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つながりのシンクロ現象

自分を律するには理性が必要。こころをノーマルな状態にしておくことを意識して、開いていないとそれは入ってこない。理とはことわりと書く。秩序やルール、法則。その性質を知っている知の性質が理性。

今日昼間ふと思いをよぎった人が、夕方めったにのらない電車に突然乗ってきて「!?」と焦った。軽く挨拶だけして終わったが、偶然会うなんて。
切に会いたいと思った人にはなかなか会えないが、ふと思い出した人には会う。たまに思い出したかどうかわからないが、なんでここに?という人にも会う。

シンクロ現象が起こっている?

しかし、そういう現象はコントロールできないし、そのあとその人と会ったからと言って大した進展もない場合がほとんどだ。

だけど、シンクロニシティは面白い。なんとなく何かを受信している気がする(笑)。

目に見えないものから普段影響を受けていることについて、科学文明のポジションでは否定している一方、民俗文化レベルでは認めている。高層ビルの中にある神社みたいな心象風景だ。

こころは実はノーマルな鏡面のような状態だったら、生きものの存在として、全体の何かとつながる機能が標準装備されているのではないかと思うときがある。
シンクロ現象はその結果のひとつだ。
自然界の動物たちもこういうものでつながっていないと進化しないよなと思ったり、個体の気づきでだけでは自然界の生態バランスが取れないよなと思う現象が起きていたりする。

自然界の動物たちはいろんなことがシンクロして成立している。

人間の場合は、こころが不安になったり、そのストレス処理の影響で、そういうものとつながらなかったり、つながっているけどいびつだったりして、全体とつながる通信の状況がよくないことが多いのではないかな。

昨日、アンガーマネジメントの研修なるものを受けた。怒りは二次感情だから怒りに到達しないよう、反射をしないという手続きを行うそうだ。怒りの度合いを計ったり、いまそれは自分でどうにもならないことなのかを判断したり、根底にある「べき思考」を見直したり。そうして、自分の責任で怒るか怒らないかを決めるのだという。
今朝からパートナーの言動にイライラしたので早速試してみたら、わりと効果があった。そして、その日のうちにシンクロ現象が発生した。突飛すぎてあまりにも関連付けすぎなのかもしれないが、怒るということの背景にある不安を最小限に収めることができて、無用に心が乱されずに過ごせた結果、思いのノイズがあまり発生せずに、こころが平静でその場その場を楽しむよう意識した分、シンプルに何かを受信できてシンクロ現象につなったのではないだろうか。

うん、そういうことにしておこう。

いろんなネガティブな感情の奥にある、欠乏感や喪失感をコントロールしていけたらそういった本来生物に備わっている、つながりの機能が回復し始めるのではないだろうか。

うん、そういうことにしておこう。そして、シンクロ現象に多く出会うということを昔から「あの人は運がいい」といってきた。
僕はそういう考え方もまた物語としてありだと考える。人は主観的な物語で救われるのだから。

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