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宗教が"従順な子羊"を生み出す理由を一つ指摘することにした。

文芸評論家スピヴァクに『サバルタンは語ることができるか』という主著みたいな本がある。そこには、社会的・共同体的な成功ルートや成功スパイラルからのけものにされつつ従属させられてもいる"弱者"が描かれている。彼らはサバルタンと呼ばれる。同書では、サバルタンの具体例を主にインド社会の女性に見ているが、サバルタンは現在も世界各地に存在し、居させられ、抑圧されている。今日はこのサバルタンをキー概念にして、宗教について語る。

語りを奪われているサバルタン

サバルタンはさまざまな意味で自分の身に起こっている悲劇を言葉にすることができない。なぜなら、自身をとりまく環境・社会が大きすぎて捉えられず、誰が自分を虐げているのかもハッキリせず、そもそも"従属させられている感じ"そのものが身体に馴染みすぎていて「わかりにくい」からだ。"虐げ"としてうまく自覚しつつ言語化することは難しい。

サバルタンは、言葉自体を奪われもする。教育機会がめぐってこない社会構造ゆえにそうなることもあれば、植民地主義が跋扈していた時代に多くみられたように、母語を剥奪され、表現を乏しくさせられることもある(たとえば日本人は大戦中、韓国人に日本語教育を行った)。

言葉のわからなさは、相手の意図のわからなさに通じてしまう。だから、相手がどういう目的や情念で"虐げ"をしているかが鮮明にはわからない。"これ"が"虐げ"にあたるのかもわからない。"虐げ"だと判断できたとしても、どこからどこまでが"虐げ"なのかがうまく言えない(馴染みの母語ではないから)。

このようにサバルタンは、さまざまな語りを喪失させられ、自ら蜂起して権力に立ち向かう武器を、翼を、もがれている

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宗教は、ともするとサバルタンを生み出す

先般、サバルタンについてツイートした。誰もこんなことには興味ないよなぁと思っていたら、意外にもRTされたので、内容を改めてここに書き残しておく。かなり加筆しているが、ご容赦を。ちなみにそのツイのテーマは「宗教とサバルタンについて」だった。元ネタは、後輩の学術論文を見せてもらって連想したことである。

僕は割と多くの宗教を見てきた。ユダヤ・キリスト・イスラームについては、信仰とまではいかないまでも、体感する機会はもってきた。もちろんそれぞれのバイブルには目をとおしている。また、ゾロアスターとかジャイナとかヒンズーは書籍ベースで学んだ。新興宗教も同じように学習してきた。そして私自身はブディストである。

そうやって宗教を自分なり学んだその過程で、一つ悲しく思ったことがあった。一部宗教が、末端の信仰者たちをサバルタンにしてしまっていた点だ。慎み深い、奥行きのある宗教がある一方で、宗団の意図しかり、教義しかり、不文律的に運用されている組織約束しかり、さまざまなものが末端信者にとって「うまく語り得ないもの」とされている宗教があった。うまく語れないにもかかわらず、それに従わされている信徒がいた。否、かなり多くの末端信者は、自分がサバルタンであることを自覚しておらず、むしろ積極的にサバルタンになろうとすらしていた。そんな彼らから貢ぎものを受け取る宗教的高位の宗教貴族たちは――。

端的にいって末端を搾取している。いま述べたように、信徒は喜んでサバルタンになっていることもある。だから「本人が嬉しいなら、それはそれで良いのでは」と言う人もいるかもしれない。だが、20世紀の権力構造が、人の持つ「支配されたがる願望」「自ら支配を心身に馴染ませる性向」をうまく使って戦争を起こしてきたことを忘れてはならない。搾取は、新興宗教にまま見られる。

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宗教貴族と末端信仰者の感覚に"へだたり"

末端信者と違い、宗教貴族はその宗教独特の語法や語彙に長けている傾向にある。だから、彼らは雄弁だ。末端信者が喜ぶような話が上手にできるし、大勢の前で演説をぶつことができる。その姿・肉声は、末端信者にとって尊敬の念を抱く材料になるだろう。それが影響力をもち、上下関係はハッキリし、宗教貴族への末端からの信頼(ほぼ信仰)は強固になる。だが、そうなればなるほど、末端はサバルタンにされていく。気づくこともなしに

本来、宗教貴族(否、聖職者・専従者か)の役割は、信仰の増進、活動の円滑な運用、インシデント対応、現場レベルでは行えない大規模な祭事などを運営・推進するために存在する。しかし、そのありようが常に上記構造にさらされているため、腐敗と形容されるような形で、強固な搾取システムができあがるのである。

残念ながら、このような宗教モデルは長続きしないなぜなら、宗教貴族が現場(末端)のことをよく知らないからだ

宗教貴族たちは、宗団内の熱心な信者、宗教貴族に適合的な、いわゆる"似たような人たち"と触れ合う機会が多い。反対に、宗団に反抗的だったり無関心だったりする人とは比較的ふれあわない。そのため、宗教貴族らが宗団内で行うコミュニケーションは、予定調和的になりやすい。

一方、末端信者は反抗的で無関心な人をどう"目覚めさせるか"に主軸を置いて活動している(特に一部新興宗教は)。そのため、「宗教貴族は現場に暗いよね」ということになりやすい。

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宗教を支える「ほんとう」がわからない貴族たち

繰り返しになるが、宗団に適合的な人たちはやはりどこか似た傾向を持つ。一方、宗団に反抗的・無関心だったり、あるいは"とりあえず籍だけ置いておく"といった信仰への熱量のグラデーションを生きる人々は、多彩で、多様である。そのため、前者とばかりつき合う宗教貴族(その宗団の専属職員など)は、宗団の価値観のみを是とする偏狭な考えに陥っていく。逆に、末端信者は多様な友を相手にするため、価値偏狭にはなりにくい、はず、なのだが、実際は「おかしいな」「変だな」を呑み込んで、肯定して、これまた価値偏狭に陥っていく

上記は真理といっていいと思う。現場がわからない人たちが宗団のリーダーになれば、宗団は衰退する。必ず、そうなる。なぜなら、どこまでいっても宗教を支えているものは、「信仰の熱」と「信仰の美徳の生成」と「友の転回」だからだ。

信仰の美徳の生成とは、たとえば、人の情理に触れられるコミュニティの温かさや個々人の人徳などを生み出し続けること。友の転回とは、信仰に無関心だった友が目覚め、信仰の美徳にふれ、喜びを享受すること等である。これは、周囲の信仰に篤い人たちを感化せずにはおかない。

だが、宗教貴族のリーダーは、たとえ「信仰の熱」があったとしても、「現場で自ら汗を流し、信仰の紐帯が活きるコミュニティをゼロからつくった」という経験に乏しくなりがちである。泥臭い現場の信仰活動の経験にコミットしきれない人がいる。それはシンプルにいえば、信仰の美徳の「生み手」になる経験の少なさ、そして「あのリーダー、現場を知らないよね」と言われる事態に帰結する。信仰に反抗的な人、無関心な人と接する機会が現場の末端信仰者より少ないので、「友の転回」にも当然ながらなかなか出合えない。転回を促す主体者にもなりにくい。

そうして宗教貴族は、「現場音痴」で、かつ「宗団を真に支えているものが何なのかが実感としてわからない」リーダーになっていく。そういう人間が現場のあれこれを会議室で決めているのだとしたら――現場との間でミスマッチが発生するのはあたりまえで、それはやがて"ほころび"となって現われ、サバルタンの誕生という悲劇を生じさせる。その時、その宗団はすでに下降線をたどっている。

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口だけ達者な宗教貴族が宗団衰退の要因に

仮に宗教貴族と末端信者で討議をしたら、サバルタンである末端信者は負けることだろう(時たま目を見張るような"勝ち"が生じることはある)。語法語彙を教わらない彼らは、口八丁手八丁に見える宗教貴族から納得っぽい説得を受けて、ずっとずっと、"導かれる側""指示される側"としてあり続ける。そうして「信仰の熱」「信仰の美徳の生成」「友の転回」のどれもを消耗させられ、現場は骨の髄までしゃぶりつくされ、末端の人が「これはいくら何でもおかしい」と気づく頃には「宗団は、オワコン」ということになるのである。

この、宗教貴族とサバルタンの懸隔・アンフェアは、宗教がはまりがちな落とし穴であり、宗教を形骸化させる原因である

私は、こうしてできた両者のあいだの"溝"が再び埋まったという例を寡聞にして知らない。ある臨界点以上の"溝"ができてしまってからでは、大抵が手遅れだ。"溝"を埋めるより、まずは橋を懸けようという話が現実的で、実際にそうなるのだが、それもほとんど成功例がない。そして"溝"は、厄介なことに、サバルタンからは見えにくい。"低き"に目線をもつサバルタンは、よほど"溝"の崖っぷちに近づかない限り、"溝"の存在に気づかない(気づけない)。一方の宗教貴族は"高き"から見下ろしているため、かなり遠方からでも"溝"は確認できる。ただし、"溝"の深さまでは知ることができないが……。

さて、では、サバルタン的な"従順な子羊"を量産する非人間的事態を防ぐうえで、まず目覚めるべきは誰だろうか。

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