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便利さは人を遠ざけることを可能にしたけど、幸せは歩いてこない。
自分が見える範囲でしか物事はとらえられない。本当は違うかもしれないのに、そこだけで判断してしまう。
昔は病気や不幸やいろんなものは神様にお願いし、祈ったり命がけでお参りしたり、ありがたいお経やお守りを受け取りにいくことで解決を目指してきた。やれることはやったという気持ちの収め方だったのかもしれないが、そういう、
よろず神様ワンストップの時代
から、
さまざまな分野で科学が台頭し、神頼みの神社は都会では高層ビル群の中にある、
「逆ぽつんと一軒家」状態
になってしまった。
科学の進歩は楽で便利になっている反面、幸せになったのかと問われたらわからない。いや、幸せになってきているはずだが、生きることにプレッシャーを感じる。不便さを理由に逃げられなくなる。
「すみません、電波が届かないところにいないといけなかったので」
とかね。
科学を否定するわけではない。ただ、便利になるというのは手段が充実するということだ。
便利になったから改めて聞くけどどうしたい?と聞かれると不安になる。
便利になればなるほど、人のわずらわしさから遠ざかっても生きていけるようになる。
人に合わせることなく、合わせなかったら境界線を犯そうとする輩たちからも遠ざかって、生きていけるようになる。快・不快を基準に選択していける。
しかし、そのレベルで生活をしていて、ふと、幸せとは何かを考えたときに、どうだろう?
自分の中に足りないものをインストールしないと変化は起こせない。インストールしますか?と聞かれて、「YES」をクリックするときの不安やだいたい読み飛ばす規約に秒で同意する怖さ、その後の不具合が出たときの対応を考えると、旧バージョンのままでいいわ、と思ってしまう。
誰か教えてくれる人がいたら大丈夫なんだけど。
人間の場合は新たな自己をインストールするとなるとそれは、どこから入手するか?
ひとつには誰かと出会うことで生じる「関係的自己」が挙げられる。
「この人といるときの自分は好き」「この人みたいになりたい」というのはすでにその人と関係している新たな自分をインストール済み、ということになる。
人と出会って対話を重ねて自分を変えていくこと。
自分を変えていくというより、新たな自分を発見するという感覚のほうが近いか。
この世界は表現の世界だから、
自分の中のものを表出して味わうということかな。
そのために、出会いと対話という機会や行為が必要。
便利さはこれまでよりも人を遠ざけることを可能にした。それは、個人の快・不快や安全安心を判断基準にした結果だけど、つながり自体を弱くさせた。
自分の中の善きものを表現するために、
出会いと対話が必要な時代になっている。
自分の中の善きものの結晶、あるいは根源を人格化して表出させたものを昔の人は「神さま」と呼んだのだ。存在したのは神さまが先かもしれないが(どちらが先とか時間の概念が神様の世界にあるのかもわからないが)、
少なくとも自分が生きているこの世界では、善き自分をインストールして、再起動するためには祈りが必要。
そして、引き寄せの法則を利用して善きものと出会い、自分の中のそれを表出していける幸せを感じたい。
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