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映画『星の子』を鑑賞してわきあがる気持ち、感想。宗教、信仰、家族、そして――信じる。

映画『星の子』(主演:芦田愛菜、監督:大森立嗣)を観てきた。周囲から「怪しい宗教」と呼ばれる教団で熱心に信仰する両親のもとで育った子・ちひろ(役:芦田さん)。彼女は、宗教と人間関係をめぐるさまざまな葛藤を抱えるも、その怪しい宗教を信じるよう自らに念をこめ、同時に両親を信じ続ける。それゆえに悲しくも生まれる彼女の感情のもつれ・悲哀が、本作ではゾッとするほど淡々と描かれていた。ネタバレなしで以下に所感を記述する。

あらすじ、前提を少し述べる

ちひろは生まれながらにして病弱だった。新生児の頃から謎の発疹に遭い、両親は苦悶する。そして、すがるような思いで特殊な効能があるとされる「水」(教団発売)を手にする。ちひろにそれを使うと、病はよくなっていった。以来、その功力を信じた両親は「怪しい宗教」に入会(作中表現)し、信仰に没入していく。わが子を愛するがゆえの入会だった。だが、その宗教は教団"外"の人からすれば気持ち悪いものでしかない。ちひろは成長するにしたがって、教団内の「普通」と、それ以外のあらゆる人たちの「普通」との違いに気づき、悩むようになる。ちひろは宗教を、「水」を、信じていた。それがゆえに彼女は悲劇の連鎖に巻き込まれることになる。

映画の内容については少なめ、これくらいにしておこう。

水からの伝言、水からの語りかけがあるとしたら

「ありがとう」と呼びかけた水は美しい氷の結晶になる。「ばかやろう」と呼びかけた水はいびつな結晶になる。そんな話がむかし流行った。結構な人がこれを「素敵な話」と受け止めた。一方で「そんなの疑似科学でしょ。怪しい」と言った人も大勢いた。

ここで、「ありがとう」と呼びかけた水が万病の解決や健康に役立つと信じられていると仮定しよう。その「ありがとうの水」を信じた人は、健やかであろうと考え、その水を常に携帯し、病になれば水を飲み、体に水をかけるようになる(とする)。高熱がでても、「ありがとうの水」を頭からかぶり、そのまま乾かしもせずに眠りにつく。普通であれば「そんなことをしたら体が冷えて、むしろ風邪が悪化するよ」といぶかしむかもしれない。しかし当人は風邪が治ると信じているし、本当に治ってしまうという経験もするようになる。そんな人に

「ねぇ、それ、変だよ。やめなよ」

と言ったらどうなるか。もちろん色々な反応があり得るだろうけれど、指摘された瞬間に「そんなことないよ。試してみなよ。本当に体が元気になるから」「飲んでみる?」「これね、科学的にも正しいって証明されてるんだ。『波動測定器を使って情報を転写した水からは、いつ誰が実験しても同じ傾向が現れる』。これは世界的に著名な学者が書いてたことなんだけど、新しすぎる話だから、まだみんな知らないんだ。でも、本当だよ」と、まくしたてるように語りはじめるかもしれない。

気がつけば信じさせられてしまっている子

その「ありがとうの水」の力を信じた両親に育てられた子はどうなるか。「水」の力、水からの伝言を信じて疑わない親の姿が視界の多くを占める幼少期に、その信仰は身体化され、「あたりまえ」なものになっていくだろう。他の家の子との交流が始まる頃には、その子は他の家の子たちに「水」の話を自信たっぷりに語るかもしれない。やがて中学生になり、高校生になった時にもそのテンションを維持していたらどうなるか。授業中には常に机に大きな水入りペットボトルを置き、高熱がでて先生から早退を勧められた時には「大丈夫です。だって、この水がありますから」と言って頭からその「水」をかぶったらどうなるか。先生は、他の生徒は、あっけにとられ、やはりいぶかしむだろう。「この子、ちょっと普通じゃない」「キモい」と。映画『星の子』の「怪しい宗教」は、明らかな怪しさゆえに、上記のような事況を数倍にして、世間との軋轢と悲劇を生む。

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映画にでてくる信者たちは、相当に、相当に"怪しい"。その宗教の「儀式」を目撃した数理専門の男性が「頭おかしいんじゃないの」「二匹いるよ、あそこに」と言うくらいに、その存在は異次元で理解不能、普通の人からすれば「ヤバい」存在だった。だが、ちひろの両親はそれが正しいと信じて疑わない。

壊れていく友情、親戚関係、そして恋

仮定的に先に述べた「ありがとうの水」も、これと同じレールの上を走る話だ。「水」を信じる両親の信仰を「気がついた時には受け継いでしまっていた子」は、自分の意思とは関係なく、周囲の「頭おかしいんじゃない?」という視線にさらされる。極端な話、学校では「おかしな信者」として孤独に追いやられる。無視される。いじめられる。だが一方の両親は、好奇な目にさらされていることに気づかず、「善意」で親戚などに布教する。縁戚の葬儀も、両親は「水」のセミナーに行くといって平気で欠席する。なぜならそれが「正しい」から。

映画とは別様の、「ありがとうの水」の仮定の話をもう少し続ける。

「水」を信じる両親は、中高生になり、恋をするわが子に対して「相手の子、家に呼びなよ」と言って布教のとば口をつくろうとするかもしれない。信者以外の人は、布教の対象として見られる。子どもは、それに徐々に違和感を抱くが、もはや身体化された怪しい信仰は、キモい所作・振る舞いとしてその子にも現われてしまう。だから友人・知人から奇異の目で見られ、疎遠になっていく。善意の布教。その熱狂。止めようとする親族とは争いが絶えず、親戚関係は壊れる。恋も、信仰的な溝で、これ以上ないほど残酷な形で壊れていく。明らかにキモい宗教に染まっている人に恋心を抱き続けるのは困難だ。普通の人は「ついていけない」「デカいペットボトルを常に抱えるこの子と一緒にいるのは恥ずかしい」と思って、離れる。かくして「ありがとうの水」を信じる子の恋は、実らないどころか世間との溝をつきつける残酷な場となる。

絆という鎖に自らつながろうとする心理

それでも、それでも子どもは、「何か変だ」と思ったとしても、両親との絆や「ありがとうの水」に救われたという原体験を抱きしめ、「水」を信じようとする。信じることが免罪にでもなるかのような感覚で、逆に信仰に気持ちを向けようとする。それが親への恩返しだとも思う。しかし、生まれた時から「ありがとうの水」が「そういうもの」で「あたり前」として育った子にとって、あらためて「信じよう」とするのは難しい。そもそも自分はこれまで「本当に」信じていたのか。今は信じていないのか。ただ信じたいだけなのか。自分の過去を否定するようで怖いから信じるのか。両親との絆が壊れるかもしれないと思って信じようとするのか。それが、感覚的にわからない。どこに信/不信の線があるかが、まったく見えない。それは、自らの意思で「水」を信じた両親にはわからない葛藤だ。子どもは生まれながらにして、自分の意思とは関係なく「水」に接し始めているので、「信じよう」と意識した経験が過去にあまりにも少ない。

だからこそ「水」への「信」が揺らいだ時、「信じる」ということの感覚的な「わからなさ」が前景化する。それは、ひどく苦しい。

親の愛。子への愛。それは信仰と重なる部分がある。だから、「親の愛は望むけれど信仰的な愛は拒否する」ということが容易にはできない。それゆえ同時に到来する二つの愛に、子どもは引き裂かれてしまう。時には「親の愛」の体裁をなしてはいるものの実際は「信仰の愛」が前面にでていて、子どもが信仰に利用されている、そんな事態にすらなる。産まれた子をすぐに入会させる事態は、多かれ少なかれその要素を含む。

恋に破れ、傷つき、精神を病んだわが子に、親はやはり「ありがとうの水」をかけるだろう。その時、子どもはさらに精神的に追い込まれる。「信仰のない親だったら、もっと素敵な"普通"の愛があったのかもしれない」と思う。だが、もはや"普通"がわからないので、結局、子どもは親の愛と信仰ゆえの愛の「引き裂かれ」に戻っていく。それは、苦しく、悲しく、切ない。そして、その輪廻からは、まず逃れられない。

芦田愛菜さんが語る「信じる」ということ

"普通"の人からは、「水」には効果がないように見える。しかし信仰者は、それを受け止められない。信じている「水」から裏切られるのが怖いからだ。「水」に意味がないのだとしたら、それまでの自身の人生にも意味がなかったことになる。少なくとも信仰が、そう思わせる。

「水」を信じる親のもとに生まれた子は、親に裏切られるのが怖くて、「水に効果がないかも」という思考を消し去ろうとする。親への裏切りを考えるだけで、まるで首筋にナイフの刃先を突きつけられたようになる。

映画『星の子』の話に戻ろう。

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ちひろを演じた芦田愛菜さんは「信じる」ことについてこう語っている。

「そもそも信じるってどういうことなんだろうと思いました。そして、ときにそれは、その人のことを信じていたのではなく自分が期待している人物像だったり、自分が期待している結果を望んでいただけだったりするんじゃないかな、と思いました。だから、期待を裏切られたとか、その人を信じていたのにという言葉が出てくるのかな、と」(※1)

誤解を恐れずに言えば、宗教は熱狂的な信者の期待を裏切らない。なぜなら、事故や病気や、嫌なことや災難もすべて「意味があること」で、全部が福音だと信じられるからだ。最終的にはすべてが"功徳"に還元される。だから、その物語に心酔している人は、宗教から裏切られることが原理的に「ない」。

一方、宗教を信じる人、周囲の人は、信者を裏切る。裏切ることがある。宗教内の人の裏切りならまだいい(信仰感情的に許されるなら)。宗教"外"の人の裏切り、あるいは宗教の"外"に"逃避"した脱会者の裏切りはこの上ない「悪」であり、その人は「悪魔」とすら見做される。そのようなものを見聞きした信者は、ますます外部の人を「救ってあげなければならない『低い』人」「救い難い愚者」「世は濁悪」と見るようになる。そして、「人間」よりも「宗教」を、「家族の絆」よりも「信仰の絆」を善意のもとに重視するようになる。そうなった信者は、世間との間でさらに摩擦を起こすだろう。しかしその摩擦は、世間が愚劣ゆえに起こるものだと信者は信じて疑わない。

『星の子』の両親も、子どもを善意で入会させてしまう。宗教の文脈でいえば、退会が悪魔の所業になるのなら、もう、その宗教からはほぼほぼ抜け出せない。抜け出せば地獄だと思わされている。子ども自身の意思で入会したわけではないのに。両親は、良かれ正しかれと思って子どもに信仰を伝えるのだが、それは「子のためを思って」だったとしても、結局は親のエゴでしかない。そのエゴによって、『星の子』のちひろは人生を振り回されてしまう。もし僕がちひろなら「なぜ、こんな家に生まれてきたんだろう。なぜ、なぜ」と問うと思う。ちひろはどうだろうか。中学生のちひろは、ただただ訳がわからず、茫然としているのだろうか。

「信」が暴走する時の狂気と悲劇の種は身近にある

芦田愛菜さんは「信じる」についてこうも語っている。

「今まで信じていた人の思わぬ一面が見えたとき、それをすべて受け止める決心ができる、受け止めて揺らがない軸を持てることが、本当に"信じる"ということなんじゃないかなと思いました。でもそれはすごく難しいことだとも思います。私たちは周りの環境や意見にすぐ左右されたり流されたりしてしまう。ではどうして人は"信じています"と伝えるのかというと、やっぱり不安な自分がいるから、見知らぬ部分が見えたときに受け止められる自信がないから、口に出して言うことで自分が期待している結果や信じたい相手にすがりたいのかな、と。今回、ちひろを演じるうえでの役作りを通して、そういうことを考えていました」(同)

そうかもしれないし、そうではないかもしれない。私自身「信じるとは何か」を追求してきた。自身の信を吟味し、あるいは小林秀雄の「信ずることと知ること」を読んだり、ウィリアム・ジェームズの『信ずる意志』を読んだりして、思索した。サンスクリット語は高い解像度で「信じる」を言語化していて、「信」にも「śraddhā」「prasāda」「adhimukti」「bhakti」など多彩な語彙を持つ。もちろん、それぞれに信のニュアンスが違う。しかし、梵英辞典やサンスクリットの仏典をどんなに読んでも、信は定義できなかった。せいぜい、僕が感じている「信じる」という感覚とはほど遠い比喩に出合うだけだった。答えは、ない。

だが、私たちは日常、さまざまなものを信じている。宗教的信念という強いものから、一緒にエレベーターに乗った人が急に襲ってくることはないという弱い(ほとんど無意識の)信まで、いろいろなものに信を置いている。その信は、「自分を信じて」「家族を信じて」「未来の希望を信じて」と美化されることがある。それとは反対に、信は恐ろしい狂気にも変わる。僕は、さまざまな宗教の二世・三世の人生が信仰ゆえに狂ってしまった、崩壊してしまった現実を目の当たりにしてきた。ある宗教幹部が周囲の末端信者の目線を気にして(信心があるはずの幹部の家なのに、と思われたくなくて)子の難病を隠し、家に隔離し、最終的にはその子が自殺するという事態にも遭った。僕は、その子の唯一の相談相手だった。

宗教と家族、周囲の人々。その関係性を淡々と描くのが『星の子』だ。あえて淡々と描かれたのだと思う。なぜなら「信」はあたり前に日常に存在するから。映画は特異な宗教の話だけれど、信が暴走する時の狂気と悲劇の種はあなたの隣りにも植わっている。監督・大森立嗣さんは、たとえば信仰愛と家族愛の争い、それに引き裂かれるちひろの心の置き所をどこに持っていこうとしたのだろうか。ぜひ作品を観て、自身で確かめてみてほしい。

(※1)記事元は以下



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