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涙するあなたは誰よりも希望の意味を知る|連載『「ちょうどいい加減」で生きる。』うつ病体験記

この記事は、匿名質問アプリ「質問箱」を介して寄せられた人生相談に対する私の応答文(前回記事に前半を掲載)の「つづき」です。前回と合わせてお読みいただけたら幸いです。質問者さまからの相談は以下のとおりです。

Q.今年49歳になります。長らくうつ病です。仕事もロクにできず、親の介護も始まります。無惨な生活にすべてが手遅れだと感じています。

いまの自分と苦境の間にゆるい関係をつくる

A.(私の回答) 理想論に聞こえるかもしれませんが、私はなにごとも、始めるのに「遅すぎる」ことはないと考えています。私が36歳からの"社会人デビュー"だったから、そう感じるのかもしれませんが、私は、苦しいことが続いたときに、それらは次に始める「仕事」の準備運動なんだと思うようにしています。

お断りしておきますが、「仕事」といっても、ワークやタスクの意味ではありません。生きる営みみたいなものです。その「準備」ですから、停滞とは違います。後退でもない。立派な「歩み出し」です。

私は、もし自分がズッコケたとしても、まずは「つまずいて転んでいる状態」と「いまの自分」との間に「ちょうどいい関係」を築くようにと努めています。どういうことかというと、「この状態はマズイ」とか「この状況は最悪だ」というふうにすぐにジャッジしないことです。「考えれば考えるほど、最悪だ……」という負のスパイラルに陥る前に、価値判断はしないようにする。で、とりあえず現状を眺める。そして、「あ、俺、コケてるわ」と自らをちょっと突き放して見つめながら、ゆるく向き合うのです。これが「ちょうどいい関係」です。

悲観は気分。楽観は意志

もちろん「つらい」「苦しい」と感じて、悲しい気分にひたることもあります。それはそれで、仕方がない。そのときは、しんしんと、無理のない範囲で悲しい気分と向き合います。抵抗せずに行きましょう。ここも、「ちょうどいい加減」の関係でいいです。「この悲しい状態はダメだ」とジャッジせずに、時が来るのを待って、悲しみからの上り階段をどう登るか、考えます。

私ができたことは、ただただ、うつ病そのものを、次に始める仕事の入念な準備運動に「していく」ことでした。そうやって「意志する」ことはできた。私は、ズッコケて地面に転倒したときは「立ち上がるのに筋力を使うから、いい運動になるわ~」くらいの心持ちでいるようにしました。あたかも、高くジャンプするのに、深く足を折ってしゃがむことが必要であるように、転倒の必然性に思いを馳せたのです。

今でもそうですが、こう考えるときに、私はよく、哲学者アランの名言を思い出します。彼は主著のなかで

「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである」

『幸福論』神谷幹夫訳、岩波文庫、訳文は筆者表記改め

と言っています。まさに私も「意志して」日常から喜びや楽しみを拾い上げようと決めていました。そう決意して実行できたのは、アランの一言のおかげです。

決して焦らないで

私はまだ介護世代ではありません。なので、介護に喜びを見いだす感覚的なものを持ち合わせてはいません。でも、もしかしたら介護にも、仕事にも、病気のなかにも、また「順風そうな『まわりの人』と『自分』との格差のなか」にさえも、何かしらの喜びの種が植わっていて、発見ができるかもしれない。私は、ここをあきらめないし、質問者さまもここだけは、あきらめないでほしいなと思います。

もちろん、病状は鑑(かんが)みてください。無理はしなくていいです。無理をして喜びの種を探す必要はありません。変に過剰な期待をして喜びが発見ができないと、裏切られた気分になってしまいます。生きていて「ふと気づく」みたいなレベルの、弱い、弱いアンテナを張る程度で十分です。

また、激しいうつ病の渦中にいると、意志して決めて行動した反動で、返って調子が悪くなることもあります。ですので、気負い過ぎには気をつけてください。

大事なのは「希望しつつ希望し過ぎない」こと

ただ、「『できることは何もない』という状況は『ない』という希望」だけは、ゆったりとした感じでいいので、持っていてほしい。そして、しっかり希望できるときがくるまで時を待ちましょう。待つこともまた「できること」の一つです。気張らずに、ゆるりとした希望を持つ――わずかでも希望を持つことに、遠慮は要りません。希望を持つべきでない人は、この世に一人もいないのですから。

涙するあなたは、誰よりもきっと希望の意味を知ることになります。そこで大切になってくるのが、「希望しつつ、希望し過ぎない」ことです。「ちょうどいい感じ」でいくことをお勧めします。

「あきらめ」という語には「断念する」という意味とともに、「明(あき)らめる」、つまり「ものごとを適切に見極める」という意味があります。この意味での「あきらめ」を習慣的に身に着けるうえで、私にとってうつ病は「うってつけ」でした。希望を持つ度合いを「ちょうどいい感じ」にしていく、そのさじ加減を「明らめて」いきましょう。

焦りから復職に複数回失敗

ここまでお読みいただいて、いかがでしたでしょうか。肩透かしを食らった感覚になりましたでしょうか。なすべきことはハッキリ言って地味です。「道程は、長い」と感じられるかもしれません。気持ち的に、焦るでしょう。

しかし、焦って良いことは何一つないです。これだけは断言します。焦ったところで前には進みません。回し車のなかのリスが、一生懸命走って回し車をまわしたところで前進しないのに似ています。焦ると空回りしてしまう。うつ病をこじらせてしまう。私は、焦りから復職に失敗したことが複数回ありました。今は、反省です。私のうつ病がグイッとよくなっていったのは、焦りをやめた後でした。遠回りなようでいて私にとってはそれが一番の近道でした。

いまの私の口癖は「まあ、でもコレで死ぬわけじゃないし」と「俺の人生まじネタだらけ」です。どんな苦境に遭ってもこうつぶやくようにしています。こう考えると、36歳で本格的に社会人になった「遅まきデビュー」の私でも、何とかやってこれました。これも、苦しい状況との間にゆるい関係を築いて、自分を客観視し、ゆるく見ていられるからなのでしょう。名刺交換すらおぼつかない36歳でしたから、まあヤバかったですけれど……。「すべてが手遅れ」というジャッジもいったん保留にして、まずは些細でもいい、現状と「ゆるい関係」を築いて、できることから始めてみませんか。

いまの生を丁寧にときほぐして、生きてみてください。積み上がるものは、確実にあります。喜び、そして楽しみです。ぜひ「決して遅すぎるということのない一歩」を踏みだしてみてください。些細なことへの気づきから、ささやかな変化が生まれます。それが、しなやかな生き方につながります。どうか、信じて。一歩をふみだしてみて。繰り返し言います。まだ、遅くはありません――。

私の返答文は、以上です。みなさんは、どのように感じられたでしょうか。

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