「メディア感情論」~主にこれから社会に出ようとしている学生の皆さんに向けて~

 はじめまして、わたくし織田雅彦と申します。昨年の3月までフジテレビで、主に情報番組やニュース番組のプロデューサーなどをしていました。そういった経験を基に、学生の皆さんにマスコミの仕事やその考え方といったテーマで毎年のように授業を受け持ち教えてきました。その内容をまとめたものに加筆して、この場を借りて皆さんにお伝えしたいと思います。

 その内容を一言で表すならば、すべてのメディアと呼ばれる存在は、情報を伝達する対象者(テレビならば視聴者、新聞雑誌などは読者)の感情を刺激することを目的としているというものです。
 一方で、このメディアが感情を刺激するというテーマには続きがあって、メディアも感情を持った人格を装うことによって、より強く感情を呼び起こすことを狙うようになるのです。
 実はわたくしが「番組人格論」として、テレビ業界の専門誌に寄稿した内容は、こういった考えに基づいて番組制作の戦略について具体的に述べたものです。
 受け手の感情を刺激することを目的として、その効果を最大限に発揮するために、送り手が人格を装い、あたかも感情を備えた存在として情報を発信するのです。送り手側、例えばテレビで言えば番組は、受け手の視聴者からあたかも信頼できる面白い知人や友人のような感覚で受け入れられ、常にチャンネル合わせる存在になる。
 こういった構造を送り手と受け手の両面から論じて「メディア感情論」としてまとめたものです。

 メディアについて論じ、そして理解を深めることは、テレビや新聞、雑誌などのマスコミや、ネットビジネスなどメディアそのものを志望している学生の皆さんにとっては、当然のように有益ですが、実はすべての経済活動は、情報を発信し伝達するメディアと密接に絡み合っていることを考えると、すべての学生にとっても有益と言えます。
 誤解を恐れずに言うと、この世の中で経済活動をしているすべての人に、是非興味を持って、この議論に参加してほしいと思っています。

第一章 実名報道


<なぜマスコミは「実名報道」にこだわるのか>

 あなたは、事件や事故が起こるたびに、マスコミが名前を出して伝えることを、どう思っていますか? 
 大学での授業の冒頭、学生に聞きます。「実名報道」の是非というテーマです
「報道されるような大きな事件や事故に、自分の知り合いが関わったことなんてないし…」
「知らない人間の名前を突然聞かされても、意味ないよなぁ…」
「なんのために、人の名前を勝手に使って報道するんだろうなぁ」
 確かに、そう思っても不思議ではありません。
 一方で、
「悪いことをすると名前を晒されちゃうから、犯罪の抑止力にはなっているよな」
「こういうのを『社会的制裁』って言うんだっけ、制裁ってなんか怖い言葉だよな」
「やっぱ、匿名になると、今よりも犯罪が増加して、世の中の治安が悪化するのかな、そういう意味では、実名の方が良いか」
 授業の入り口はなるべく双方向でコミュニケーションをという意味ですが、実はアンケート調査も兼ねています。
「『実名報道』に賛成という人は手を挙げてください」
 ふむふむ、こんな感じか…。
「では、反対という人は手を挙げてください」
 大体の感覚ですが、ほぼ半々。警戒して手を挙げない人も結構います。
「賛成」に手を挙げる学生は、ゆっくり、こわごわと言う人が多いようです。積極的という印象は、あまり受けません。
 一方で反対に手を挙げる人は、自信に満ちているような人が多いように思われます。
「ほんと、マスコミって人権意識低いよなぁ。だから『マスゴミ」とか言われんだよ」
 大手マスコミのあり方について、普段から義憤を感じている学生は、少なくないようです。そんな学生は、まっすぐ手を挙げてはっきりと意思表示をしています。
 私は、そんな「人権意識の低いマスコミ」の一員という立場で、学生の皆さんの前に立っています。そんな私に対して「きょうはあなたの間違いを正してあげましょう」とでも言いたげです。
「それでは、事件や事故の被害者について、『実名報道』をすることに賛成ですか? それとも反対ですか?」
 議論をわかりやすくするために、さらに条件を絞り込んで質問を重ねます。
 その問いに対しては、9割を超える圧倒的多数が、「反対」に手を挙げます。賛成に手を挙げる人は、ほとんどいません。ゼロということもあります。
 知人や友人の前で「賛成」と答えたら、傷ついている被害者に配慮できない優しさの欠けた、人権意識が低い人間と思われるかもしれない。そんな心理的な壁が立ちはだかっているようです。賛成と思っていたとしても、人前で手を挙げるのは、どうもはばかられる。そんな雰囲気が漂っています。
 一方で突然そんなこと言われても、簡単には答えが出せないと、引き続きどちらにも手を挙げない慎重な人も多くいます。

 オールドメディアといわれる大手マスコミ、新聞やテレビ・ラジオ、通信社といったメディアは、被害者についても「実名報道」を原則にしています。その一方で、ニュースを伝える際に名前を出すことに、とくに被害者の名前を出すことに、批判が強まっています。
 大切な人を亡くして打ちひしがれている家族に、なぜわざわざ名前を出して追い打ちをかけるようなマネが出来るのか。
 「そっとしておいてほしい」という、家族のささやかな願いすら、マスコミの人間たちは聞き入れないのでしょか。
 これって「報道の自由」とやらを振りかざしたマスコミ連中の横暴というより他ありません。
 SNSを中心に、批判はまるで燎原の火のように広がっていきます。かつて大手マスコミのHPには、自由に意見などを書き込める掲示板が存在していましたが、今はみかけません。(他の人の書き込んだ内容を自由に見ることができる掲示板は、一部の掲示板専門のサイトを除くと、そもそも今は無くなってしまいました。もちろんこの意見は公開しても良いかどうかというフィルターを通した上で、掲載するケースは、今でもよく見かけますが…)

 死者を静かに送るという風潮は、身近な人だけで執り行う「家族葬」などの増加で、ますます強くなっていると言えます。
 数多くの情報を司る警察や自治体は、必ず言って良いほど、マスコミと被害者家族の間に板挟まります。別にこれは最近に限ったことではなく、以前からといえます。しかし世の中の批判の高まりを察知して、家族の了解が得られないと、犠牲者や被害者の情報を公表しないというケースが、ここ十数年で急増しています。
 大手マスコミのビジネスモデルは、一言で言えば「人気商売」です。テレビは視聴率に、新聞や雑誌は部数によって、売り上げや利益が決まります。人気こそが、ビジネスの根幹を支えているにもかかわらず、これだけ批判が高まっている中で、実名報道というこの原則に、なぜこれほどまでに固執するか、皆さんは不思議に思いませんか?
 皆さんの共感が得られるどうかはわかりませんが、その理由を少し丁寧に解き明かしていきたいと思います。

<「インド洋大津波」を知っていますか?>

 先ほどの授業に戻りましょう。
「皆さんは、海外を旅行しているとき、『津波』に遭う可能性を考えたことがありますか?」
 学生たちに尋ねるのですが、この人突然何を言い出したんだろうという反応です、だいたいは。
 少し知識がある学生は、海外でも津波は起こるけど、日本ほど頻繁じゃないと、模範的な回答が返ってきたりもします。
「では皆さんは、『インド洋大津波』を知っていますか?」
「知らない人は、スマートフォンやタブレットで調べてください」
 2004年12月、スマトラ島沖を震源とするマグニチュード9を超える世界の観測史上でも指折りの大地震に引き起こされた地球規模の大津波。インド洋に面した国々の沿岸部を襲い、犠牲者は22万人以上にも及んだ。有史以来最悪の被害を引き起こした大津波。
 そう言われると、なんかで見たことあるかも…学生たちは皆、少し怪訝な顔をしています。
「では日本人の犠牲者や不明者の数は?」
 発生直後は、犠牲者や行方不明者の数が時々刻々変わっていきます。検索した記事もそういった混乱をそのまま反映していて、注意深く読み込まないと、被害の全体像はつかめません。
 死者・行方不明者が合わせて40人以上という数字にたどり着くと、ほぼ全員が一様に驚きます。
「大規模とはいえ海外の一つの自然災害で、一度にこんなに多くの日本人が…」
 一番最近の授業のケース(2021年)だと、この大津波は17年前、学生たちが生まれたばかりの頃の出来事です。
 マスコミを含めた社会全体、家族や知人、友人たちといった周辺の情報ネットワークが、このとき起きたことを語り継いでいなければ、ここにいる学生たちは知る由もありません。


<それは年末の日曜だった>

 津波が発生した2004年12月当時、私はニュース系情報番組の先駆けである「とくダネ!」(1999年~2021年)のチーフプロデューサーという立場でした。
 発生は12月26日。年も押し迫った日曜日で、年賀状を書いていたのを中断して、慌てて出社したのを覚えています。
 スマトラ島沖の地震で発生した大津波は、震源に近いインドネシアに、死者・行方不明者が17万人近くという甚大な被害をもたらし、マレーシア、タイ、ミャンマー、インド、スリランカとインド洋の沿岸国を次々と襲っていきました。数時間後には対岸のアフリカにまで到達し、ここでも大きな被害を出しています。特にスリランカでは10メートルクラスの津波に襲われた列車が丸ごと流されるなど、インドネシアに次ぐ3万5000人あまりが犠牲になりました。
 日本の津波警報のようなシステムは、これらの国にはありません。スリランカの例で言うと、震源から1600kmも離れており、まったく揺れを感じていません。ほとんどの人は突然盛り上った海面に、訳もわからぬまま飲み込まれたのだと思います。またスリランカは、普段から地震が起こることはなく、津波に対する知識がほとんどありませんでした。第一波に襲われたあと、引き潮で打ち上げられた魚を捕っている最中に、巨大な第二波に襲われ大勢の人が流されたといいます。
 刻々と広がっていく被害の様子は、地球規模の災害ということを印象付けます。翌日の放送のトップは、もちろんこのニュースです。
 youtubeなどには、沿岸に押し寄せる津波の映像が、次々アップされ始めていました。特に震源に近いインドネシアでは、30メートルを超える高さの津波が襲ったところもありました。


<外務省の発表は「性別」と「年齢」のみ>

 当然ながら、旅行や仕事でこれらの国を訪れている日本人の安否が気になります。甚大な被害のため通信状況が極めて悪く、数日たっても混乱で連絡が取れない日本人が大勢いました。
 被災地では、死亡が確認される日本人も出始めます。断片的に伝えられる情報。当然のようにマスコミ各社は、誰が、どのような状況で津波に巻き込まれて亡くなったのかという事実を確認するべく、外務省に押しかけます。
 しかし外務省の対応はというと、死亡が確認された日本人の性別と年齢しか明かしませんでした。これでは一番肝心の、誰がという事実すらわかりません。
 実はこの前年に「個人情報保護法」が成立し、翌年から全面施行されることになっていました。「個人情報」の取り扱いに対して、お役所が非常に神経質になっていたこともその一因と思われます。マスコミの取材活動には適用されないにも関わらず、お役所としては、個人情報をマスコミにどのように提供したらいいのか、その方法について手探りの状態だったように覚えています。
 確かにいったん情報を提供して、それが報道されてしまうと、後からでは取り消すことができません。それゆえ慎重にならざるを得なかったという面は、否定できないと思います。
 お役所が被害者の個人情報を明かす条件として、本人や家族の同意が得られる場合に限るという運用が始まったのは、このケースがきっかけだったように思います。
 2019年に起きた京都アニメーション放火事件の際、警察が犠牲者全員の名前を明らかにしたのは、事件から一ヶ月以上経ってからです。葬儀などが終わり、遺族の了解を得られたという状況を待ってからでした。

 津波が発生した当初の報道では、現地の被害の映像や、津波が押し寄せる映像が中心でした。地球規模の災害ですから、それらを報道するのは当然ですし、現地の悲惨な状況は目を覆うばかりです。
 一方で、多くの日本人が、我がこととして関心を寄せるであろう、被災した日本人が、どのような理由で現地に赴き、そしてどのような状況の中で、津波にのみ込まれることになったのかという、これまでのマスコミならば、かなり力を注いで報道されるテーマがすっぽりと抜け落ちてしまったかのような印象です。
 「とくダネ!」は、番組開始から5年半が経過し、それまでのワイドショー路線とは違ったニュースを主に扱う情報番組として、この時間帯のトップに立つなど、大きな成功を収めていました。当然のことながら「インド洋大津波」という世界的なニュースは、番組として全力で取り組む一大テーマです。


<ニュースと情報番組ってどこが違うの?>

 少し話がそれますが、「ニュース系の情報番組と報道局が作るニュースはどう違うの?」とよく聞かれます。確かに同じニュース(ネタ)を扱っていて、あまり見分けはつきません。
 一番大きな違いは、その制作体制によるものです。報道局の作るニュース番組は全国の系列放送局が、全国に張り巡らした取材ネットワークを形成し、系列全体でニュース番組を共同制作するような形をとります。普段から地元に根付いた取材活動をしている各地方の放送局が、きめ細やかな情報を提供する形をとります。大勢の記者が様々な取材活動をしていることを考えると、そのコストは無駄にはできません。その結果、一つの大きなテーマだけでなく、全国の様々なニュースを、数多く扱うことになります。
 どのニュースを扱うかという会議の席では、系列各局や政治部、経済部、社会部、外信部、スポーツ担当などのデスクからその候補が挙げられ、編集責任者はそのプレゼンを受けながらどのニュースを扱うか検討するといった具合です。番組制作は通常、会社組織でさまざまな仕事をする際と同様、基本的にはトップダウンの構造を取ります。しかし報道局のニュースでは、どのニュースを扱うかという最も重要な過程にボトムアップの要素がかなり入っているというイメージです。
 一方で全国ネットの情報番組は、あくまでも東京のキー局が(大阪、名古屋の準キー局が制作のこともあります)主体となって制作にあたっているため、基本的には(チーフ)プロデューサーと呼ばれる存在が、番組の内容が適正かどうかという危機管理面から、視聴率という企業活動としての成果まで、番組に関わることすべてに対して、全責任を負うという、純粋なトップダウンの構造になります。
 その結果、同じネタ(ニュース)を扱っても、その放送時間の長さが大きく違ってきます。


<ワイドショー全盛と厳しい批判>

 もう一つ(ニュース系)情報番組の特徴としては、世の中で様々な議論を呼んだ「ワイドショー」という分野の番組から発展したということにあります。
 ご存じの方には、あまり説明の必要はありませんが、人間の欲望や人間模様がむき出しになるような題材をよく扱っていました。例えば芸能人の不倫やドロドロとした人間関係が垣間見られるような事件、残虐な犯罪や大規模な災害などが対象です。視聴者も、どこか後味の悪さを感じながらも、ついつい見入っていました。
 人間の欲望や人間模様が題材ということになると、どうしても対象となった人物に対してより深い、執拗な取材を繰り広げることになりますし、放送内容もプライバシーに踏み込んだものになりがちです。
 これに対して「人権を侵害するような取材や放送じゃないか」「くだらない内容を延々と放送している」という批判が、多く寄せられるようになりました。
 自分でも朝のワイドショー番組と午後、その両方を担当しましたが、当時の番組イメージは最悪でした。最盛期には民放4局(NTV、TBS、CX、ANB)の午前と午後にそれぞれワイドショーがありました。同じ時間帯で同じような内容の番組が競い合うのですから、競争はエスカレートするばかりです。各局のスタッフが、より刺激的なネタを求めて、日本中を探し続けます。
 ひとたび大きな出来事が起こると、ワイドショーの取材スタッフたちが大挙してやって来て入り乱れ、取材現場を荒らすだけ荒らして帰ると言う具合に、地元の他のマスコミからも好感をもたれていないことを痛いほど感じていました。
 まるで「迷惑系ユーチューバー」のような扱いだったというと、少し言い過ぎでしょうか。


<「ニュース系情報番組」の誕生>

 このようにワイドショーへの批判が高まる中で、各局とも手をこまねいていたわけではありません。折を見ては「脱芸能」「脱ワイドショー」を唱えて、番組の改革を試みてはみるものの、これまでの番組から大きな要素を引き算しただけでは、視聴者が満足しないのも当然です。たちどころに視聴率が悪化して、3カ月もすると、また元の番組に戻ると言うことを何度も繰り返していました。
 そういう中で、本当の意味でワイドショーから決別したのは「とくダネ!」だと思っています。「ニュース系情報番組」という新たなジャンルを設定して、制作現場では様々な改革が行われました。ワイドショー時代は民放最下位に沈み、もう後がなかったことも、この新たな挑戦を後押ししました。
 それまでのワイドショーは、人間のむき出しの欲望を扱うことによって視聴者を惹きつけてきましたが、そこに社会性や公共性、公益性、その影響力など、ニュースにおける価値判断も加えて、扱うニュースを選び直しました。
 ニュースという万人が納得しやすいアイテムを使って、番組の存在意義をアピールしました。視聴者には、既存のワイドショーよりも見る価値のある番組だと訴え、イメージの向上を目指したといえます。(この点については、後の「番組人格論」で詳しく述べたいと思います)。


<ニュースに「感情移入」させる>

 しかし、報道で扱ったニュースの原稿をそのまま読むだけでは、当然ながら視聴率は取れません。「とくダネ!」では政治や経済といった、抽象的な内容になりがちなニュースは、生活にどのような影響があるのかという視点で、表現の仕方を一から考え直しました。
 視聴者を飽きさせないようにと、映像化する手法や演出についても日々工夫が重ねられました。ときには脱線しすぎて、元のニュースの内容が、よくわからなくなることもありました。
 中でもニュースのどの要素に視聴者が感情を揺さぶられるのか、そして感情移入するポイントはどこなのかという議論には、一切の妥協を許しませんでした。
 この「感情移入」こそ、テレビの視聴率競争において、大きな影響を与える最も重要な要素だと考えています。
「かわいそうに」
「そんなひどいことがなぜ?」
「もし自分だったら…」
「家族がもしこんなことに…」
「卑劣な男ね」
「なんて悪い女なんでしょ」
 視聴者は、世の中の出来事に様々な感情を抱きます。
(すみません、女性目線になっているのは、わたくしが長年にわたって女性をターゲットとする情報番組の制作にあたっていたことから、そういう立場にたって考えるクセがついているからにすぎません。一切、他意はございませんので、お許しください)

 激しい視聴率競争から産み落とされたワイドショーというソフトの本質は、「感情移入」という言葉に象徴されます。
 今から思えば、ワイドショーのネタ選びは、この要素を最大限に考慮して行われていました。ワイドショーほど視聴者の欲求を素直に受け止め、それに答えようとしていたソフトは他にはなかったと思います。
 視聴者が感情を動かされ、そこに強く喜怒哀楽を感じるものだけを選び抜いて、それだけで放送していました。
 しかし、そこは自分の欲望をそのまま見せられているような、居心地の悪さもあったような気がします。そして欲望に素直な分だけ、多くの人に影響を与える重要な情報かどうかといったニュース性・情報性という観点から見ると、バランスを欠いた内容になっていた面は否定できません。
 しかし視聴者を惹きつけるということは、テレビ局にとって最も大切な要素であることは間違いありません。この原則はどんな番組であろうと、ワイドショーで競い合ったときと、なんら変わりありません。
 視聴者が抱く感情が強ければ強いだけ、興味と関心を持ってテレビの画面に釘付けになりますし、そしてしっかりと記憶に刻み込まれていきます。当たり前のようなこの事実は、非常に重要でマスコミの本質的な役割を含んでいます。後ほどまた触れますので、覚えておいてください。


<ワイドショーで得た“戦闘能力”>

 余談ですが、私がテレビというメディアに身を置き、否応なく視聴率競争に巻き込まれる中で、テレビマンとしての「戦闘能力」というものを身につけたのは、間違いなくワイドショーの曜日チーフを担当していたときです。
 世の中で起きた出来事の中から、何が視聴者の興味をひき、感情を揺り動かすのだろうということばかり考え続け、その日の放送のネタのラインナップを自分の責任において選び、演出方法も含めて決めるのです。
 放送が終わった翌朝には、前日放送分の視聴率のデータが配られます。まるで通知表を受け取る生徒のようです、しかも毎週毎週。突きつけられるのは。偏差値のような客観的データですので、どこにも逃げ場がありません。すべてお前の責任だよと言われているのです。
 東京のテレビ各局の視聴率は、関東地方の数百戸(当時)の家にお願いして、設置させてもらった視聴率メーターというもので計測します。ちょうど秒針がゼロを指した瞬間に、どこの局にチャンネルを合わせていたかというデータが毎分視聴率と呼ばれるものです(一分間のチャンネル動向を積算したものではありません)。ある番組の視聴率というのは、放送時間内の毎分視聴率をすべて足し合わせて放送時間数で割ったもの、すなわち毎分視聴率の平均になります。
 自分が選んだネタを、果たして視聴者は見てくれているのか。スタジオ演出の効果はあったのか。裏番組のネタと比較して、どちらがより興味を持ってもらえたのか。
 放送翌日は、各局の毎分視聴率の動きに放送内容(ネタの内容やVTR、スタジオなどの演出)を重ね合わせてグラフにしたものと、一日中にらめっこしていました。
「みんな、これに興味があるんだ」
「自分の好みって、人とずいぶん違ってるんだな」
 この自分の好き嫌いとマスの求める欲求との距離感を掴むこと、それが出発点です。
 数々の失敗を重ね、数少ない成功に励まされる中で、自分の感覚とマスとの差が、徐々にですが、客観的に把握出来るようになってきます。
 当時のワイドショーは、今では考えられないくらい荒っぽい職場でした。失敗すれば罵声が飛び交い、つかみ合いになるような雰囲気もまだ残っていました。
 そんな中で、毎週毎週の試験にのぞみで、チームを束ねるチーフとして結果に責任を負うのです。喉から臓物が出てくるような、追い詰められる圧迫感は、今思い出しても息が詰まります。
 漠然と勉強するよりも目的意識がはっきりしています。これだけスパルタな環境ならば、だれでも成長は早くなるでしょう。こうして一人前のワイドショーのチーフ(ディレクター)になっていくのです。
 視聴者の好みや感情を推測し把握する能力。テレビ屋独自の感性と呼ぶようなものの大部分は、この厳しい競争の中で身につけたと思っています。
 あれだけ社会から批判を受けていたソフトに携わっていたときこそが、一番の成長のときだったというのは、皮肉に聞こえるかもしれませんが、紛れもない事実です。


<視聴者感情の把握こそが危機管理>

 先ほど、「とくダネ!」においてニュースを扱う際にも、ワイドショーと同じ「感情移入」という言葉を使いました。ニュースを扱う中で、視聴者を惹きつけ続けるためには、「感情移入」させることが、やはり重要な要素の一つになります。
 最初から感情移入させるかどうかで、ネタそのものを選んでいるワイドショーと違って、大きく取り上げられるニュースに中に感情移入できる要素を探し出して、それを視聴者にわかりやすく表現しなくてはなりません。その分だけ、番組制作のハードルは確実に上がりました。
 しかしどちらにしても、視聴者の感情をどれだけ的確に読み取ることが出来るか、ということがカギになります。
 先ほど言及した「戦闘能力」の本質は、視聴者の感情を正確に読み取る力と言い換えることができます。その重要性は、マスを競い合うテレビにおいては、どの番組にも共通している要素です。
 そしてもう一つ非常に重要なことは、番組や局のステーションイメージを損ねる可能性を未然に摘む、いわゆる「危機管理」という側面でも欠かすことができないのです。
 どの程度の刺激的な内容までなら許容範囲なのか、どの程度までの表現なら許されるのか。ネットが無くて視聴者同士がつながることがなかった時代と違って、少しでも放送内容に気になる点があれば、批判の声は広がっていきます。
 放送内容に対する違和感をうまく言葉にできない、そんな人が大勢いたとしても、以前ならばそれは違和感のまま、一人一人の心の中に閉じ込められたままでした。しかし今は、そのちょっとした違和感には、わかりやすい言葉で説明がつけられて、インターネットによって誰もが見られるようになります。
 違和感の正体を言い得てくれて、なんだかもやもやしていた気持ちがすっきりします。その分だけ、そこに書かれているテレビ局の不誠実をなじる扇情的な言葉にも共感を覚えるのです。徒党を組んだ批判の大合唱は、さらに大きな塊となって勢いづきます。
 最悪なのは、その放送を見ていないにもかかわらず、ネットでの記述を鵜呑みにした大勢の敵意が、どんどん拡散していくような状況です。元の放送を見れば、そこまでではないだろうに、あたかも権威を持ったように見えるメディアという存在を、遠慮無く叩ける機会を面白がっているかのようです。この「祭り」という状況にいったん陥ると、何を発信しても悪意ある解釈をされてしまい、なかなか消火できません。
 こういった炎上騒ぎによって、メディアとして正常な活動すら、阻害されてしまうこともあります。それだけに事前に防ぐことが、以前にも増して重要になっているのです。
 メディアの表現に対する許容範囲は、以前に比べてずいぶん狭くなった気がします。どこまでが許容範囲なのか、見極めることは非常に難しい作業です。
 表現そのものはもちろんですが、そのときの社会全体の雰囲気にも左右されます。世の中のありとあらゆる要素を勘案して、視聴者感情を推し量る必要があります。
 今の時代の放送局における危機管理は、以前とはまったく別物です。


<サイレントマジョリティは何も言ってくれない>

 例えば犯罪を扱う放送の中で、残虐な犯罪行為そのものやその動機となる邪悪な欲望を、どういった表現にするのか。あまりにストレートな表現に終始すると、嫌悪感を抱いた大多数の視聴者が、チャンネルを変えてしまいます。ひいては被害者に配慮を欠いた不適切な放送だとして、炎上することになりかねません。しかし、あまりにも配慮して曖昧で伝わりにくい表現に終始してしまうと、犯罪の悪質さや残虐さといった本質が伝わらず、隔靴掻痒な番組だと思われてしまいます。
 「そうそう、それそれ」「ほんと、ありえない」「絶対許せないよね」といった共感を視聴者から引き出せない番組は、炎上のようにわかりやすいマイナスではありませんが、静かにそして確実にチャンネルを変えられる運命にあります。
 炎上はマイナス点が浮き彫りになるだけに、鈍感な人間でもネットをパトロールさえしていれば、すぐに気づきます。しかしサイレントマジョリティは、何も言ってくれません。自分で感じ取るしかないのです。これには先ほどのような訓練が必要です。
 番組が視聴者の共感を呼ばないということは、実は炎上と同じくらい罪なことなのです。むしろ偶発的かもしれない炎上と違って、構造的な欠陥である可能性があります。作り手にとっては炎上よりも深刻な問題かもしれません。
 視聴者の感情を正確に読み取ることの重要性は、危機管理から番組制作まで多岐にわたるのです。
 ニュース系情報番組の制作現場は、ワイドショーで戦い続けていたスタッフが多く残っていて、制作体制も同じような構造です。番組を作る上において、この視聴者の抱く「感情」を最も重要視することを考えると、ワイドショー経験のあるスタッフが、力を発揮できる舞台といえます。


<情報番組は一つのニュースが長い>

 ニュース系情報番組では、視聴者からの関心が高いと思われる、いくつかのニュースに絞って選び、ニュースがもつ長さの放送時間ではなかなか触れられないような、事象の裏側まで広げて扱います。
 そもそも数多くの話題を扱おうとしても、全国に取材ネットワークを張り巡らした報道と違って、限られた制作スタッフでは、すべてをカバーすること難しいのです。
 それを逆手に取る形で、一番興味のあるニュースに絞って、長く放送するという手法を取るのです。
 一番興味のあるニュースは、各局のニュース番組でも取り扱います。しかし、その扱う時間は限られていて、どの局のニュースも似たり寄ったり。視聴者はそのニュースの話題に触れれば触れるほど、その先がもっと知りたくなるものです。
 そこにビジネスモデルを見いだそうとしたのが、ニュース系情報番組であり、当時の「とくダネ!」でした。
 そのためには、その日一番のニュースが、視聴者の感情に訴えかける要素があることが必要です。スタッフは必死になって、視聴者の感情に訴えかける要素がないか、そのニュースを様々な角度から見つめ直したりしながら、探し回ることになります。
 あるニュースに対して、視聴者が関心を寄せ、興味を抱いていると判断されると、何日にもわたって放送されることがあります。そういったときに欠かせないのが、取材していくに従って、視聴者が驚くような新たな事実が発掘されることです。その新事実の中に視聴者が感情移入できる新たな要素が、さらに見つかったりすると現場は色めき立ちます。
 例えば、理不尽な形で亡くなった子どもに「なんて、かわいそう」という感情が満ちあふれているとします。そこに以前から非道な虐待が繰り返されていたという新たな事実が突きつけられると、視聴者の「怒り」という感情は、何倍にも増幅されていきます。こういうケースでは、最初に想定していたニュースの価値を大きく超えて、連日のように放送される大きなニュースになることがよくあります。
 逆にあまり大きなニュースが無く、そこそこのニュースばかり。視聴者の感情に訴えかける要素も見つからない。そんなとき情報番組の制作現場は、どのような放送内容にしようかと、頭を悩ませることになるのです。


<とくダネ!の手口>

 本来であれば、裏付けのためにリサーチしたような細かくて些末な情報も、無駄には出来ません。番組側は、あたかも「とことんまで詳しく調べていますよ」という演出を施します。ありがたい情報として、プレゼンターと呼ばれるしゃべり手が、口伝えで表現することによって、スタジオの出演者の様々な感情を刺激することを狙います。
 スタジオでニュースに関する話題が広がっていく様子を見せられた視聴者は、そのニュースについて改めて考える時間が、与えられます。スタジオでいくつかの意見が出る中で、自分と同じような意見に大きくうなずき、自分が思いもしなかった観点から切り込んだ意見にハッとさせられたりします。
 普段から好感を抱いている出演者が、なるほどというようなコメントをしたときには、その出演者と同じような感情が呼び覚まされます。まるで、前々からそう思っていたかのような錯覚さえ起こします。
 結果として視聴者は、ニュースそのものに呼び起こされる感情に加えて、スタジオの出演者に対して抱く感情にも、大きく刺激を受けることになります。
 情報番組では、スタジオの時間を長く取って、出演者の意見を紹介して議論したり、時には井戸端会議のようなことに時間を費やしたりしますが、こういった視聴者の感情を少しでも揺さぶろうという演出効果を考えてのことです。
 些末な情報を、いかにもありがたいという口調でプレゼンターが紹介して、MCの小倉智昭さんや他の出演者がそれに対して突っ込むという手法は、番組開始当初から「とくダネ!」が最も得意とする演出の一つでした。実は「とくダネ!」の正式番組タイトルは「情報プレゼンター とくダネ!」といいます。番組を開発する当初から、このあたりの面白さを目指していたことがわかります。
 「とくダネ!」が結果を残したことから、他の番組でも取り入れられるようになり、ニュース系情報番組の最もポピュラーな演出手法としてすっかり定着しました。その結果、今でもしばしば各局の情報番組で見ることが出来ます。
 これの良いところは、一生懸命取り組んでいる姿勢が演出の基本になっているので、視聴者から好感を抱かれやすい、嫌われないということにあります。


<情報番組では大きなニュースは…>

 「とくダネ!」の成功をきっかけに、ニュース系情報番組がテレビ各局で当たり前のように編成され一気に増えました。
 その頃のテレビ局各社は、デジタル化を含めた様々な技術革新に対応するために、大きな額の設備投資が必要になり、資金調達のために相次いで株式を上場していました。その結果、以前よりも株主の目を気にするようになり、利益を追求する傾向が強まりました。ニュース番組も例外ではなく、以前と違って視聴率獲得がより強く意識づけられるようになりました。
 ニュースの価値を判断する材料には様々なものがあります。例えば以前のNHKのお昼の定時ニュースは、多くの人の生活に関わるという理由で、余程のことが無い限り政治や経済のニュースがトップ項目でした。ニュースの価値を判断する編集長という役職が、ニュースに携わる中で、どのような経験を積んできたのかということが、この判断に大きな影響を与えたりもします。例えば海外の特派員経験が豊富な編集長は、アメリカの政治・経済が世界に大きな影響を与えるということで、大きく取り上げたりします。
 私は2018年から19年までの一年間、報道の編集長を務めました。私の場合は、ワイドショーも含めた番組制作経験がほとんどで、記者クラブのような報道での取材経験は、社会部の警視庁記者クラブしかなく、海外への赴任経験もありません。その結果、どうしても視聴者の感情の大きさを優先させるような判断を下すことになります。それは結果として、ニュース番組の中で視聴率という要素を重視するということを意味します。
 私のような経歴の人間をニュースの編集長に起用するということは、視聴率という要素がテレビ局の報道にとって、今後もますます重要視されるという証左といえます。
 民放各局だけでなくNHKも含めて、ニュースの価値判断に視聴者の感情を考慮する要素が大きくなってきていることは間違いありません。その結果、ここ20年でニュース番組は情報番組の扱う内容にどんどん近づいてきました。
 ワイドショーから脱してニュース系情報番組が急増した情報番組と、ニュースの中にある感情という要素を強く意識し始めたニュース。お互いが歩み寄った結果、この二つの違いは、視聴者から見てよくわからなくなっていったというのが、ここ二十年の経緯です。

 同じニュースを扱っていても、制作体制の違いなどから、情報番組はこの「インド洋大津波」のような大きな出来事に充てられる放送時間が、ニュースに比べてかなり長くなることは、おわかりいただいたと思います。
 大体の感覚ですが、ニュースの放送時間が4~5分というときに、ニュース系の情報番組では40~50分くらいという感じでしょうか。
 情報番組では放送のために、一つのニュースについて圧倒的に多くの情報と要素を必要とするのです。


<インド洋大津波はどう報道されたか>

 「インド洋大津波」に話を戻しましょう。日本人の視聴者が、自分のことのように感情移入できる点があるとしたら…。やはり被害に遭った日本人がどのような理由で現地に赴き、どのように被災したのかという点にあります。これらの要素は、このニュース語る上で欠かせない、最も基本的な情報と言ってもよいでしょう。
 しかし、先ほど言及した通り、外務省は性別と年齢しか明らかにしませんでした。このため、被害者や犠牲者の情報にたどり着けません。結局、災害のメカニズムや全体の被害の概況をまとめた放送になりがちです。
 youtubeに投稿された映像も、当然事実関係の確認を取った上で使用します。映像メディアが最大の武器であるテレビ局にとって、こういった映像は、何万語の言葉を費やすよりも、何が起きたのかということをわかりやすく伝えることができることは言うまでもありません。
 ただ最近は災害映像を繰り返して使用することはもちろん、衝撃的な映像を放送すること自体に、慎重な姿勢が求められている側面もあります。
 いずれにしても、何よりその映像が撮影された現場には、日本人がいて巻き込まれたかもしれないということを、具体的な事例を示しながら伝えられませんでした。それは、この大災害を、視聴者が自分のこととして考え、その心に深く刻みつける機会を失ったということです。
 私は番組の制作現場の責任者(チーフプロデューサー)として、この「インド洋大津波」を扱った一連の放送(報道)は、自分の番組も含めて、視聴者が感情移入しづらく、事象の重大さに比べて、視聴者の記憶に残りにくかったという印象を強く抱いています。


<公共性と公益性って何?>

 今から7年ほど前(2016年)、情報番組の制作部門を統括する責任者として、ディレクターに向けて、番組制作の基本的な考え方、取材のあり方や編集の注意点などをかなり具体的に記した小冊子「ディレクター心得」を作成(全面改訂)しました。
 その際に「公共性と公益性」について、わたくしが書いたのが以下の文章です。

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 もし逮捕された容疑者が、あるいはその弁護士が、「実名で放送したら、人権を侵害しているとして訴える」といった場合、あなたはどうしますか?
 もちろん、逮捕された人物にも人権はあります。容疑者の連行の際に、手錠と腰縄に映像処理をするのは、そうした容疑者に配慮していることの表れです。
 そして逮捕された人物の実名や、顔写真を放送することも同様に、その人物の人権を侵害する行為と言えます。
 しかし、私たちがその事実を放送するのは、ひとえに視聴者が広くその事実を知りたく思い(公共性)、犯罪が広く社会に知られるようになり、今後の防止に役立つ、すなわち社会に広く利益をもたらす(公益性)から、という考え方に支えられているからに他なりません。言い換えると、私たちの取材並びに放送は人権を侵害しているものの、「公共性」「公益性」に鑑みて、違法性がないとされているのです。
 そもそも、その事件を放送で扱おうと思ったきっかけは何でしょう? 「被害が大きいから」「面白そうな事件だから」「有名人がからんでいるから」…等々、様々な理由が挙げられると思います。もちろん、誰も興味を示さないようなさまつでありふれた事件を扱おうとは思わないでしょう。
 「被害が大きい」ということは、社会全体が関心を寄せるような大きな事件なのでしょう。「面白そうな事件」とは、これまであまり目が向けられてこなかった新しい事件の態様を備えていて、類似の犯罪の被害者をこれ以上増やさないように広く社会に知らせるだけの価値があり、視聴者の興味をひくということなのかもしれません。「有名人が絡んだ事件」は、大勢の人が話題にすることでしょう。そしてそこにある真相は、社会にも大きな影響を与えるかもしれません。
 このように、私たちが扱う事件には共通点があります。視聴者が広く興味をひかれる関心事だということです。
 一人の人権を制限するかもしれないが、それによって社会が広く利益を受けるというのが、唯一の“よりどころ”になっているといえます。
 この考え方が私たち放送局だけでなく、新聞や雑誌など、ありとあらゆるメディアの報道を支えています。
 「公共性」「公益性」という考え方は、私たちの取材・放送活動のすべてを支えているといっても過言ではないほど大切な考え方です。半面、非常に曖昧な概念で、なんでもかんでも「視聴者の関心があるじゃないか」と都合良く拡大解釈しがちです。しかしその際に振りかざした「公共性」「公益性」が視聴者や社会から広く賛同されないとなると「放送が人権を侵害している」「興味本位の不適切な放送だ」というそしりを免れませんし、ひいては視聴者からの信頼を失うという放送局にとって最も大きな代償を払うことを、肝に銘じる必要があります。

 先ほどの例について、誤解を恐れずに言えば、「公共性」「公益性」に照らし合わせて、実名・顔写真を使って逮捕されたという事実を放送することまでは許されているが、手錠・腰縄姿を放送することまでは許されていない、そのような解釈もできます。
 このように、「公共性」「公益性」と「人権侵害」は一つ一つの放送、報道の中でせめぎ合うのです。

 本当にその情報は伝えるだけの価値があるのか?
 広く知らせることが社会正義にかなっているのか?
 その放送で傷つく人がいるとしたら、それは許される範囲内なのか?

 「公共性」「公益性」とは非常に曖昧な概念であると言いました。それだけに様々な要素を総合的に判断し、議論を重ねながら、バランスが取れたところで一つ一つの表現が決まっていくのです。

 ディレクターである以上、あなたもこの議論から逃れることはできません。

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 引用が長くなりました。
 厳密さを少々欠いていると、専門家からはご指摘を受けるかもしれませんが、現場に赴くディレクターに少しでもわかりやすくと、事件の取材を念頭にして書いたものです。
 現場に出たディレクターは、デスクやチーフディレクターの指示を受けながら、取材活動をすすめますが、すべての行動を逐一、電話で指示を受けるというのは現実的ではありません。現場に出た人間が、この言葉(「公共性」「公益性」)を巡る議論について、本質的なことを理解していないと、実はすぐに取材活動が行き詰まることになります。
 例えば、公道でカメラを回していたときに「誰の許可を得て、ここで撮影をしているんだ」と文句を言われることはよくあります。公共性や公益性という概念を知らないディレクターは、このまま取材を続けて良いかどうか、途方に暮れることになります。
 公道や誰でも入れる公共スペースでのカメラ取材について、マスコミは広く認められていますが、これは広く視聴者の役に立つという「公共性」や「公益性」に支えられているからに他ならないからです。
 よくあるトラブルの典型例として、ディレクターが最初に言ったことと、その後会社の上司から言われたこと、そして最終的な会社の正式な見解との間に、大きな矛盾を生じるケースが挙げられます。よく理解していないディレクターの発言が一人歩きすることほど、やっかいなトラブルはありません。その番組や会社全体の取材活動に対する信頼を失います。
 現場に派遣されて、外部と接触する機会の多いディレクターこそ、マスコミやメディアの基本的な論理や考え方について、自分なりの方法で理解しておく必要があるというのが、私の考えです。

 「公共性」や「公益性」という言葉は、マスコミが関係する裁判を見ると、ほぼ100%登場します。
 公道での取材だけではありません。マスコミの活動のほぼすべてが、この考え方に支えられています。いかにこの概念が後ろ盾になっているかがうかがえます。その点を見ても、マスコミにとって、いかに重要な概念かを感じ取っていただけるでしょう。


<公共性・公益性の要件>

 ではここで一つ問題を出します。
 民放各局で警察密着特番がよく放送されます。あの番組で犯罪に関わる被疑者(容疑者)や関係者は、すべてモザイク処理され、音声も変えられています。先ほど、テレビ報道は実名が原則と言いました。実名ということは、当然モザイク処理などせずに、そのまま顔を写してもいいはずなのに、なぜモザイク処理をしているのでしょうか。
 よくある答えが「プライバシー保護のため」。もちろん間違いというわけではありませんが、それが理由ならば、すべてのニュースは匿名・モザイクになります。なぜ、この警察密着に限ってモザイク処理や音声替えが必要なのかという答えになっていません。
 どうですか? 実はこれについて、テレビ局に勤務している編成マンや制作スタッフに聞いても、きちんとした答えが返ってきたことはあまりありません。なんとなくわかっていても、きちんと正確に答えることは意外に難しい問題と言えます。
 キーワードとして「編集」という言葉を挙げておきます。編集といっても実は二つ意味があります。一つ目は(A)多くの映像素材から必要な映像を選んで、短時間でわかりやすく形に抜粋する作業のこと。テレビ局など映像メディアの現場では、この意味で使われることがほとんどです。もう一つは、新聞や雑誌などの活字メディアで主に使われるのですが、(B)数ある候補のテーマの中から、掲載するにふさわしい必要なものを選び出す作業のことを言います。
 さきほど公共性や公益性について「視聴者が広く興味をひかれる関心事」という説明をしました。その中にはもう一つ大切な作業が隠れていました。
 視聴者が興味を惹かれるような出来事は、毎日数多く起きているかもしれません。しかし放送時間や紙面は限られています。そのためにメディア側は、毎日毎日その中から最も視聴者が興味を抱くであろう事象を選びに選んでいるのです。これが(B)の「編集」作業ということになります。テレビ局のような映像メディアでも、この(B)の(活字的な)編集作業が常に行われているのです。
 実は先ほどの警察密着特番は、この(B)の編集という作業を経ていないのです。もちろんいくつかの映像の中から、迫力あふれる訴求力のあるテーマを選び映像を編集するのですが(編集(A))、そこには全国のありとあらゆる事象と比較した形跡はありません。あくまでもたまたまカメラが現場にいたことから、収められたということに過ぎません。その事象(事件)を実名で放送することは、その当事者にとってみると、あまりにも不公平ではないでしょうか。
 同じようなテーマを視聴者に問いかけるとして、もっとふさわしい別の事件があるとしたら、先ほどの(B)の編集作業を経て、そちらが放送されていたはずです。
 偶然その場所にカメラがいたという理由だけで、実名で放送されるとしたら、被疑者や当事者にとっては、さすがに納得がいかないでしょう。
 ただ同じようなテーマをなげかけるとしたら、やはり迫力ある映像による効果は無視できません。それを両立するために、映像にモザイクをかけて匿名で放送するという方法がとられているのです。
 もし全国の警察にあまねくカメラで密着取材をして、その中から選び抜いたテーマ(ネタ)を放送するとしたら、私ならばモザイクは必要ないという判断を下すでしょう。もちろんそんなことは現実的ではありませんが。
 これと似たようなケースで、微罪にもかかわらずちょっとした話題になるような事件をどう扱うかという問題が挙げられます。事件としての重大性や悪質性よりも、時代を象徴するような話題性が先行するような場合は、匿名で報道することがあります。
 公共性や公益性に根ざした実名報道には、実は「公平性」という大切な要素も存在しています。
 実名報道は、被疑者や当事者の人権を制限する側面を持っています。逮捕されたと報道されれば、いくら事実とはいえ、今後の人生に大きな影響を与えることは間違いありません。
 報道される理由が、たまたまその場にカメラがいたというだけでは、納得出来ないでしょう。そのためには、当事者や社会が広く納得するよう、ニュース選びは公平かつ公正でなければならなりません。
 ニュースの項目を選ぶ作業は、私心のない高潔な判断が要求されるのです。


<公共性・公益性は今後どう変化していくのか>

 「公共性」「公益性」という言葉は、どこかの法律の条文に書いてあるわけではありません。長きにわたるマスコミを巡る裁判の判例を通して、定着してきた言葉です。法律用語ならば、法律そのものが改正されない限り、その概念の適用や運用法はある程度の範囲に収まると思われますが、判例を通して定着してきた概念ですので、新たに出てきた技術革新や世の中の雰囲気で、その解釈や運用方法がどんどん変化していくことが予想されます。
 例えば、「個人情報保護法」の議論を通して、一人一人の権利意識が高まったことに影響を受けていることは、先ほど指摘したとおりです。とくにインターネットの登場と普及によって、マスコミでなくてもSNSなどで、個人や団体が手軽に情報発信できる時代になりました。個人のブログやSNSで発した記述などを巡る裁判でも、この考え方が争点になるケースが散見されます。
 例えばSNSを考えた場合、そのプラットフォームが持つ特性、例えば利用者の規模や年齢層、だれでもアクセスできるオープンな場なのか、それとも会員限定のクローズな場なのかといった形態、そのSNSにおけるこれまでの発言の内容とそれに対する社会からの信頼度などなど…。
 同じような表現でも、人権侵害の度合いは、これまでの既存マスコミとは違ってケースバイケース、千差万別といえそうです。ネットに対するリテラシーは、年齢によっても大きく分かれそうです。
 さらに最近では「忘れられる権利」とデジタル社会という問題が浮上しています。刑を終えて社会復帰をしようとしても、名前を検索すると逮捕された当時の様々な記述がでてきてしまうという問題に象徴されます。
 一方で図書館に行くと新聞の縮刷版という過去の紙面を縮小してすべて収録した出版物を閲覧することができます。当然、過去に事件で逮捕されたという事実を実名で記載された記事を目にすることが出来ます。この記事を黒塗りにするという話は、現実的ではないでしょう。縮刷版そのものの存在に否定的な考えを持つ人もいるかもしれませんが、ある意味「歴史の証人」という新聞の縮刷版の役割は、後世の歴史家が検証する上でも,非常に重要な資料と言えます。
 自宅に居て簡単に検索できるという状況と、わざわざ図書館などに出向いて日付を調べた上で探す作業は、まったく別物という判断になるのでしょうか。
 しかし「忘れられる権利」という問題提起やプライバシーを重視する流れからも、マスコミ各社の間では、微罪事案についての逮捕報道は、匿名の範囲が広がる可能性が容易に予想されます。
 そういった情報社会の進歩にともなう軋轢を、今後裁判所はどう判断して、どう裁いていくのか。これだけでも一つの論文が書けそうなほど、広がりを見せています。
 マスコミと社会の間で、これまで築き上げられてきた「公共性」や「公益性」という概念に対して、新たに登場したネットメディアのそれぞれの特性が、言論のあり方やメディアそのものの議論に、大きな影響を及ぼすことは、容易に想像がつきます。


<あなたの家族や知人いる海外で大きな津波が…>

 先ほどの「インド洋大津波」を例に挙げると、「公共性」や「公益性」とは何でしょうか、具体的に考えていきたいと思います。
 そういった地球規模の災害があったという事実が、広く報道されて、多くの国民に知識として根付くことが望ましい。これに異を唱える方はいないことと思います。
 そういった知識が根付いていることを前提として、そこから生じるいくつかの教訓が考えられます。まず
①「日本以外でも大津波が起こり、巻き込まれる可能性があること」
 これまでに大きな津波を経験した場所を、世界地図で見ていきましょう。
もちろん、日本近海は、世界的に見ても最も地震と津波が多い場所です。
 そこから広く太平洋に目を向けると、環太平洋の地域、太平洋に面した沿岸地域であれば、どこでも遭遇する可能性があるといえます。観測史上、最も大きな規模のチリ地震(1960年=M9.5)では、津波が地球を半周して、2万キロも離れた太平洋の対岸にあたる三陸海岸に押し寄せ、大きな被害を出したことはよく知られています。
 インド洋では、スマトラ島沖やその近海で、その後も大規模な地震が発生しており、インド洋大津波のようなリスクは、今もあると言えます。
 実は大西洋の沿岸でも、大きな津波に襲われたことがあります。18世紀のリスボン地震では、ポルトガルの首都リスボンが、地震と津波によって壊滅的な被害を受け、当時栄華を誇ったポルトガルが没落する一因になったといわれています。
 最近では、トンガ沖にある火山の海底噴火によって引き起こされた“津波”が、日本にも影響を与えて話題になりました。
②「日本のように『津波警報』が発令され、スマートフォンの位置情報などを活用して海沿いにいる人たちに広く注意を促すシステムは、他の国にはまだないこと」
 海外でも地震の観測網が整備され、津波が予想されるような大規模な地震が観測された場合、情報が発表されるようなシステムも徐々に整備されていると聞きます。しかし、日本のように、その地域にいる人が身につけているスマートフォンに警報を送り、音声や画面で注意を促すようなシステムを備えている国は、海外のどこの国をみても見当たりません。
 揺れを感じる場所にいた場合、ひょっとしたら津波が来るかもしれないと想像することは出来ますが、「インド洋大津波」の例で言うと、タイやスリランカといった震源から遠く離れた場所では当然揺れはほとんど感じていません。そうなると、津波の発生を予測し観測した上で、警報を発令するシステムがない限り、なんの前触れも無く訳もわからないまま突然海面が盛り上がり、そのまま飲み込まれるということになります。
 家族や知人が訪れている海外で、大きな津波が発生した場合、あなたはどうしますか。
 もしあなたが①や②の事実を知識として身につけている場合、どのような状況なのか、急いでネットで調べることになるでしょう。
 日本の近海であれば、日本の気象庁のホームページやニュースをみることになりますが、それ以外の地域の場合、最も頼りになるのはアメリカ海洋大気庁(NOAA)のホームページです。中核の一つであるハワイ州のオアフ島で運用している「太平洋津波警報センター」をはじめ、日本の気象庁ともリアルタイムで情報を交換しています。ここでは世界中の地震と津波を監視しており、常に情報が更新されています。
 その結果として、あなたの家族や知人の身に危険が迫っている可能性があると感じた場合、電話をかけ続け、メールやSNSで連絡を取ろうと躍起になることになるでしょう。
運良く電話がつながれば、
「無事なの?」
「大丈夫?」
「周りの様子は?」
「もし海岸近くにいるんなら、とにかく高台に移動して」
 震源から遠く離れていて、揺れていないとしたら、少しは時間に余裕があるかもしれません。
「とにかく少しでも高いところに移動して」といつもより強い調子で伝えることになります。
 そしてさきほどのアメリカ海洋大気庁(NOAA)のホームページのアドレスを貼り付けて、メールを送ることでしょう。
 こういった行動が取れるのも、①と②の教訓があってのことです。
 そしてこの教訓を身につけるきっかけがあるしたら、2004年の「インド洋大津波」が一番最近の出来事です。
 大規模な災害に対する恐怖と人間の無力さ。大切な人を失った家族の悲しみ。それらの事実を我がことのように感じて心動かされた視聴者が、海外での出来事とはいえ、この大災害を忘れずに、語り継いでいく。それが本来あるべき姿だったのではないでしょうか。そうすれば、今よりももっと多くの人が記憶し、社会に教訓として海外の津波に対処する方法や心構えが根付いていたのではないか。
 その後に起きた東日本大震災の大津波の悲惨な光景によって、多くの日本人は、「インド洋大津波」の記憶が上書きされたような気もしています。津波の恐怖という点では共通していますが、海外を訪れた日本人が現地で遭遇するかもしれないという観点から言うと、別の知識と教訓が必要なのです。
 私は社会全体が大きな損失を被った気がしてなりません。


<学生時代にどうやって暗記してました?>

 そういった知識が社会に根付き、教訓として生かされるために、必要なことは…。
 どうすれば、みんなの記憶に残り、社会にずっと定着していくのか?
 そのために、社会を構成する個々の人間の記憶の仕組みに、迫ってみたいと思います。

 記憶には大きく分けて「長期記憶」と「短期記憶」があると言われています。社会に広く長きにわたって定着するということを考えると、「長期記憶」になります。さらにこの「長期記憶」は、言葉に出来る「宣言的記憶」と、言葉に出来ない「手続き的記憶」に分かれます。言葉に出来ない記憶ということでよく例に挙げられるのは、自転車の乗り方です。一度身についたら、基本的に一生忘れることはありませんから、まさしく長期記憶です。しかし言葉で説明しろといわれたら、誰もが困惑することでしょう。
 今回のケースでは「インド洋大津波」という言葉に出来る記憶について考えるわけですから、「宣言的記憶」の方です。
 この「宣言的記憶」は、さらに「エピソード記憶」と「意味記憶」に分かれます。

「そんなわかりにくい説明じゃ、まったく記憶に残らないじゃないか!」

 すみません、おっしゃるとおりです。怒るのも無理ありませんよね。人の記憶にどうしたら残るのかという話が、いきなり記憶に残りにくいなんて、皮肉ですよね。
 じゃあ、どうすれば記憶に残りやすいのか。これからお話しすることの本質に関わることですから、皆さんも一緒に考えてみてください。

 話を戻します。「エピソード記憶」というのは自分が経験した記憶です。 
 例えば、昨晩は何を食べましたか。
「おでんでした」
「練り辛子が利きすぎて、涙がでてきました」
「日本酒がすすんで、飲み過ぎて二日酔いなりました」
 これらは、すべて個人の体験に基づく記憶(エピソード記憶)ですよね。
 それに対して「意味記憶」とは、
「人間は辛いものを摂取すると涙が出る」
「お酒を飲み過ぎると翌日も体調が悪い」
 といった普遍的な事実や知識に関する記憶です。

 記憶というと皆さんは何を連想しますか。学生時代の勉強を思い出しません? 何でもかんでも、簡単に覚えられたらなぁ、記憶の達人だったらどれだけ楽だろう、試験の直前、机に向かっているときに、誰もが一度は思ったことがあるでしょう。
 例えば、二次方程式の解の公式を思い出してください。
 a(x*x)+bx+c=0…①
のとき
 x=(-b±√(b*b-4ac))/2a…②

「思い出してって、そんなの覚えてるわけないじゃん」
「今見てもさぁ、ややこしくて、とっつきにくい,覚えにくい式だなぁ」
「もう忘れているからさぁ、全然『長期記憶』じゃないじゃん」

 まぁまぁ、そう言わずに。皆さんは、中学の数学の授業で習ったはずです。そしてその後の中間・期末試験では、この公式を使って問題を解いていたことでしょう。高校の入学試験を受けた人は、この公式を覚えていたはずですよ。それだけで十分、長期記憶ですよ。
 そういえば、なんとなく、こんな感じだったかも、そうそう、これだ、これっ、思い出したでしょ。
 では、どうやった覚えました?
 私の場合は、覚えるんじゃなくて、いつでもこの公式を作れるように、作り方を覚えるようにしていました。
①    の式の両辺をa割って(a≠0、二次方程式という仮定ですから)、左辺をx+b/2aの二乗の形を作る、そうすると右辺は
(b*b―4ac)/4a*a
 両辺の平方根をとって、式を整えると②になる。
 実はこのやり方を知っていると、公式を覚える必要はありません。公式を作る手順と同じことが、いつでも出来るんですから。
 しかし、何度か同じことをやっていると、だんだん面倒くさくなってきます。公式の作り方を知っているのですから、大体の形は、すぐに思い浮かぶようになります。
 そろそろ公式を作る手間を省いても良い頃でしょう。実はその段階になったら、手が公式をなんとなく覚えているものです。その公式に数字を代入して、一回一回公式を作る以前のやり方と答えが同じことを確かめます。これを繰り返すと、公式の記憶は、完全なものになっていきます。
 その後も数学や物理などで様々な公式に出会いましたが、いつも同じ方法で覚えていきました。
 自分でも、手間暇がかかる非効率的な覚え方だなと思うこともありました。一つの公式が定着するまで、かなりの時間がかかります。
 一方でこの覚え方の良いところは、公式の導き出し方そのものを覚えていることから、例えば公式が当てはまらないようなケースや、勘違いしやすいケースなどでも、原点に立ち返って考えられるので、そういった落とし穴にはまることが少ないことが挙げられます。

 手を動かして何度か自分でノートに書いて、公式を導き出す一つ一つの体験は「エピソード記憶」といえます。これを何度か繰り返しているうちに、一つ一つのエピソード、体験から離れて、二次方程式の解の公式そのものが、抽象化した記号にも関わらず、自然に身体に身についていきます。その段階で公式が「意味記憶」として定着したといえます。
 エピソード記憶を幾度となく重ねていくうちに、意味記憶として定着する。学生時代の勉強を思い起こすと、皆さんも思い当たるでしょう。
 板書をノートに書き写したり、覚えるためにノートに何度も書いたりというのは、エピソード記憶を重ねて、意味記憶として定着させようとする方法の一つです。
「あの年号って教科書の右下の方に書いてあったよな。脚注にもなっていたし」
 体験に基づいたエピソード記憶ですね。それをきっかけに、教科書の映像を思い起こして、年号を思い出したことってありません? これを繰り返していると、覚えにくかった無機的な年号といった記号が、いつの間にか記憶として定着していきます。

<記憶と物語の深い関係>

 皆さんは「ストーリー(物語)法記憶術」というのをご存じでしょうか。様々な科目で必要な暗記項目を、ストーリー仕立てにして覚えるというものです。
 世界史や日本史などの歴史科目は、当然のように物語の宝庫ですが、経済や政治などの項目も、これまで実際にあったエピソードを覚えることで、一つ一つの考え方を学んでいきます。さらに数学や物理といった公式も、どうやってその公式が出来上がったのかという考え方をストーリーに見立てて覚えていくという方法です。実は先ほど言及した二次方程式の解の公式を自然に覚える方法は、公式の作り方をストーリーに見立てると、この方法の一種ということになります。
 この「ストーリー法」という名前を知らなくても、似たような方法を取り入れている人が多いポピュラーな勉強法です。無味乾燥に見える「意味記憶」を、個人個人の体験に則した「エピソード記憶」に置き換えながら覚えていく方法といえます。覚えたときの周囲の状況、匂い、音楽などの雰囲気も合わせることによって、より記憶が鮮明になるという人も多くいるようです。
 この物語が果たす役割の中で最も大きいのが、いくつもの関連した重要な情報がお互いを補強しながら、一度に多くの要素が記憶に残ると言う点です。


<感情を伴う経験が記憶を強くする>

 実は、記憶は感情によって、大きく影響されるらしい。皆さんが覚えている過去の出来事を思い起こしてください。
「家族揃って出かけたレジャーの楽しい記憶」
「友人と出かけて、カブトムシを多く捕まえた」
「プールで溺れて、本当に危なかった」
「あれだけかわいがっていた愛犬が死んだとき…」
「どうしようもなく辛いときに、ぎゅっと抱きしめられたぬくもり」
 ニュースはどうですか。
「何の落ち度もない被害者が惨殺される理不尽な犯罪に対する怒り」
「幸せの絶頂から不幸のどん底に突き落とされた新婚カップル」
「自然の驚異を前にしてなすすべもない人間の無力さ」
 そこには喜びや楽しさ、悲しみ、怒りといった、普段より強い感情が見て取れます。
 心が動かされた体験は、心に深く刻み込まれがちなことは、皆さんも直感的には理解できることだと思います。
 仕組みとしては、主に記憶を司る大脳辺縁系の「海馬(かいば)」と呼ばれる領域が活性化することで、「ドーパミン」と呼ばれる神経伝達物質が放出され、情報は脳に記憶されます。この「ドーパミン」は、うれしい、楽しい、わくわく、どきどき、といったポジティブな感情が生じることによって放出され、記憶力が高まるといわれています。
 さらに同じ大脳辺縁系の扁桃体と呼ばれる神経細胞が集まっている部位が、感情をコントロールする上で、非常に大きな役割を果たしているのですが、その扁桃体が海馬、前頭前野と相互作用することによって記憶が増強されるといいます。
 このように感情と記憶との間には、非常に密接な関係にあるようです。

 記憶術の一つに、お気に入りの曲を聴きながら暗記をするというのがあるそうです。私はやったことありませんが、曲によって想起される感情と記憶が結び着くことを利用しているというのですが、どうでしょうか。


<世の中の記憶に残るためには、頻度、物語、感情>

 報道活動を支える「公共性」や「公益性」というやや難しい概念を、少しでもわかりやすく具体的に説明することが目的でした。
 報道された内容が、マスメディアという媒体に乗って世の中の人に広く伝わり、その内容に接することによって、一人一人のエピソード記憶を形作っていきます。大切な要素を含んだ報道内容は、報道各社によって様々な内容を伴って幾度となく伝えられます。エピソード記憶が度重なることによって、その記憶は強化されます。そして感情が揺さぶられるような伝えられ方をすると、その報道に接した人たちに、その内容は強く印象づけられるのです。
 そのエピソード記憶の積み重ねが、普遍的な「知識」という“意味記憶”に置き換わり、そこから見いだした「教訓」が、少しでも社会を良くしていくことに貢献出来たならば、それは報道機関が唱える「公共性」や「公益性」というものを、一番わかりやすく体現しているのではないか。これが、ここで提示した議論の主旨と言えます。
 例えば海外で津波に遭う可能性があるものの、日本のような警報システムはありません。情報を入手し、安全を確保しなければならないという「知識」は、ニュースから得られた「教訓」といえます。
 そのために記憶の仕組みを考えながら、いくつかの仮説を提示しました。
 まず①「エピソード記憶」を繰り返すことによって「意味記憶」として定着していく。
 それが人々の暮らしをより安全で豊かにする「知識」や「教訓」になること。
 繰り返すということは、テレビ、新聞、ネットといったそれぞれのメディアが、独自の取材を交えて、同じニュースについて、繰り返し伝えてくれるということです。確かに、ひとたび大きな事件や事故、出来事が起きると、マスコミは、何日にもわたって手を替え品を替え、様々な角度から切り込んで報道し続けます。
 そのニュースの持つ価値は、視聴者や読者がどれだけその事象に深い関心や興味を持っているのかということによって大きく左右されます。さらにマスコミ各社の編集責任者は、そのニュースは、どれだけ大勢の人に影響を及ぼすのか、ニュースの背景にはどのような「教訓」が含まれているのかということなども考慮します。視聴者や読者の興味に加えて、そのニュースの価値を、専門家の立場から見ていきます。このニュースは扱うべきなのかどうか、扱うならばどの時間帯で、どの紙面で、どのくらい報道するのが適切なのかということを一つ一つ判断していきます。

 次に②物語性を感じさせる内容は、記憶に残りやすいという点を挙げました。
 私は入社して最初に報道局に配属され、短い時間で、事実関係の要点をより簡潔に、わかりやすく伝える訓練を受けました。そのためには「放送用ニュース原稿」の定型にある程度当てはめながら書き進めることになります。5W1H(いつ、どこで、だれが、なにを、なぜ、どのように)の考え方などを基本に組み立てられた文章は、受け取る視聴者側もなじみがあることから、伝わる内容に安定感があります。
 例えば、
(a)きょう正午ころ、○○市内の銀行のATMで、他人名義の口座からお金を引き出そうとしていた無職の28歳の男が、詐欺の疑いで逮捕されました。
(b)特殊詐欺の「出し子」役と見られています。
(c)逮捕されたのは、○○○○容疑者(28)で、○○容疑者は、きょうの午前中に、通帳をだまし取られた80代の女性の口座から、50万円を引き出そうとしたところ、不審に思った銀行の通報を受けて駆けつけた警察官に、詐欺の疑いで現行犯逮捕されました。
○○容疑者は、複数の名義の通帳を所持しており、調べに対して「ネットで募集していたアルバイトに応募しただけ」と供述しています。
「出し子」と呼ばれる、現金の引き出し役とみられており、背後には大がかりな特殊詐欺グループがいるとみて捜査しています。

 (a)と(b)はリード文といわれる、事実の概要を短く伝えるもので、ここだけでも視聴者に最低限の事実関係が伝わることを目指します。最近はさらに刈り込んで「他人名義の口座から~」という部分から始めることも増えています。
 (c)は本文といわれる部分で、時間の都合で最後の方からカットする場合のことも考えて、原則として重要な内容から順番に書いていきます。
 短いニュース原稿ですから、皆さんも大体60秒くらいで読めるのではないでしょうか。
 わずか60秒=1分という短い時間で、これだけの事実関係をわかりやすく説明する方法は、これしかないと言えるほど合理的で、訓練を受けた人間であれば、ある程度のレベルにはすぐに到達できる便利な記述法といえます。
 これを、物語性を持った構成に作り替えたとしたらどうでしょう?
 例えば、不審に思った銀行員の目線から始まるように設定してみたらどうでしょう。

女性行員「あの男性、先ほどから何度もATMを操作して、現金引き出してるんですよね」
男性行員「あんなに帽子深くかぶってて、確かにかなり怪しいよな」
女性行員「どうしましょうか、警察に届けます?」
男性行員「もし違ってたら…、かなりまずいよな」
女性行員「でもあそこまで怪しいと、逆になんで通報しなかったんだって怒られません?」
男性行員「そうか…、そうだな、わかった。とりあえず警察に連絡して聞いてみよう」
女性行員「じゃあ、わたし電話してきます」
男性行員「わかった、おれはここで見張ってる」

 いくら怪しいからといっても、銀行にとってみるとお客さまであることに違いはありません。もし間違えていたら、銀行員として減点されるでしょう。犯罪者扱いされた人とのトラブル処理に、多大な手間が生じるかもしれません。しかし何もせずに、もし犯罪をみすみす見逃す結果になったら、もっと後悔するかもしれない。どうしよう、心が揺れ動きます。
 ニュースをこういったストーリー仕立てにするというのは、ニュース系情報番組でよくある手法の一つです。あたかも犯罪の現場にいたかのような気にさせ、あわよくば視聴者をその物語の中に入り込んだかのような錯覚を起こさせる。ニュースの中に物語性を見いだして表現することによって、事実関係やそこから得られる「知識」や「教訓」を強く印象づけることを目指すのです。
 これは先ほど触れた、ニュースと情報番組では同じネタを扱う時間の長さが違うことも影響しています。上の二人の行員のやりとりを映像化するだけでも、1分くらいの長さになるかもしれません。それに加えて駆けつけた警察官と男とのやりとり、さらに基本的な事実関係を描くと、5分くらいにはなるでしょう。一方でニュース原稿は、わずか1分で同じような事実関係を表現できます。
 犯罪報道におけるニュース原稿は、事実関係を簡潔に表現するために、文章の主語になるのは容疑者であり、被害者です。犯行の様子や被害の形態が述語になります。また逮捕原稿では、警察などの捜査機関が主語になることがよくあります。しかし通報した銀行員が主役になって、その目線で原稿が書かれることは、基本的にありません。
 先ほどの内容で、5分間の動画を作成するためには、銀行員や現場にいた人からの追加取材が必要になってきます。逮捕された男の風体や様子など、詳しく知る必要があります。
 ニュース原稿の内容ならば、警察からの広報発表で書くことができます。もう少し詳しく1分30秒で伝えたいと思えば、逮捕した警察署の副署長へ電話をかけて、追加取材をすれば事足ります。
 しかし、同じようなニュースを5回放送して5分を費やすことと、物語を伴った内容を一回放送することは、どちらが視聴者の印象に残るでしょうか。
 物語は通常、理屈のつじつまが合うように作られます。その結果、断片的な事実だけではなく、いくつもの重要な内容を結び付けて記憶されます。
 単に特殊詐欺が増えているとか、知人の高齢者に注意を呼びかけようというだけではなく、ATMで目深く帽子をかぶっているような不審者がいたり、複数の通帳を持って現金を引き出し続けているようなときには、警察に通報することも考えようというように、知識や教訓が広がっていきます。
 物語の構成を考えるとき、視聴者の関心を途切れさせないためには、いくつかの「知識」や「教訓」が絡み合うように作られることが多くなります。この結果、重要な要素が、まとまって記憶に残りやすい面もあります。

 三つ目に③感情を刺激するような内容は記憶に残りやすい。その点について、もう少し詳しく考えていきたいと思います。
 実は「インド洋大津波」では、新婚旅行中に海岸を散歩していた日本人の新婦が津波にのみ込まれ死亡していました。他にも家族旅行で訪れていたプーケットで、子ども2人を失った夫婦もいます。
 実はこれらの事実は、大津波の発生当初は知られておらず、その後しばらく経ってから明らかになりました。そのときには、大津波のニュースは下火になっており、あまり大きく扱われませんでした。
 発生が年末と言うことも関係していたかもしれません。年の暮れからお正月にかけてという時期は特番が多く、テレビはニュースの時間が極端に少なくなる時期です。お役所も閉庁するため、担当記者も休みを取るケースが多く、夕刊もお休み、休刊日もあります。ネット記事の更新頻度も少なくなります。
 そして日本人は年が改まると、気分が一新される傾向があるようです。皆さんも年が改まると、年末の出来事がずいぶん昔のことのように感じられませんか。過去よりもこれからの新しいものを求める雰囲気になりますので、年が改まると年末から続くニュースの扱いは極端に少なくなる傾向にあります。
 これらの様々な要素が加わって、「インド洋大津波」を扱うニュースは、その規模や重要性に比べて、非常に少なくなってしまったのではないかと感じています。
 もし、さきほどの日本人が被災した事実関係が、大津波発生から日を空けずに明らかになっていたとしたら…。年末ではなかったとしたら…。もっと頻繁に、もっと大きく扱われ、ニュースを見た大勢の人の感情が動かされたのではないかと思っています。


<「実名報道」はそのために必要だと言ったら…>

 ある出来事が視聴者の記憶に残り、「知識」や「教訓」として社会により定着するためには
①    頻度:様々なメディアで何度も、より長い時間、そして長い期間にわたって様々な角度から報道され、検証されることによって幾度となくその出来事に接することになる
②    物語:単なる事実の羅列ではなく、その出来事から「物語」が感じられるような内容であること
③    感情:見るものの心を揺り動かすような「感情」に訴えかけるような内容であること
 こういった要素を持った報道が、鍵を握るとこれまで説明していきました。
 そのためには、「実名」による報道が必要だと言ったら、皆さんはどう思われるのでしょうか。
 実は、とある授業でこの話をしたときに、後ろの方で静かに授業を受けていた一人の女子学生が突然挙手をして「それは被害者やその家族に『生け贄』になれということですか」とかなり激しい口調で指摘されました。
 教室全体が凍り付いて、わたしも返答に困り、少しの間黙ってしまいました。そのときの教室の雰囲気や臭いなども含めて、今でも鮮明に覚えています。おそらく私の感情は強く揺さぶられたことでしょう。それはどんな感情だったのか。羞恥?畏怖?それとも困惑?うまく言葉にすることは出来ませんが、おそらく一生涯忘れることは無いでしょう。それくらい強く刻み込まれています。
 なるほど、世の中の大勢の人の利益(役立つ教訓や知識を社会全体に定着させること)のために、被害者やその家族が、嫌な思いをして犠牲になっているという構図だとしたら、まさしく「生け贄」という言葉があてはまります。
 悲しみに暮れる中で報道されること自体、確かに苦痛を伴うことなのかもしれません。
 それがメディアの「公共性」や「公益性」のため、社会の利益のために、犠牲になることではないかと多くの国民が思い、報道されることに対して被害意識を募らせていくようであれば、今後被害者の実名報道は消えていくと思わされます。


<紙面が「献花台」という役割>

 例えば、海外では大規模なテロや事件、災害などが起きて、大勢の犠牲者が出た場合、その死を社会全体で悼むような報道が見られるといいます。
 アメリカの小学校で起きた銃乱射事件。26人が犠牲になり、そのうち20人が、6~7歳の子どもという痛ましい事件でした。全米史上でも、最悪の銃乱射事件の一つに数えられています。
 ニューヨークタイムスの一面は、4分の1ほどが黒塗りになっていて、そこには白文字で、犠牲になった子どもや教職員の名前と年齢が記載されていました。同じコミュニティに存在する仲間やその子どもたちの死を悼み、悲しみを共有する。紙面はまるで献花台のような役割を果たしました。そこには読者も被害者もその家族も、追悼に参加することになります。そこには国民全員が参加するという民主主義の理念に通じるものがあるというのです。マスコミは被害者の実名を報道することの根拠を見いだそうとしています。これは専修大学の澤康臣教授が指摘した内容の一部です。
 しかし同じ記事の見出しには、犯行の残酷な描写が躍っている事実についても澤教授は指摘します。
 献花台のような紙面構成と残虐な様子が踊る見出し。どちらもマスコミの本質と言えます。そこにはマスコミが存在することの業のようなものを感じざるを得ません。


<家族葬が実名報道に影響を…>

 すこし話がそれますが、私は小さい頃から、お葬式というものは、なるべく出席するようにと言われて育てられました。この世の中で、参列者の少ないお葬式ほど、寂しくて悲しいものはないでしょ。だからちょっとした知り合いでも、その家族の葬儀でも、都合がつけば行ってあげることが、いいことなのよと。
 プロデューサー時代、スタッフの家族などの葬儀になるべく出席するようにしていたことから、香典をとりまとめ、番組を代表して参列することが多くありました。当時「冠婚葬祭担当」などと言われていましたが、実はこういうことが、その背景になっていました。
 ご存じのように、ここ最近家族だけで故人を送るという「家族葬」が、ずいぶん広まってきました。以前のように、広く知人や関係者が参列する葬儀は、圧倒的に少数派になっています。
 なぜ、「家族葬」が主流になったのかという分析は別に譲るとして、社会全体の雰囲気はますます、被害者の実名報道に対して、反対の風潮が強まることが、容易に想像つきます。家族だけで、静かに送り出してあげたい。先ほどのアメリカの紙面の例は、今の日本では、なかなか説得力を持たないのかもしれません。


<スタジオに並べられた靴>

 もちろん、実名でなくても視聴者の心を動かすような、優れた報道は存在します。40年近く前の放送なのに、私が今でも強く印象に残っているという例を、一つ紹介したいと思います。
 1985年8月、日航機が御巣鷹の尾根に墜落し、520人もの方が亡くなりました。単独の航空機の事故で最も多くの人が犠牲になった、今でも忘れてはいけない出来事です。
 この年の10月から放送が始まったテレビ朝日の「ニュースステーション」は、それまで主流だった原稿を読むニュースとはまったく違うニュース番組を目指して、番組制作感覚あふれる体制で始まりました。キャスターの久米宏さんが所属し、数多くのヒット番組を手掛ける名だたる制作プロダクションでもある「オフィス・ツー・ワン」の制作部隊が大挙して、テレビ朝日の報道局に乗り込んだのです。
 今でもそういう意識は残っていますが、どのテレビ局も報道部門は「純血主義」の色合いが強く、外部からの口出しや干渉を極力嫌います。今よりもさらに閉鎖的だった当時ならばなおさらでしょう。
 情報番組を中心に制作していた「オフィス・ツー・ワン」とテレビ朝日の軋轢は、番組開始当初は相当なものだったと聞いています。しかしニュースに番組制作の感覚を取り入れ、感情に訴えかけるというのは、今のニュース番組の主流です。無くてはならない感覚の一つです。それを考えると「ニュースステーション」は、時代を先取りするだけでなく、時代を切り開いていったといえます。
 また少し話がそれました。
 番組が始まってまだ3カ月足らずの1985年12月、日航機墜落事故は、発生から4カ月が経過して、社会は徐々に冷静さを取り戻しつつありました。事故のイメージは、亡くなった520人という数字になりかけていました。数多くの人が亡くなった。520という数字は、確かにそれを表している。しかし数字が持つ客観性は、人を冷静にして、人から感情を奪う面もあります。その報道に接する視聴者や読者に、発生当初ほどの強い感情を沸き起こさなくなっていったように思います。
 その年の一年を検証する報道の中で、それは放送されました。
 照明を落としたスタジオには、ずらりと靴が並べてありました。その数、520足。

 靴はその人を想像させます。革靴は出張帰りのサラリーマンでしょうか。パンプスやヒールは女性を。運動靴は子どもを。その隣のおそろいのスニーカーは、ひょっとしたらお母さんかもしれません。事故が起きたのは、お盆休み直前の8月12日。夏休みの子どもも多く乗っていました。
 「ニュースステーション」の制作スタッフは、年齢や性別を手がかりに履き古した520足の靴を集め、座席表通りに並べていったといいます。


<未だに忘れられない映像>
 この映像を見たときの衝撃は、40年近く経った今でも忘れられません。
 一足、一足の履き古した靴。その靴の上には、だれもいません。
 事故さえなければ今もこの世に存在し続けているはずの人の姿は、そこにはありません。本来ならばこの世に居なければならないその人のことに、すべての視聴者が思いを馳せます。その人のことについて、思わざるを得ません。
 事故そのものが犠牲となった520という数字で表現されることが多くなり、現実味が薄まって事故が520という記号として認識されかかっていたときに、改めてその520人の一人一人には、家族がいて、友人がいて、仕事や学校での生活があって、そしてそこにはきっと豊かな暮らしがあったという当たり前の事実を、持ち主のいない靴は、否応なしに思い出させるのです。あまりにも突然に、そして理不尽な形で、一瞬にしてその人生が幕を閉じたというつらい現実を、この映像が改めて思い起こさせてくれます。
 テレビニュースの演出とは、こういうものを指すのでしょう。テレビというメディアがニュースを伝える意味合いについて、根源から考えさせてくれます。匿名という形の中で、これほど優れた報道の例を、私は知りません。
 制作の裏側を知りたくて、オフィス・ツー・ワンのスタッフと仕事をするたびに、このときのことを聞いて回りました。
 このアイディアを出したのは、天才的なテレビマンといわれた久米宏キャスターだったということです。
 たしかに、匿名という中でも、見るものの感情を揺さぶり、揺り起こすような報道は可能かもしれません。この報道は心を揺さぶり、社会に広く、二度とこのような事故を起こしてはいけない、許してはいけないと訴えかけ、視聴者は改めて決意を新たにしたことと思います。それをこのニュースステーションの例は表しています。
 しかし、あくまでもこの例は、何十年に一人のテレビの天才が、何年かに一度思いつくかどうかという希有な例でもあるのです。
 私のように並のテレビマンは、その事故や事件、災害の真実やその背景に迫り、そして視聴者の感情を少しでも揺り動かすためには、やはり実名に頼らざるを得ないというのが、正直なところです。
 家族だけで静かに故人を見送ってあげたい。そんな風潮は、ますます強まるばかりです。実名報道が被害者やその家族を生け贄にする行為だと言われないようにするためには、どうしたら良いのか。


<マスコミの説明って理解されてる?>

 京都アニメーション放火殺人事件の際に、NHKは実名報道の理由として「事件の重大性や命の重さを正確に伝え、社会の教訓とするため、被害者の方の実名を報道することが必要だと考えています。そのうえで、遺族の方の思いに十分配慮をして取材と放送にあたっていきます」と述べています。
 わたしがここで、ここまで述べてきたことを、見事に要約した文章ですよね。
 わたくしはフジテレビという組織の中で、マスコミとして、そしてテレビ局としての考え方の基礎を学んできました。組織としての規模や体質も違うNHK報道局の編集責任者と、まったく同じ感覚を共有していることに、驚かれる方もいるかもしれません。
 同調圧力に弱いマスコミの常としては、この同じ感覚を共有していることに少し安心したりもしますが、それだけにマスコミ全体が抱えているジレンマを強く感じるのです。
 NHKの上記の文章は、ここまでわたくしの文章をお読みいただいた方には、少しはその真意が伝わると思いますが、そうでない方に突然この文章を突きつけても「で、何が言いたいの?」ほとんど伝わらないままだと思います。
 難しい言葉を避けていて、なるべくわかりやすい表現に止めています。これくらいの文量が適切だろうという合意の中で文章を書くとすると、自分でもほぼ同じ表現になると思います。
 表面的な意味は伝わると思います。しかしその真意は伝わらないままだと思います。通り一遍の文章とまでは言いませんが、匿名によって社会全体が何を失うのか、そしてその是非は、という議論の核心を、これだけの分量では、到底伝えられるはずもありません。
 こういった議論を目にしたり、経験したり、という方には分かるけど、そうで無い方には通じない。分かる人にしか分からない表現では意味がありません。
 この場を借りて白状しますが、まったく同じような文章を幾度無く書き、そして何度も放送してきました。自省の意味も込めて言うと、文章そのものに間違いが無く、誤解を与えるような要素が無いことが一番だという立場を、組織の一員ということもあり優先させていました。確かに文章に瑕疵があり、信頼感を損ねるのは最悪です。しかしそれを優先させるあまり、本質的な考え方を伝えるのは、限りのある放送の中では難しいと諦めていなかったか、少しぐらい伝わらなくても仕方がないに思っていなかったかという自省が常について回ります。
 自分も同じような文章を作ってきたと述べましたが、先ほどのNHKのコメントでは、大学生が発した「生け贄」という批判に対して答えになっていませんよねと言われたときになんと答えるのか。
 SNSが無かった時代ならば、マスコミは一方的に情報を発信しているだけで、その役割を果たしているような気になっていました。(本当は違っていたのかもしれませんが…)
 しかしマスコミのあり方に対する不満が可視化され、多くの人が共有するに至った今となっては、今の日本人の多くが持つであろう「被害者や犠牲者を家族や知人が静かに送る」という感情に逆らってまで実名報道の原則を押し通すことに対して、どんどんハードルが高くなっていると痛感しています。
 今のままでは、原理原則しか口にしないマスコミと、被害者やその家族の気持ちに共感している大勢の国民との間で乖離が広がり、マスコミへの不信感が募るばかりです。
 社会のためになる教訓が含まれていると思い、よかれと思って実名で報道し続けたとしても、不信感を持っている人たちから見れば、それはあなた方のビジネスモデルの都合でしょということになります。
 実名報道じゃなくなると、放送も記事もつまらなくなる。視聴率も部数も減るかもしれない、今まで通りの方法で金儲けを続けるための実名報道でしょ、ということになります。
 受け取る側との間に不信感が横たわっているとしたら、その教訓が社会に広がって定着していくことはありません。嫌いな人の言うことは、たとえ正しくても、誰も受け入れる気になりません。


<社会がリアリティを失うとは…>

 知識や教訓が、社会に定着することこそが、メディアが社会で活動していく存在理由だと言いました。これはメディアの役割を目に見える形にして議論をわかりやすくするための例として、挙げたものです。
 これを、もう少し本質的な言い方をすると、匿名報道の時代がやってきて、社会全体が実際に起きた出来事(事件や事故、災害など)に対して、今よりもリアリティを失ったとしたら、これほど大きな損失はないと感じています。
 匿名で報道される犯罪が遠い世界の出来事のように感じて現実味を失い、犯罪を憎む気持ちが、いまより少しでも減ったとしたら、犯罪行為そのものへのハードルは、ほんのわずかですが下がるのかもしれません。大きな災害が起きたとしても、その痛みがきちんと伝わらなければ、きちんとした検証が行われず、悲劇がまた繰り返されるかもしれません。
 もちろん、仮定の話ですが、社会がリアリティを失うということをわかりやすく説明するならば、そういうことです。もしそのような社会が訪れたとしたら、それは社会全体で多くのものを失ったということに他なりません。
 一方で社会が成熟して、報道する際に強く印象づけ、社会にひろく教訓として定着させるために①頻度、②物語、③感情といった要素を必要としない時代が来たとしたら、そのときは「実名報道」に固執する必要はないのかもしれません。
 しかし、そんな時代が果たしてくるのだろうか。
 マスコミの一員として30年以上にわたって社会を眺めていた立場からすると、そんな時代は簡単には、いや永遠に来ないような気がしているのも事実です。


<全マスコミは共同でキャンペーンを>

 少なくともマスコミは、なぜ実名報道が、特に被害者の実名報道が必要なのか、今以上に言葉を尽くして説明する段階に来ているというのが、わたくしの考えです。

 放送や紙面で触れるのはもちろんですが、折に触れて説明して回る必要があると思います。例えば、高校生や大学生に出前授業を開催して、メディアの存在意義やその活動の実態、その活動を支える考え方について説いて回るのです。例えば全国各地でイベントを開催して、もっともっと広く訴えかける場を設けるのです。
 もちろん、今でもそういう活動は行われています。しかし社会に広く訴えるとなると、圧倒的に分量が不足しています。
 まずは実名報道と匿名、それによって人々が感じる出来事のリアリティという関係を、「公共性」や「公益性」という観点も含めて、より多くの人に知ってもらうことが必要です。それは報道のあり方を議論する前提条件だからです。
 マスコミにも謙虚な姿勢が求められます。マスコミ人であれば、ここまでの議論のすべてに賛同してくれるかどうか別として、その主旨については、理解していただけることでしょう。それにも関わらず、マスコミ側から理解を求めて、丁寧な説明をした形跡はあまり見当たりません。自分たちの行動を支えている大切な考え方である「公共性」「公益性」や「実名報道」の重要性を十分わかっていながら、それをうまく説明する自信がないように見えます。
 これから「実名報道」を取り巻く状況は、厳しさを増していくことでしょう。そういった中でも、必要性を訴え続け、説明し続けることは、非常に骨が折れることです。


<理解してもらい…そして議論へ>

 実名報道と社会のリアリティ、「公共性」や「公益性」というメディアの本質に関わる論理や感覚について、今よりも広く一般に、少しでも理解が進んだとしたら、そこで始めて報道のあり方について議論するという段階になります。
 例えば、死者への敬意を失わず、遺族が許容できるニュースの伝え方とは、どういうものを指すのか。その報道と連動して社会全体で遺族を応援するような仕組みは出来ないものだろうか。
 社会そのものがリアリティを失い、その結果様々な影響があるかもしれないという前提をきちんと理解してもらえるならば、被害者を広く追悼し、その死を無駄にしないために、社会全体で何らかの方策を見いだすことに、今よりも少しは前向きになるかもしれません。
 社会全体でマスコミの持つ「公共性」や「公益性」に対して理解が進めば、伝える頻度が多いことや感情を刺激する内容を伴った報道についても、ある程度の範囲までなら、許容されるようになる可能性もあります。
 一方で今までいくら文句を言っても無視し続けてきたマスコミの側が、突然聞く耳を持つということになると、マスコミへの不信感が根強い人たちを中心に、何らかの規制をかけるような意見が勢いを持つ可能性があるでしょう。
 いずれにしても、まずはマスコミの考え方の基本を広く理解してもらうこと。そして、その理解を前提とした冷静で実りのある議論が繰り広げられる環境を用意すること。この二つは、今のマスコミ、特にマスコミの作る新聞協会や民放連、NHK、それにBPOなどの団体には、さらに求められることになります。
 もし実名報道を今後も続けるためにはどうしたらよいのかという観点から、社会で広く考えてもらえるようになったら、それは大きな前進といえます。
 もしこれらの前提を十分理解し、冷静な議論を経た上で、やはり犠牲者については匿名という結論になったとしたら、それはそれで仕方ないのかもしれません。
 報道のあり方が、時代や世の中と乖離していては、メディアの存在意義である「公共性」や「公益性」を発揮できないというジレンマに、結局は陥ることになるからです。
 この原則について決めていくのは、マスコミと視聴者や読者との間だけです。それこそ政治や行政に決定を委ねてはいけませんし、介入も許してはいけません。
 政治や行政にとってみると、いつの時代もマスコミは何かと目障りな存在であることに変わりはありません。むしろ目障りな存在であることが、健全な民主主義社会には絶対に必要なことです。
 マスコミがそういった努力を怠ると、そのうち政治や行政が、今以上に口出しし、事実上の決定権を持ってしまう危機感を強く抱いています。


<感情を排したような文章こそが理想>

 1986年にテレビ局に入社して、最初に報道局に配属されたときには、むしろ感情を刺激するような扇情的な表現や内容は、報道の本質から外れた間違った考えだと思っていました。
 誰もが分かるような平易な文章で書かれ、感情を排した内容が、誰にも対しても同じように正確に届き、そして誰もが冷静な判断を下せる。それこそが報道の理想と思い、そのような表現に努めていました。
 これにはフランスの哲学者であるロラン・バルトによる「零度のエクリチュール」という著作も大きく影響しています。この中でバルトは、なにものからも中立で、中性的で、純粋無垢な文章というものを理想とし、その例としてカミュの文章と並んで新聞記事を挙げていました。頭でっかちな大学生だったわたしは、この著作に触れたことで、自分の考え方の方向性が決定づけられたように思います。
 しかし、実際にメディアの一員として働き始めると、実は新聞記事も書き手の意思が大きく反映されていて、純粋無垢ではないことにすぐに気づきます。テレビで言えば、ドキュメンタリーは中立だなんて、その内情を知らない頭でっかちの妄言に過ぎないことは、実際にドキュメンタリー制作に携わってみれば、すぐに分かります。
 そんな自分が、ワイドショーを経験し、テレビというマスコミの一員として、企業として利益を追求しなければならないプロデューサーや管理職を経験する中で、結局たどり着いた結論は、実は見るものの感情に訴えかける報道内容ほど多くの人の役に立ち、社会に広く教訓として定着していくというものでした。何も知らずに学生気分の延長線で掲げた理想と、世の中の現実は真逆だったというのは、皮肉なものです。


<「メディア感情論」とは>

 ニュース報道が広く社会に役立つとしたら、一人一人の記憶に出来事の内容を強く印象付け、広く社会に知識やそこから導き出される教訓を定着させることは、最もわかりやすい例と言えます。
 その機能を十分発揮するための条件として①頻度②物語③感情といった要素を提示し、議論を整理したつもりです。
 しかし実は①の頻度と②物語は、記憶を少しでも強くするための方法であったことが分かります。
 ①はニュース体験を積み重ねることによって、視聴者や読者に少しでも強く印象づけることが目的になります。
 ②は物語記憶法と呼ばれるように、一つのストーリーには、いくつもの重要な要素が理解しやすい形で絡み合い、数多くの有益な情報が視聴者や読者にもたらされます。
 そしてこの二つは、よりリアルにニュースを追体験することによって、事象の当事者の気持ちを自分のことのように味わうことになります。当事者にしかわからない、喜び、怒り、悲しみ、楽しさ、困惑や情けなさ。様々な感情が呼び起こされることになります。
 揺さぶられた「感情」は、出来事を一人一人の記憶に焼き付ける。その記憶が広く社会に教訓となって定着する。これこそがメディアの活動の本質です。

 テレビを例に取ると、ニュースだけではなく、ドラマやバラエティもあります。ニュースにおける公共性や公益性を、社会に定着する知識や教訓と仮定して議論を進めてきましたが、ドラマやバラエティのように、社会に広く良質な「娯楽」を提供することも、「公共性」や「公益性」の重要な要素の一つといえます。
 すなわちだれもが安価で(テレビ受像機さえ購入すればだれでも無料で)質のよい(テレビドラマやバラエティ番組の制作費は、以前ほどではないにしても、ソフトの制作費としては未だにかなり高額ですし、それなりの質が担保されていると思っています)映像コンテンツにアクセスすることができます。これは文字にすると当たり前のことに感じられますが、「情報」と「娯楽」の両面で生活を豊かにしてくれるという意味では、他のメディアとは簡単に比較が出来ないほど、社会全体に大きく貢献しています。
 この娯楽機能ともいうべきソフトの役割も、「感情」というキーワードであふれています。むしろ、ニュースが感情に訴えるものと言われるよりも、素直に受け止められるのではないでしょうか。
 ドラマを見ている中で、役者の表情に見入ったり、好きなタレントの演技に目を奪われたり、ストーリーに自分や身近な人を投影して感動したり…。
 バラエティ番組のコントで大笑いしたり、楽しそうなロケ場所に今度行ってみようと話が弾んだり、迷惑な客の再現映像に腹を立てたり…。
 一部の例外はあるでしょうが、基本的には印象に残る番組を見ることによって、感情が動かされていると言えます。
 作り手が一番わかりやすい目標としてあげるのは、見た人の心に残るような、感動させるような作品を作りたいとか、嫌なことがあっても、自分の番組をみたらその面白さに思わず嫌なことも忘れられた、というようなことです。それは見るものの感情を動かすということに他なりません。
 新聞で言えば、見出しをつける編集のセンスこそが、読者の感情を刺激する最もわかりやすい作業でしょう。もちろんデスクは、いつも記者に対し読者の心を揺さぶるような記事を書けと言って聞かせていることでしょう。
 以前は朝日新聞の記事の切り口や見出しが、読者感情を揺さぶるのがうまいなぁと感じることが多かったのですが、今はどの新聞もよく訓練されていて、ほぼその差はなくなったと感じています。
 以前ワイドショーで、最も力を入れていた一つに、翌日のテレビ欄のタイトルを作成する作業が挙げられます。今と違って、視聴者が翌日の放送内容を知る唯一の方法でした。
 「独占!」「スクープ!」「激白!」「激撮!」「密着!」「潜入!」。これらの言葉やその組み合わせが、テレビ欄で踊らない日はありませんでした。
 実は翌日の放送内容を預かる曜日チーフといわれる担当者は、午後になると鉛筆をなめながら、何度も何度も新聞タイトルの下書きを繰り返します。テレビ欄の締め切りは意外に早く、夕方の5時くらいが基本になります。遅いと新聞タイトルの配信をしている会社から催促の電話が来たりします。
 しかし夕方の段階では、取材はまだ流動的で、新聞タイトルに書き込んでもいいかどうかは、ギリギリの作業になります。中には見切り発車で「タイトルに打ったから、よろしく」と撮れてもいない内容を現場に押しつける、人でなしのような曜日チーフも数多く存在しました。
 この新聞タイトルの作成こそ、当時のワイドショーを象徴する作業でした。視聴者の感情を揺さぶるネタとその演出方法が、短い文章に凝縮されていました。
 ネットメディア、例えばYoutubeやSNSでバズるというのは、実は多くの利用者の共感を呼びことです。マスメディアよりもパーソナルがより反映されるSNSなどのネットメディアの方が、感情を刺激するためにあるという言い方がわかりやすくありませんか?
 「いいね」というボタンは、それを象徴しています。ここにも共感という感情が見つかります。「炎上」というのは嫌悪や賛同できない逆向きに感情が、端的に表われています。

 「いいね」が多ければ多いだけ良いというと、そんな単純な価値観で良いのですかとお叱りを受けそうですが、テレビでいう「視聴率」、動画でいう再生回数、SNSなどの閲覧数は、やはりそのコンテンツの価値を客観的に評価する物差しといえます。
 もちろん昔から高視聴率番組への「低俗だ」という批判はありましたし、迷惑ユーチューバーなど炎上系と呼ばれる存在には眉をひそめることでしょう。
 これらの課題は第二章で詳しく論じたいと思いますが、メディアのビジネスモデルの基本は、やはり数の多さを競い合うことにあります。それはどれだけ感情を動かす力があるかという指標といえます。

 ニュースだけでなくメディアのすべては、顧客の感情をどれだけ動かしたかということを競うことで成り立っています。
 「感情」という要素から最も遠いと思われていた、ニュース報道ですら、その存在意義である「公共性」や「公益性」という概念に、実は『感情』という要素が色濃く反映しているとしたら、どうです意外な感じがしませんか。

 国民の「知る権利」とは、主権者である国民が、知りたい情報について国や公権力に妨げられることなく自由に接触できる権利であり、また国などに対して情報の公開を請求することができる権利でもあります。
 一方でマスコミ側は、この国民の「知る権利」に応えるために、「表現の自由」をもって情報を自由に発信できることが保障されています。
 すなわち憲法21条では、マスコミの「表現の自由」だけでなく、それに紐付く形で国民の「知る権利」も保障されていると解釈されています。この二つは表裏一体の関係なのです。
 憲法の条文に規定されているような、非常に重要な権利に紐付いている、日々のマスコミの活動の本質が、実は人々の感情を刺激するという、一見すると興味本位な人々の好奇心に根ざしているかのように見えてしまう。このことが、皆さんが感じているマスコミの矛盾や二面性の正体です。
 重要な権利を支えるはずのマスコミという存在が、時として安っぽいドラマのようなストーリーを押しつけているように感じる。そんなもののために、時として報道される人の人権を犯しているように感じてしまう。冒頭で学生たちがマスコミの低い人権意識に対して義憤のようなものを感じていることに言及しました。
 銃撃事件を伝えたニューヨークタイムスの紙面が、犠牲者を追悼する献花台のような役割を果たす一方で、同じ紙面に残虐な犯行の様子が掲載されてしまう。
 これらは、すべてこの矛盾、二面性に根ざしているのです。
 感情を排した文章こそがマスコミのあるべき姿と感じていたわたくしは、この二面性のうち一つの面からしか見えていなかったということになります。


<寓話という物語の使命>

 昔から世界各地で、様々な物語(=寓話)が語り継がれてきました。例えば「旧約聖書」もその一つというと、不謹慎だと怒られるのかもしれません。しかしこれだけ多くの人口に膾炙していることを考えると、立派なメディアだと言えます。そこで語られる様々な物語には、宗教的な教えはもちろんですが、道徳的な教えや守るべきルール、そして生きていくための教訓といったものも多く含まれています。
 宗教の成り立ちがそうであったように、まさしくニュースにおける「公共性」や「公益性」を支える考え方です。
 日本各地にも様々な昔話が存在しています。恐ろしいもの、怖いもの、許せないもの、登場人物の幸せを心から祈るもの、しかしそのどれもが、人々の感情を揺さぶることによって記憶に強く刻まれてきました。それが長年にわたって語り継がれ、現存している秘訣といえるのかもしれません。いや逆に、多くの人の感情を強く刺激するものだけが、人々の記憶に残ってきた歴史なのかもしれません。

 メディアは感情を煽る競争を日々積み重ねています。
 誕生した瞬間から、その競争にさらされてきました。
 その結果、強く感情を揺さぶったメディアのみが生き残ってきました。
 うまく感情をすくい取れなかったメディアは、必ず淘汰されてきました。

 今生き残っているメディアは、すべて感情を巡る生存競争に打ち勝ってきたものばかりです。

 だから、「メディアとは感情を発露するために存在している」のです。

 競争をくぐり抜けてきたメディアは、それぞれが人格を持った存在です。
 NHKは真面目で信頼できるイメージ。朝日新聞なら、反権力という価値観が、なんとなく思い浮かぶことでしょう。
 フジテレビなら、yahooのトップページなら、お笑いタレントのyoutubeチャンネルなら…
 過度の競争をくぐり抜けた現存するメディアは、それぞれが、様々なイメージをまとう人格なのです。
 そして人格である以上、様々な感情を発しています。
 メディアとは感情そのものなのです。
 人格を持つが故に感情を発し、それが感情を刺激し、受け手の感情を発露させる。
 メディアとは感情である。そのこと自体が目的になっている存在なのです。
 そのことを、第二章の番組人格論で、もう少し詳しく見ていきましょう。

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