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その人が新たな人に出会う力や機会を、支援の枠の中で操作できると思ってはならない。#相談支援専門員

ある人から言われた。あるげんてさんが利用者にかかわると、その利用者があるげんてさんに担当を変えてほしいという。支援にあるげんてさんの色がでているから、誰もあるげんてさんのようにできない。それがいいのかわるいのかわからない、と。

 正直、がっかりした。誰がかかわっても均一なサービスを提供することはできない。対人援助の仕事なら特にそうだと思っている。
 もちろん、ルールやコンプラを破って接しているわけではない。現担当をないがしろにもしていないつもりだ。理論に基づいて、根拠のあるかかわりをしているし理由も説明もできる。そういうベースがあり、自分のノリが入ってくる。金太郎飴のようにどこを切っても同じ顔の支援者はそこにはいない。福祉の分野にかかわらず、一般の会社とてそれは同じだろう。


ところが、代替え可能な支援を提供しないとその人がいなくなったら生活が成り立たないという考えがある。その結果、特別な支援は要らないという理屈。特別で個別な支援は甘やかしになるんじゃないの?あるいは、あとは自己責任でやってくださいという展開。


手続きや制度運用ならそうだ。しかし、人と人が交わる領域では、支援する側のカラーや個性も当然社会資源としては必須になる。


 ああ、そうか。障害分野はフォーマルサービスをたくさん利用してマネジメントする傾向があるのだ。生まれたときから専門機関にお世話になっていたり、地域で孤立し、病院という専門機関が関わってまるがかかえになり、他から生活が見えなくなってしまう人もいる。

結果、専門家が地域のつながりを分断してきた。そんな文化で育った支援員は、専門的かつ継続可能なサービスをマネジメントして安心を抱く。地域のボランティアやご近所さんの活用は不慣れなのだ。そして、支援者の「個性」の部分も社会資源と捉えたら、その類に映るのかもしれない。


専門的、かつ継続可能なところを担保にしたフォーマルサービスは、一見安心ではあるが、利用者の多様性をエンパワメントし生きる力を養っているのか。

 インフォーマルな資源で、たとえ消えてなくなるかもしれないかかわりでも、その人の中に内在化するものはある。

自立した生活=変化のない生活ではない。変化の中で過去を一緒に振り返る存在があれば、また前を向けると思うのだ。
個別にかかわる者という存在は、そういうポジションにいて対話を重ねる者であって、代替え可能で紋切り型の支援を提供する者ではない。


 そして、その人が新たな人に出会う力や機会を、支援の枠の中で操作できると思ってはならない。支援者はそんな価値観の中にいて知らず知らずにいて自立を管理している。

支援者は、コンプライアンスを意識して、その枠の中で声を大きくするかしないかを気にしているだけで、その枠について考えない限り、権利侵害をしていることには変わりない。


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