見出し画像

随筆/ 知らない音楽

時計とにらめっこする横で、知らない音楽がながれている。若干はかしましいけれど、不快ではない。大いに進歩したとは思わないが、大いに劣化したとも思わない。そうか、音楽とはそういうものであったのだ、と今さら頭を搔く。ことばは、文章は、文藝は、どうだったろうか。知っている音楽は、生まれてから、あるときまでは増えてゆき、そこからは、しだいに減ってゆくだろう。わたしの知らない音楽にあわせ、娘が、トランスに入ったように踊っている。これから、わたしが知っていることはどんどん減ってゆき、彼女が知っていることはどんどん増えてゆくだろう。やがて彼女は、自分の志向と意志と選択に基づいて、知っていることを増やしてゆくだろう。ふと、自らの衰えを痛感するまえに隠居をかまえ、表から姿を消す、かつての優れたしきたりを思う。老兵は死なず、ただ消え去る、これもまた、なるほどだ。ただ、わたしの隠居屋はまだ建てまい(し、建てる余裕もない)。もうひとつ、ふたつ、残したいことがある気がする。老兵、と誇り高く名乗るほど、わたしはまだ、強く闘っていない気がする。空いた時間には、虚空ばかりながめて、まるで阿呆あほうのようだけど、実際に少しは阿呆でもあるのだけど、のこりの少しで、闘い方などを一生懸命に考えてもいる。わたしだって、まだもうひと踊り、ふた踊りは、トランスしたくもあるのだ。


この記事が参加している募集

私の作品紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?