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障害者差別を問いなおす

この事件は、衝撃的だった。
相模原障害者施設殺傷事件。


「意思の疎通が取れないような重い障害者は、安楽死させたほうが良い。彼らは人々を不幸にするだけだから」

どうしてそのような考えに至ったのか、
そして、このような意見に同調する人たちがいたこと、
利用者ら19人が殺害、
いろんなことが衝撃的でした。

このような思いを持っていたこともあり、ネットで飛び込んできたこの本が気になり、購入。

「差別はいけない」その理由を言葉にできますか?

この本は1957年に脳性マヒ者たちによって結成された「日本脳性マヒ者協会 青い芝の会」の活動が軸になっています。
障がい者が差別と闘い始めたのは、私が思っていた以上に最近の話でした。

障害者(児)を抱える家族の苦しみに寄り添い、障がい者(児)を専門の福祉施設へと入居させることが強く求められた時代。

最近は、重い障害のある人も街中で生活できるよう環境を整えていこうという考えなので、いまとは全く違う考えです。

この本を読む中で、物事を一方向(健常者目線)からしか見ることができていなかった自分に改めて気づかされました。

その一つが障害児殺害事件に対する減刑嘆願反対運動

1970年5月、神奈川県横浜市で重度障害(脳性マヒ)のある子どもが、育児・介護に疲れた母親によって殺されてしまうという事件が起きました。

この事件に対して、母親に同情した周辺住民や、同じく障害児をもつ親たちは母親の減刑を求める署名活動を始めました。
「かわいそうな母親にこれ以上ムチ打つべきではない」
「障害児の入居施設が足りないのが悲劇の原因」

この動きに対し、青い芝の会は、
「障害者を殺害した母親が無罪もしくは減刑になれば、障害者はいつ殺されるかわからない」
「親の立場からのみ施設の必要性が訴えられている」
母親の減刑嘆願に反対し、厳正な裁判を求めました。

この運動においては、障害者への差別が「同情」や「愛」などによってカモフラージュされること、そうした「同情」や「愛」によって障害者によって障害者が殺されてしまうこと(殺されてしまうことさえ美化されてしまうこと)、親の立場からのみ障害者施設の必要性が訴えられていること、「障害者は生きてもいても不幸になるだけ」と一方的に決めつけられることなどの問題が提起されました。


青い芝の会の皆さんが闘ってきたことを知ることで、当事者の視点が分かっているようで、分かっていなかったことや自分の中にある差別心に気づくことができました。

すごく貴重な体験ができました。
やっぱり、いろんなことを知り、学ばなければいけない…。

ある差別について語る言葉がない(少ない)ことは、その社会に差別が存在しないことを意味しません。
むしろ、差別について語る言葉が少ないほど、その社会が差別に対して鈍感であることを意味しています。

セクハラ、マタハラ、モラハラ、アカハラ、DV、
いろんな新しいことばが出てきて、当たり前のように使われています。
しかし、障害者差別については…

「優性思想」ということばを、約半世紀前とほとんど同じ意味合いで使い続けることの意味を、一度、立ち止まって考えなければなりません。