見出し画像

【読書録38】自分という個を超えた大きな眼差し~寺島実郎「人間と宗教 あるいは日本人の心の基軸」を読んで~

 私が、著者である寺島実郎氏の見解に深い関心を持つようになったのはいつからであろうか?
 おそらく新型コロナウイルス感染症についての氏の論考を知るようになってからであろうか?
 昨今は、寺島実郎の「世界を知る力」というTV番組を毎月楽しみにしている。
 
 本書で著者は、人間と宗教について「全体知」で描き出す。
哲学や宗教の全体観については、出口治郎氏の「宗教と哲学全史」があり私も大変影響を受けた。

 出口氏は、元々日本生命の社員。そして本書の著者である寺島実郎氏は、元三井物産社員。

学者でもなく、大企業に勤め世界をとびまわりビジネスをしながら、これだけの知識・教養を身につける。私にとってのあこがれ、かくありたいと思わせる存在である。

「全体知」

 断片的な情報や大局が見えない専門家の「専門知」ではなく、それらを集めただけの「総合知」でもない。人間が直面する課題を解決するための知であると何かで読んだ。

 そもそもの本質を問い歴史をさかのぼり、日本のみならず、世界を俯瞰して見る。さらにそれに掛け合わせて、仕事を通じて世界を渡り歩く中で直面した問題意識、それらを兼ね備えてこその「全体知」ではなかろうか。

 寺島実郎氏や出口治郎氏の著作からはそう感じる。

 私の勝手なイメージは、
    全体知 = 歴史(縦) x 世界(横) x 体験(深さ)
である。

 また、出口氏が言うように、【人】【本】【旅】から学ぶというのも全体知に迫る秘訣ではないかと感じる。

 本書は、雑誌「世界」に連載されてきたものであるが、著者は、本書の論考を書くにいたる背景をこういう。

私が、仕事を通じて世界を動き回り、仕事における課題を解決するために現地の人たちと真剣に向き合ううちに、宗教への関心を深めることになった。
何故ならば、世界は宗教に溢れており、本気で意思疎通するには相手の思考回路と精神性を理解する必要があり、宗教は避けて通れないのである。

この本は「人間とは何か」、「日本人とは何か」、そして「自分とは何か」を問う道程を、自分の目で見てきた世界の宗教シーンを照射しながら体系化しようという体験的宗教論である。
 世界宗教史への私自身の探求の旅は、日本人の心の基軸を考えるものになっていった。

では、著者の探求の旅を追っていこう。

宗教の本質

 著者は、宗教の本質を探るために、ビックヒストリー、人類のグレートジャーニーから説き起こす。
 人類史をみると「移動が常態で、移動と交流が進歩と創造をもたらし、また定住革命により人類に帰属社会に生きる忍耐と調和がもたらされた」と言う。
 そして定住により、「嫌いな奴とも何とか共存しなければならない」ため、民族という意識が芽生え、言語、宗教が生まれ、国家など社会制度が起動し始めたと指摘する。

虚構といえば虚構なのだが、秩序のための社会制度・規範が生まれた。その虚構をまもるために、人間という動物だけが、同一種の中で、仲間を生存欲求(食と性)以外の理由で殺戮する唯一の存在になった。

人間が神仏を創ったのであって、神仏が人間を創ったわけではない。人間が人間たる特質ともいえる「自らの存在の意味を問い続ける動物」として進化した帰結として、自らを制御する存在としての神仏を創造せざるを得なかった。

宗教なるものの本質として、人間の心における2つの要素の淵源をもつとする。

 ➀「聖なるもの」への意識 
 ➁心の内なる価値への意識(自らを律する規範への目覚め)

 世界宗教の共通性として、人間の心の奥における共振動を動かす力があることを挙げる。「聖なるものへの敬意」として自然や偶像への崇拝とは異なる、人間の深い意識での価値に訴えるメッセージを有するという。

世界化する宗教 一神教

 そして、著者の旅は現代を規定するキリスト教・イスラム教への考察に進む。
 詳細は、割愛するが、ビザンツ帝国によるキリスト教の東方展開が、ギリシア正教を生み、それが、キーフ、モスクワへと伝播し、現在のウラジーミル・プーチンによる「正教大国」というロシアの統合理念にまで繋がっているという指摘は面白い。
 そのあたりは、現代のウクライナ情勢を全体知で迫るために必要な知識であるとして、2022年4月の寺島実郎「世界を知る力」でも取り上げていた。

仏教の原点と日本仏教の創造性 

 仏教について、著者は、宗教ではなく、全体知と心の奥底を探求する主知主義という意味において思想であるとして、こう言う。

人間としてのブッダを、見つめるならば、真摯に自らの心の内を問い詰め、欲望や苦悩からの解放を探求した修行者の姿が浮かぶ。ブッダの言葉「自燈明」は、まさに本音であろう。衆生の救済を語る前に、まず自らの制御に向かう意思に「ブッタの仏教」の本質がある。その後、ブッタの仏教は「大乗仏教」へと変化する。ただし、それはあくまでもブッダの思索や意識を追体験した後世の弟子たちが、ブッダの悟りに至る思考基盤と格闘し、「加上」させた教理である。

 仏教が日本に伝来して来た際は、「招福神」としての位置づけであったが、神仏習合し、聖徳太子により、三宝隆興(仏・法・僧を崇敬する姿勢)という本来の仏教として日本の中で定着していく。
 その後、奈良・平成時代には、国家鎮護の仏教となっていったが、鎌倉時代に、親鸞・日蓮らによって、日本独自の創造的な「民衆の仏教」へと生まれ変わる。  
 親鸞の仏教については、歎異抄など読んでちょっとかじったところだったので、その位置づけなどはなるほどと思わされる。

神仏習合と日本人の精神性

 仏教主体に神仏習合していった姿を以下の通り述べ、泉湧寺に触れて明治維新まで「天皇は仏教徒」であると同時に「神禊神道」の宰主であったと指摘する。

教義・教典の体系性において圧倒的な存在感を持ち、空海・親鸞・日蓮などにより創造的に変化して民衆に根付く仏教の影響をうけ、自然と祖先を崇拝して八百万の神の下で清浄を祈る神道も、「神仏習合」していった。

 江戸時代の新井白石と荻生徂徠に触れ、著者は、「情報の制約された時代に、物事を考え抜く力をもった日本人がいたことへの驚きと敬意」 を持つと評する。
 新井白石が鎖国の中、シドッチへの尋問やオランダ商館長との面談など国際社会と向き合った姿勢や荻生徂徠の、赤穂浪士の行動を「義」として是認しつつも、個人道徳を政治的決定に拡張することを拒否した姿勢などなかなか今まで知らなかったことを知れたのは収穫であった。

そして本居宣長の「やまとごころ」などの影響をうけて明治につながっていく。

明治なる時代の二重構造 

  著者は、なかなか難しい明治~敗戦までの「国家神道 」の問題に切り込んでいく。
 久野収・鶴見俊輔の明治なる時代の「国体」の捉え方を紹介する。

「国家宗教の密教の部分と顕教の部分」 があり、密教とは、封印された国家神道であり、 顕教とは、明治近代化路線である。昭和に入り埋め込まれた密教が噴出した。 

 天皇制に関しては、冷静な認識が必要であり、時代を超えた天皇制の本質は、「不親政」(石井良助「天皇」)にあると言う。
そして、天皇は、権力を持たない権威であった時代が大半で、権力と権威を一体化させた明治~敗戦までの絶対天皇制がきわめて特異な時代であったと指摘する。

現代日本人の心の所在地

 戦後の日本は、政治権力と一体化した宗教の時代への反動もあり、ひたすら「経済の復興・成長」を最優先する「宗教なき時代」、希薄な宗教性の時代になっていったという。
そこでの「宗教」は松下幸之助の言う、「PHPの思想」すなわち、豊かさを通じた平和と幸福であったという。 

ただそこには、明治期の日本人が押し寄せる西洋化と功利主義に対して「武士道」や「和魂洋才」といって対峙した知的緊張はない。

という著者の指摘は鋭い。
司馬遼太郎を必要とした戦後日本という感覚も上記と同様な感覚からもたらされた指摘ではないかと思う。

著者の探求の旅の終点

著者は、本書の最終章でこういう。

おそらく私自身は無宗教者ということになるであろうが、無宗教者の宗教性を大切にしたいと思う。
たとえ特定の宗教・宗派を信心せずとも、神や仏の気配を感じること、何か大きな意思が自分を見つめているという意識は、人間が生きる上で重要である。
現代を生きる大方の日本人の魂の基軸は、潜在意識において緩やかな「仏教・神道・儒教」を習合させた価値を抱いているといえる。

 この感覚は、私のようなものでも全く同感である。
仏教的な世界観には、非常に共感を感じ、神社・仏閣に行くと凛とした気持ちになる。

 本書は、比叡山で夜空を見上げながらの著者の感慨で終わる。

宇宙空間における小さな星の歴史の一隅に生きる小さな個に過ぎない自分だが、「人間は自分の存在の意味を問う動物である」という視点に立ち返り、世界と自分を見つめてきた。おそらく、この叡山の地から親鸞も日蓮も星空を見上げたであろう。特定の宗教に帰依するに至らない自分だが、自分という個を超えた大きな眼差しが自分を見つめていると感じる。

 本書を読み、著者の見識の幅広さと奥深さに接するとともに、問題意識をもって学び続けることの重要性も考えさせられた。何か「自分という個を超えた大きな眼差し」は学び続けるにも必要な視線ではないかと感じる。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?