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生唾が出るほどの、食事シーン。|第26回:『ソイレント・グリーン('73)』

昔に書いた映画のエッセイで美味しそうに食べる姿が印象的だったと話した回があったけど、今回は「もっと」美味しそうに食べる姿が見られる映画『ソイレント・グリーン(’73)』の話です。


『ソイレント・グリーン(1973年)』

舞台は2022年のニューヨーク。爆発的な人口増加と環境破壊により都市機能はもはや崩壊し、人々はソイレント社が配給する合成食品「ソイレント」を食べながらなんとか暮らしている状況のなか、同社の社長が暗殺されてしまうことをきっかけに、段々と「ソイレント」なるものの秘密が暴かれていく……という話。なんとなく察しの良い方は分かるだろうけれど、そうです。実はこのソイレント、原料がなんと「人間」だったのです。


ソイレント・グリーンのイメージ。無味無臭のクラッカーのよう。

この世界には「ホーム」と呼ばれる公営安楽死施設があり、そことソイレント社が結びつくことで……。なぜ人間を原料としたソイレントを「グリーン」と呼ぶかは定かではないものの、このまま人口増加が進めばこんな未来もありえるのでは?と思わせるSF作品です。


ソイレント・グリーンを食べる姿がおいしそうとでも……?

しかし、どうしてこの『ソイレント・グリーン』をよりにもよって「もっと」おいしそうに食べる姿が見られる映画のテーマで語るのか。

それは、この映画でほぼ唯一と言っていい「本物の」食事シーンが本当に「美味しそう」だったから。無味無臭のカス(ソイレント・グリーン)ではなく、生きたウシから切り出したビーフと少し小ぶりだが本物のリンゴ、玉ねぎ、レタスを料理して、一口ひとくち噛みしめるように食べる様子は、見ているだけで生唾が出てくるというか、本当においしそうだった。後ろで流れるモーツァルトの『ケーゲルシュタット・トリオ』も、食事を楽しむ心持ちを示すかのように、軽やかなでいて伸びのある曲調でそれも良かった。

作中の乾杯は「cheers」でも「Toast」でもなく「Lehaim!(人生に!)」というヘブライ語。まさにこの映画のテーマと言えるかも。



何のために「食事」をするのか。

「完全栄養食」なる食べ物がある。人間が健康を維持するために必要な栄養素を全て含んでいる食品で、偏りがちな栄養を補うものとして注目を集めている。確かに、1日3食バランス良く栄養を摂取するのは難しいし、買い物や調理、後片付けのことを考えると食事そのものが面倒になって結局、手に取りやすいファストフードや惣菜といったものを食べてしまう。そうした「食事」や「栄養摂取」を効率化できるとして、日本だと「BASE FOOD」や「COMP」、海外では「ソイレント(!)」や「Huel」といった様々なメーカーから多くの製品が販売されています。

わたしはいかにして食べるのをやめたか
ジョージア工科大学で電気工学を学んだ25歳の若者、ラインハートは、食べ物をエンジニアリング的な視点で考えるようになっていった。「必要なのはアミノ酸で、牛乳そのものではありません。炭水化物は大事ですが、パンは不要です」と彼は言う。果物や野菜は、必須ヴィタミンやミネラルの供給源だが、「ほとんど水でできて」いる。彼は次第に、人が生存するうえで、現在の食事は非効率な方法なのではないか、と考えるようになった。「複雑で、高価で、不安定な方法。わたしにはそう思えたのです」(WIRED

これは映画タイトルにちなんで「ソイレント」と名付けた栄養食を開発したロブ・ラインハートの言葉ですが、確かに、彼の言わんとしていることは理解ができる。なぜ人は、単なる栄養素を摂るために労力を割くような非効率な方法を取り続けているのかと。僕もどちらかと言えばラインハート側の人間で食への興味は薄く「腹が膨れればよいだろう」の精神で1週間毎日スパゲティ(ソースはレトルト)を食べ続けていたこともある。


しかし、『ソイレント・グリーン』の食事シーンを見ていると、食とは単に栄養補給だけの行為ではないことが分かる。いつか、フランスの美食家ブリア・サヴァランが「新しい料理の発見は人類の幸福にとって天体の発見以上のものである(『美味礼賛(上)』)」と言ったように、食によってもたらされる「幸福感」を、僕らは求めているんじゃないかと。


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1枚のレタスが奏でるシャキシャキとした瑞々しさに驚く姿。

煮込んだビーフの香り、味わいを目を閉じて堪能する姿。

軸の1本が残ったリンゴを愛おしそうに見つめて笑う姿。

およそソイレント・グリーンを食べるときには決して、見られない姿だろう。


食べ続ければコオロギも……?

最近は、完全栄養食の他にも「コオロギ」が次世代を担う食料として注目を集めている。進みつつある環境問題や人口増加の解消には、温室効果ガスを多く排出する畜産業に代わるコオロギのようなその他のタンパク源が必要だということで。

命を食べることで生かされている僕ら。


僕は思うんだけれど、こうした話の文脈では「栄養効率を上げるため」とか「生産効率を高め、環境負荷を軽減するため」とかばかりで、食本来が持つ「幸福を得るための」という視点が欠けてはいないだろうか。もちろん、物事を個人的に捉えることは注意が必要だけれど、社会を構成する「一人ひとりの幸福」を前提に置かなければ、何のための社会システムか、分からなくなってしまうんじゃないか。

まあ、日本に限定して言えば食肉文化、特にウシが食べられるようになったのは明治以降の近代からだから、コオロギも同じように食べられ続ければ「文化」として定着するのかもしれないですが。うーん、どうだろう。まだちょっと僕はいいかなって感じです。レタスのように歯切れ良く……とは、いきませんね。

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