるいは、ストリップ小屋という閉じられたガラパゴス的世界でのみ、絶滅危惧種的に守られていたのかもしれない。

そういえば、わたしが聞き手を務めて一代記をまとめた日本最高齢(現在九十四歳)の現役助産師・坂本フジヱさんに「セックスは究極の男女共同参画」という名言がある。男と女は、脱げば平等、対等。さらに、凸と凹という互いの特性を活かして補い合うこともできる。

大正十三年生まれのフジヤンは、日本の性が牧歌的だった時代を知っており、「男は振って歩く生き物」「浮気はよそでごはん食べるようなもん」など、大らか発言を連発している。不倫ひとつで大騒ぎする今のこの国のガンジガラメに、まあちょっと落ち着こかと立ち止まらせてくれる。興味がある方は、『産婆(さんばば)フジヤン』(産業編集センター)をぜひ。

不倫を奨励するつもりはないが、『ヒモ天国』は、フジヤンの言う「浮気は外食」に通じる寛容さを笑いで描いており、ひそめた眉を緩めさせる脱力感がある。浮気の現場を押さえられて、「誰やて思ったときには、もう半分入ってたんやもん」なんて言い訳、突き抜けてて最高。

それにひきかえ近頃の映画の性表現のなんと窮屈なこと。脱ぐほうも脱がせるほうも肝っ玉が小さくなって、ガチガチに守りに入っている。ここまでは見せられる、これ以上は見せられないという契約の攻防に縛られていては、『ヒモ天国』のような伸びやかな「春画映画」は作れない。老若男女でガハハハと笑い飛ばせたら、健康爽快、寿命が伸びそうなのに……と妄想。その場合は、ぜひ爆音上映で。

わたしにとって、『ヒモ天国』でのもうひとつの収穫は、この猥雑でぶっ飛んだ群像劇で、ろう者の夫婦が存在感を放っていたことだった。

手話を学んで六年になるが、ろう者が登場する日本映画はとても少ない。最近では、『湯を沸かすほどの熱い愛』(16年 脚本・監督=中野量太)でガンを患っている主人公(宮沢りえ)の娘(杉咲花)が手話でろう者に道案内をする場面があり、それが彼女の出生の秘密につながる伏線になっていたのが新鮮だった。マンガ原作の劇場版アニメ『聲の形』(16年 脚本=吉田玲子 監督=山田尚子)はヒロインがろう者で、手話のセリフが飛び交う。だが、年間に何百本と公開されるなかで、埋もれてしまう数だ。

昔の日本映画でいえば、太平洋戦争後の混乱を生き抜くろう者の夫婦を描いた『名もなく貧しく美しく』(61年 脚本・監督=松山善三)が有名だが、ろう者が通りすがりでも背景でもなく登場人物の一人として物語に組み込まれている商業作品は、なかなか思い出せない。(わたしの勉強不足のせいもあるので、ご存知の方はぜひお知らせいただきたい!)

『ヒモ天国』では、ストリップ小屋に出前を届けるろう者の夫(下條アトム)が、「子どもが欲しいので、妻をストリップ小屋で働かせたい」と支配人に訴える。支配人は手話がわからず、筆談も交えてのやりとりになるが、夫婦の表情を見て、窮状を理解する。相手がろう者だからという同情ではなく、「困っているならうちで働きな」と他の人に接するときと同じ温度で請け負う。

ストリップ小屋の女たちやヒモたちも、流れ者だったり、ワケアリだったり。弱い者同士、困った者同士という意味で「対等」なのだ。

ストリップ小屋でのデビューを控えて、ろう者の妻(森崎由紀)の稽古が始まるが、音楽が聞こえないので、音と踊りがずれてしまう。このときも「聞こえないならストリップは無理だ」と切り捨てるのではなく、「どうしたら踊れるか」と頭を悩ませる。

リズムを体で覚え、いざ初舞台。レコードの音が途切れたのに気づかず、踊り続けるろう者のストリップ嬢に、観客は最初ヤジを飛ばす。だが、非常事態が起きているらしいと気づいた彼女の懸命な踊りの熱に圧倒され、拍手喝采となる。

バリアフリーなどという言葉が浸透するずっと前の時代、ろう者や障害者の前に立ちはだかる壁は今よりも高く厚かっただろうと想像する。その壁を取っ払うのは、昔も今も、面白いものは面白いと認める分け隔てのなさなのだ。

そもそもストリップはハダカ。ハダカは丸腰、非武装。何も着けていないという意味では、ハダカ同士は平等、対等。ハダカは究極のバリアフリーといえるかもしれない。

交通整理の旗振りをする容姿端麗とはほど遠い、端的に言えばデブなオバサン(松井康子)がヒモになりたい大工(藤原釜足)にスカウトされ、旗振りで股間を隠す芸でステージに立つというエピソードは、誰でもライトを浴びる夢を持てるストリップ小屋の懐の深さを感じさせる。ストリップ嬢の中には、性転換美女(カルーセル麻紀)も。男と女に二分割できない多様な性も大らかに受け止める。

平等と言えば、人がいずれ死ぬという宿命もまたしかり。生まれて、流れて、死んで行く。人間なんて、人生なんて、こんなもん。何を言ってるのかよくわからないダミ声の坊主は、多分そういうことを言っているのだろう。

ラストカットは、またしても逮捕されて移送されるアル中ストリップ嬢が移送車の後ろの窓越しに外の世界を見据える挑戦的な顔のアップ。芹明香の瞳には、何日か臭い飯を食ったら、また出てきてバンバン脱いでやるという意志が宿っている。その真っ直ぐな視線が観客をとらえ、残像がしばらく残る。あんたも、きれいごと書いてるんじゃないよ、きれいにまとめようとしてるんじゃないよと喝を入れられた気がした。

脚本(山本英明さんと共同執筆)の松本功氏を招いてのアフタートークが、これまた面白かった。聞き手の佐伯俊道氏のストリップ愛の深さに引き込まれ、松本氏のぼやき節(脚本家が振り回されるトホホな実感がこもっていた)にうなずきつつ大笑いした。質疑応答で出される質問と引き出される答えを聞いて、なるほどそういう見方もあったかと勉強になり、もう一度観たくなった。日本映画をもっと知りたいという好奇心と熱気渦巻く客席に三時間ほど身を置くだけでも、大いなる刺激を受けられる。大御所脚本家や監督の姿が客席のあちらこちらに。その中に、この作品の森崎東監督も。

こんな贅沢な映画上映会、他にありませんぜ。

『喜劇 特出しヒモ天国』も「月刊シナリオ」もamazonに

この作品、ほんと面白いのだけど、古い作品だし、DVDにはなってないかも。と調べたら、amazon primeで300円で観られるではないか!

しかも9月に東映チャンネルで放送されていた!またあるかも。

ちなみに「月刊シナリオ」もamazonで買える。もちろん本屋さんで指名買いできる方はぜひそちらで。映画一本観るよりお得な定価1,210円で封切り作品や掘り出し作品の脚本を読めるし、脚本家の作劇術も盗めるし、読みもの、知的刺激物として満足感高し。「脚本ってどう書くの?」を知りたい人には、生きたテキストになる。わたしは初めて脚本を書いた時、月刊シナリオを買って、倉本聰さんの脚本を見て、「こう書くのか」と見よう見真似で書きながら書式を覚えた。


目に留めていただき、ありがとうございます。わたしが物書きでいられるのは、面白がってくださる方々のおかげです。