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短編|叶わぬ恋ほど忘れ難い

「訴えないでね」

 わたしの左耳に触れる指先も、訴えないでね、と懇願した声も、微かに震えていて。わたしはそれに気付かないふりをしながら「訴えません」と断言した。

「大丈夫ですから、一思いにやっちゃってください」
 言うと、わたしの左耳に触れる男性――アルバイト先の店長は、低い声で呻いて、短く息を吐いた。

「あのねえ、今から俺がやろうとしているのは、きみの身体に穴を開けることなの。その穴は半永久的に残るの。もうちょっとゆっくり心の準備させて……」
「でもあまり時間をかけると、店長の帰宅時間が遅くなりますよ」
「いや、その前にきみの休憩時間がなくなるよね」
「休憩時間のことは別にいいんですが」

 話しながらもわたしの左耳には店長の指が触れていて。その非日常的な状況に、なんだか可笑しくなってきた。思わずくすくす笑うと、店長は「ああ、もう……」と呻いて、ついにわたしの左耳を解放した。

「動くと危ないでしょうが。場所がずれたらどうするの」
「ピアッサーをセットした状態で何分もそのままでいるほうが危ないですよね。まるで拳銃を突きつけられているみたいです」
「それはごめん……心の準備がね……」
「いいですよ、無理を言っているのはわたしですから」

 笑いながら店長を見上げる。

 切れ長ではあるけれど大きな目と、くっきりとした二重まぶた。それを隠してしまうのは勿体ないが、よく似合っている黒縁眼鏡。すっと通った鼻筋に、薄い唇。その唇は、今はへの字になっている。

 この果てしなく格好良い彼の顔を歪ませているのは、他でもないわたしだ。それに罪悪感はあるけれど、わたしにも譲れないものがある。

 どうしてもこの人に、ピアスホールを開けてもらいたい。そう決意したのは、昨日のことだった。休憩時間に店のすぐ隣にあるショッピングモールに駆け込み、閉店ぎりぎりの時間にピアッサーを買い求めた。

 そして今日。店長は十八時で退勤したが、まだスタッフルームに残っていることが分かったので、わたしの休憩時間に、ピアスを開けてほしいとお願いしたのだ。
 店長はすぐに「いいよ」と快諾したけれど、すでにわたしの耳たぶには、左に三つ、右に二つのピアスがあり、「どこに?」と首を傾げる。わたしが「左耳の軟骨に」と答えると、彼は途端に渋り出した。

 店長自身もピアスホールは開いているし、友人に開けてあげたこともあるらしいが、それは全て耳たぶのこと。軟骨に穴を開ける、なんて恐ろしい言葉の響きに、相当な心の準備が必要みたいだ。

「無理無理無理」と後退る店長に、軟骨用のピアッサーを押しつけ、真顔で懇願する。それでも折れない店長を説得するため、軟骨ピアス経験者のわたしの友人に電話し、アドバイスをもらった。まあアドバイスと言っても「躊躇わず一気に!」「男性は力もあるし大丈夫!」という楽観的なものだった。

 なおも折れない店長は「スタッフルームの衛生面が」と言い出すから、わたしのロッカーから消毒液とウェットティッシュを取り出すと、渋々、嫌々、ピアッサーを手に取った、が。それから十分以上。未だわたしの左耳の軟骨に、穴は開いていない。

「ねえ、恐くないの? 軟骨って言っても骨は骨なんだし、痛みだって耳たぶの比じゃないと思うけど……」

 口をへの字にするだけじゃなく、眉間に深い皺まで作った店長が、長椅子に座るわたしを見下ろしながら言う。

「そりゃあ少しは恐いですよ。軟骨に開けるのは初めてですし」
「開けるの……俺じゃなきゃだめ? 他にやってくれる友だちいない? 耳たぶを開けてくれた子とか……」
「今ある五つのピアスを開けてくれた人たちは県外に住んでいますし、店長には申し訳ないですが、店長に開けてもらいたいです」
「……なぜ?」
「身体に穴を開けるんですから、信頼している人にお任せしたいんです。今わたしの身近にいる信頼している人は、店長ですから」

 はっきりと自分の気持ちを伝えると、店長はくっきりとした二重まぶたの目を黒縁眼鏡の向こうで見開き、じっとわたしを見たあと、観念したように、自身の柔らかそうな髪をがしがし掻いた。

「……分かった、やるよ。これ以上休憩時間を奪うわけにはいかないしね」

 この恋は、わたしが初めて経験する本気の恋だ、と。すでに気付いていた。一生で一度、あるかどうかの、本気の恋だ。

 でもこの恋心は、決して知られてはいけない。成就もしない。それもすでに気付いている。

 わたしにできることは、この恋心を隠し通し、徐々になかったことにするだけ。でも本気の恋は、なかなか思い通りになってはくれない。

 わたしは器用なほうだと思っていた。ある程度のことなら割と何でもそれなりにこなせるし、これまでに何度かあった片想いや失恋や別れも、上手く乗り越えることができた。

 読書や手芸や映画鑑賞や、とにかく色々なことに時間を使えばすぐに心は晴れたし、それでも時折もやもやするときは、ピアスホールを開けた。おかげで左の耳たぶに三つ、右に二つのピアスがあり、こういうものに寛容ではない親戚たちからは「高校生までは優等生だったのに不良になった」と白い目で見られているわけだが。心は驚くほどに晴れた。まるで開いた穴から、わたしの中に渦巻いていたどす黒い感情が、抜けていったみたいに。

 だからきっと、今回も乗り越えられる。なんたって軟骨のピアスだ。骨だ。骨にまで侵食しているであろう本気の恋の様々な感情は、開いた穴からすうっと外へ流れ出ていくだろう。大丈夫、きっとこの恋は忘れられる。

 そして店長はピアッサーを手に取り、左手でそっと、わたしの左耳に触れる。温かくて心地の良い体温を味わうように、わたしはそっと目を閉じた。

「じゃあ、いくよ」
「はい、どうぞ」

 宛がったピアッサーの位置がずれてしまわないよう、顔を動かさずに返事をすると、店長は「いち、にーの」と、ひどく優しい掛け声をくれる。

「さん」の声とほぼ同時に、バチンというバネが弾けるような音が、静かなスタッフルームに響く。すぐにじんじんと左耳が痛み出し、店長の体温が離れて行ったので、軟骨に穴が開いたのだと分かった。

 目を開けてそっと左耳を触ってみると、さっきまでなかった小さな粒が確かにあった。元々ピアッサーにセットしてあった、オレンジ色のストーンが付いた小さなピアスだ。耳の裏側に指をやると、ピアスキャッチに触れる。

 ああ、開いた。無事に開いた。開けてもらった。店長に。わたしの好きな人に。

「ありがとうございます、お疲れ様でした」
 隣の店長に身体を向けて頭を下げると、店長は困ったように眉を下げた。

「大丈夫? 痛くない?」
「痛いですけど、大丈夫ですよ」
「位置はどう? もう変えられないけど……」
「大丈夫です。耳たぶのピアスも、開けてくれたみんなのさじ加減でしたし」
「訴えないでね?」
「だから、訴えませんってば」

 不安が尽きない店長に笑いかけ、少しでも安心してもらおうとティッシュを耳に押し付けながら、消毒液をぶっかけた。傷ができたせいで耳が熱を持っているため、ひんやりして気持ち良い。

 鏡も見ずに適当にぶっかけた消毒液は耳を逸れ、首や肩にぱたぱた落ちる。それを見てようやく笑った店長は、ティッシュでそっと拭いてくれた。

 そして自分が開けた軟骨のピアスをじっと見ると、百八十センチ以上ある長躯を折って、ばたりと長机に突っ伏した。

「ああ、やっちまったー、スタッフの身体に穴開けちまったー……」

 またそれか、と笑ったけれど、軟骨ピアスの初体験は、相当な負担になってしまったらしい。職場の店長相手に申し訳ないけれど、それでもわたしは、この人に開けてもらいたかった。

 これは、この人への恋心を消し去るための行為なのだから……。

「店長、しっかりしてください。ピアスもわたしも無事ですし、訴えませんから」

 言いながら、彼の少し長いこげ茶色の髪に手を伸ばし、慌てて引っ込め、広い背中をぽんと叩く。予想より遥かに大きなダメージを受けているこの人の頭を、うっかり撫でてしまいそうだった。

 それでもわたしに、その権利はない。むしろこの人の背中にすら、気軽に触れてはいけないのだ。だというのにわたしの身体は言うことを聞かない。すりすりと撫でたい衝動を必死に抑え込み、でも完全には制圧できす、たった一度だけ、背中を叩いた。

 それを合図に顔を上げた店長は、左手の甲に自分の顎を乗せ、こちらを見る。

「俺、多分今日のこと、一生忘れないと思う」

 本望だと思った。きっと近い将来、わたしたちの縁は切れる。でもこの人は今日のせいで、わたしのことを忘れないでいてくれる。たとえそれが、大きなダメージを受けたという負の記憶だとしても。思い出さずとも、忘れないでいてくれる。こんなに嬉しいことは、他にない。

「そりゃあ忘れられませんよね。休憩時間に無理矢理ピアスホールを開けさせるスタッフのことなんて」
「きみも多分、一生俺を忘れないでしょ?」
「え?」

 急な問いに、ばくんと心臓が跳ねる。少し引き始めていた耳の痛みが、鼓動に合わせてぶり返してきた。

「半永久的に残るピアスホールにピアスをつけるとき、そこを掃除するとき、髪を耳に引っかけるとき。そういえば昔、店長に開けてもらったなーって。きっと思い出すと思うよ」
「……ですね。きっと。訴えないでねってしきりに言っている様子まで、思い出すでしょうね」
「それは忘れてくれていいかな」

 そう言って、ようやく穏やかな笑顔を見せた店長の、左手薬指の指輪が、蛍光灯の灯りで鈍く光っていた。


(了)

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