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【第5号】テコ入れ、断捨離、仕切り直し、なんでもござれ

1月某日|「新鮮」に恋をするのはなし

「育人」という沖縄観光人材育成マッチングサイトがある。これはあまたあるビジネススキルを登録された講師陣から研修を通じて学べるもの。

わたしは講師として登録をしている。登録をするにはプロフィールや実績をまとめるのだが、年に1回のこのまとめる作業がいい作用を及ぼしている。そのいい作用とは自分の活動を見直せること、自分がなにに注力したいのか考えられることだ。

昨年1年間はパートナー企業での役割が少しずつ見えてきた。むかしのわたしならやりたいことをどうやるかばかり考えていたが、ここではそうはいかない。やりたいことより求められることに注力できる。これはわたしにとってとても新鮮。任される内容はこれまでの経験値を活かせるのだが、パートナー企業と仕事をするとなると初体験になる。これがいい刺激。面白いし楽しい。いまはやりたいことよりできることと向き合う時期なのかもしれない。


1月某日|真剣社会人しゃべり場のはなし

対話型研修なるものがある。これは講師から参加者へ一方向にものを教えるスタイルではなく、設定したテーマについてともに考えて未来に導いていく協働スタイルの場。わたしはこれをしているときがワクワクする。

とはいっても世の中の困っている社会人に引く手あまた状態になりたいわけではないし、対話型研修だけで生計を立てたいわけではない。ひょんなことからわたしを知ってもらって場に参加してもらって参加者が「参加してよかった」と思える場をつくることができればいいと思っている。

このとき一緒にワクワクしてくれる人がいたら最高。つくる側もそれに参加する側もそう。無理なく継続できる規模でできればわたしは満足。今のところ。

とはいえやれたらいいなと思うことがある。身近にいる「つくる人」と話す場を企画したい。普段接することの多いチームリーダーやマネージャー、ディレクター、料理人も作るひとだ。他にも画家、作家、ライターなどが思い浮かぶ。"自分の仕事をしている人"と話してみたい。テーマは「つくる時間を過ごすなかで大切にしていること」。わたしがファシリテーターを務めて、作り手さん達と感情を表現できる関係性をつくっていきたい。


1月某日|自分自身と自分と社会のはなし

だれかに尽くすということ。いまの世の中では当たり前のことかもしれない。だけど尽くすなかでそこに自分を大切にしているかどうかって大切だと思う。だれにでも平等に与えられている時間。せっかく尽くすなら自分にも尽くしたい。これは仕事欲をみたすためでもなく、世間体を気にするでもなく、社会のためにといった大義名分とはすこしちがうもの。自分が自分で入れる時間の使いかたをわたしはしたいのかもしれない。


1月某日|石焼き芋おじさんのはなし

マツコの知らない世界で焼き芋特集をやっていた。観ながら思い出したことは実家に来ていた焼き芋屋さんのこと。私の実家は群馬の田舎にある。子どものころは近所に生活雑貨を扱うちいさな商店があったり、お豆腐屋さんがあったり、クリーニング屋さんがあったり、タバコ屋さんがあったり。1店舗1テーマのお店がたくさんあった場所。

この時代に家に売りに来ていたのがこの焼き芋屋さん。時期は冬の朝。眠い目をこすりながら朝やっているヒーローもののアニメを見るために起きる。時間は7時くらいだったと思う。この時間になると家の裏手から焼き芋屋さんの声が聞こえてくる。軽トラにスピーカーを積んで呼びかけて販売するおじさん。祖母に聞いたことがあるのは、たしかこのおじさんは東北あたりで農家をされている方で冬は農作業ができないからオフシーズンである冬に焼き芋を販売しに出稼ぎに来ているとのこと。

あれから30年あまり経つ。たぶん焼き芋屋さんのおじさんはご健在ではないのかもしれないけどマツコさんの懐かしいエピソードを聞いたら思い出した人。冬になると実家に現れるおじさん。石焼き芋の存在を大音量のスピーカーで流す軽トラ。クラフト袋に入った石焼き芋。ねっとりではなくホクホクの石焼き芋。おじさんの図太い指。名前は知らないけど毎週楽しみだったおじさん。五感が覚えている。風情がある。


2月某日|「つくる」より「ある」のはなし

夕方のニュース番組を見てて聞かない日はないまちづくりや社会づくりの出来事。あらためて社会って自分にとってなんだろうと思う。何をする場所なのか。何かをしないといけない場所なのか。40代手前になって顕著に社会のために何かをしないといけないのかと思う。

わたしはいま勤め人ではないので同じ時間に出社して、夕日が沈むころに帰宅して、晩ごはんを家族とともにして団らんして、寝る生活ではない。同じ流れの一日を過ごすわけではないが、わたしはきっと社会にいる時間が勤めている人より少ないかもしれない。

こう考えるとわたしの社会の居場所はあるのかと思った。社会は自分もその中の一部なわけだから居場所があるにはあるはず。

経営者や夢を掲げて活動しているフリーランスの方々は素敵だ。この方たちはだれかの居場所をつくっているからなお強く思う。一方で私はつくっているのかと言われるとつくっている自覚はうすい。つくってしまうと人為的な感じがしてしまうから。

うまくまとまらないけど居場所って「つくる」のではなく気づいたら「ある」がいい。あったことで自然的な流れからつながりができて、必要とする人が必要なときに必要なだけ必要な人と話して必要な分だけ持って帰って、各自が自分の活動に戻る。そんな居場所がわたしは居心地がいいのでつくりたい。


2月某日|一朝一夕への違和感のはなし

組織をサポートする仕事をしているけど、携わるのはごく一部の短い期間。私の最短は90分。これでサポートし尽くしたことになるのか。組織をサポートするなかで大切なのは課題を解決することより、変容できる状態を提供すること。90分ではなかなかむずかしい。

携わる機会が少ないほど一時的な対処法しか伝えることができない。これでいいのか。そう考えると短期的な関わりは無責任なんじゃないかと思えてきた。仕事をしてお金を稼いで生活するのは当然なんだけど、自分のなかに短い期間でしか携われない活動に少しずつ違和感が生まれている。


2月某日|ミニマリストよりシンプリストのはなし

気持ちを切り替える方法を考える。気持ちを切り替えるには、なにかを身に付けるのがいいのではないか。さがしたり経験することで見えてくるものがあるのではないか。

そうなると「切り替える」ではなく「乗り越える」の方が言葉としてはあっている気がする。

気持ちを切り替えるということはそのとき湧き出た感情を無視する必要がある。でも一度出た感情を無視することなんて人にできるのか。時間をかけてていねいに自分のなかで咀嚼して時間をかけて見つめ直す。そうすることで乗り越えられるんじゃないか。

コミュニケーションはキャッチボールとよく聞く。わたしも組織をサポートする仕事のなかで伝えることがある。このキャッチボールで大切なのは相手との距離だと思う。近すぎても遠すぎてもキャッチボールは成立しない。適度な距離感があることで聞けるし話せるのではないか。

適度な距離感ではないとコミュニケーションは成立しないんじゃないか。

小学生のころわたしはテレビっ子だった。というより田舎だったからテレビが日常生活でワクワクできる場所だった。いまの子どもたちがどうかは知らないが、家で観たテレビ番組をつぎの日に学校で「昨日の〇〇見た?」「めっちゃ面白かったよね~」のやり取りが毎日のように飛び交っていた。これって自分たちがちがう場所にいながら同じ体験を共有していることを確認する流れのように思う。

なんともいえないワクワクの交換。今でいうSNSやグループチャットなのかな。年を重ねると好きなもの、目に触れるものが自分中心になる。子どものころは話題を合わせるために一緒のものを見なければいけない的な思いがあったかもしれないけど、大人になるとそれも薄れる。というよりわたしの場合、だれかが好きなものをわたしも好きになろうと思うことが少ない視野の狭い志向になっている。

そんなこの狭い世界のなかでも共有、共感できる人は結構いることが分かった。だからだれかに合わせることに楽しさを見出せなくなった。という方が正確かもしれない。世の中にあるものすべてを良い悪いでくくりたいわけではなく、いま目の前にあるものを比較などせず一括りで受け止めて必要なものを必要なだけ抱えるくらいがいまのわたしには合っている。


2月某日|バイアスへのバイアスのはなし

バイアスとは人の思考や行動に偏りが生じることならびにその要因。わたしには考えるクセがある。考えることで自分のなかに納得のいく結果を出すためかもしれない。だけど考えすぎるのが玉に瑕。

それに気づいたわたしは考えないようにしている。なにかシフトしていきそうな感覚。アウトサイドインではなくインサイドアウトをいまは意識している。着飾っていたものを自由に脱げるようになった身軽な感覚だけど身動きが取れないなんとも形容しがたい状態のいま。これを楽しむ。

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