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vol.2 会話で掴む違い

前回第1弾の投稿として、ハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化の分類について、簡潔に意味を説明したと・・・
大枠はあのような意味であると捉えていただけると嬉しい。

今回は具体的に違いを自分なりに説明していきたい。
専門家ではないのでわからないこともあるかもしれないが、自分なりの言葉で説明していく。


日本人のイメージとして、【礼儀正しい】【恥ずかしがり屋】【大人しい】【温厚である】【個人より集団派】【真面目である】【自己主張が苦手】など外国の方々から見るとこんなイメージがあげられるのかもしれない。

なんだか、「和」をイメージして「コンっ」と音を立てるししおどしを想像できる。
総じて静かーで落ち着いた背景が見えてこないであほうか。

では、もう一度ハイコンテクスト文化について簡単におさらい・・・
発せられた言葉以外の文脈や背景いわゆるコンテクストに依存し意味を汲み取り理解し、会話が成立する。
逆に言語依存度が最小限である。

これが、ハイコンテクスト文化

つまり、極端に言えば多くを述べなくても会話が成立するということ。
これ、静かーで落ち着いた会話が成り立つ感じがしませんか?
そう、それがハイコンテクスト文化の最極端にいる日本人なわけであると。

逆に対。対照となる人々ををアメリカ人としてみると。
アメリカ出身の方々ってめちゃくちゃ喋ってるイメージがないだろうか。
それに声も比較的大きめ。悪いとかではなく。
ローコンテクスト文化の最極端はドイツ人ですが、
アメリカ人もローコンテクスト文化の部類に入る。
1度に喋る量が多いように思えないだろうか。
もし、そうかなあ?と疑問に思ったら、インタビュー映像などを見てもらえると少しは納得してもらえるのではないかと思う。

ローコンテクスト文化をもう一度おさらい程度に確認してみると・・・
言葉により情報を全て伝達させようとするため、言語に対する依存度が高い。
文脈や背景に頼ると中々理解してもらえず、何言ってんだ?状態になる。

日本のように「察しの文化」がないから、同じ景色を見ていても、仮に前提が同じであっても見たもの感じたことは言葉にすべての情報を込めようとしなければいけない。見たこと感じたことを常に言葉にして情報交換をし続けて、お互いの前提からくる共有事項を確認するため、我々日本人より口数が多くなり、会話量が増えるのではないだろうか・・・


例えば・・・
前提として・・・

友達2人が夏の暑い日に日差しを浴びながら歩いてる姿を想像してみてほしい。

日本人同士の場合

Aくん 「いやー、今日はとんでもなく暑いね。」

Bくん (水を飲んでいる)

Aくん 「暑すぎて干からびちゃいそうだよ。」(飲み物を持っていない)

Bくん 「俺の水で良ければ飲む?」

Aくん 「いいの?!ありがとう!!」

Bくん 「いいえ!!」


アメリカ人同士の場合

Aくん 「Uh〜, today is very hot. isn't it?」
    (いやー、今日はとても暑いね)

Bくん (Mr.B is drinking water)
(Bくんは水を飲んでいる)

Aくん 「I'm very thirsty.I want to something to drink. Can i drink your water?」
(私はとても喉が渇いています。 私は何か飲み物がほしいです。 あなたの水を飲んでもいいですか。)

Bくん 「Of cource!! Here you are.」
    (もちろん!! どうぞ!!」

Aくん 「Thank you!!」
    (ありがとう!!)

Bくん 「That's ok!!」
    (気にしないで!!)


これら2つの例文を見てどう思うであろうか、

多少大げさに表現はしてあるが、みなさんはどこに会話の違いを見つけることができるか、

日本人同士の場合
前提として、暑い日という同じ景色が共有されている。
つまり、暑いとどうなるかが言葉にしなくてもお互い考えていることは大抵同じであるということだ。ここで、【察しの文化】が入ってくる。
言葉に表されていない部分を感じとり、文脈や前提として共有されている背景を基に会話を円滑に進めなければならない。
Bくんは、水を飲んでいた。これは暑くて喉が渇いたから飲んでいるのであろう。
それを見たAくんは喉は渇いていたが飲み物を持っていなかったがために、直接的に欲しいと言うと申し訳ないから、遠回しに自分が喉が渇いているアピールをする。
「暑すぎて干からびちゃいそうだよ。」すると、ここで察しの文化が発動する。
ハイコンテクスト文化の特徴だ。
Bくんは、心の中で「あ、Aくんは喉が渇いていて、飲み物がほしいんだろうな。」と会話の流れからくる文脈や共有されている前提の背景からイメージする。
その段取りを踏んで、Bくんは「俺ので良ければ飲む?」と聞いたのである。
Aくんの願いが言葉にしなくても通じたことになる。


次にローコンテクスト文化代表アメリカ人同士の友達2人組の会話を見てみよう。

日本人同士の友達2人組と同様に暑い日という同じ景色は共有されている。
しかし、ここで【察しの文化】は根本的にないため、発動されない。
申し訳ないが、どうにかして水がもらえるよう全てを言葉にして表さなければならない。そうしないと、円滑に会話が進まなくなってしまう。
というか、そもそもこの状況下でもハッキリと物を言うことに抵抗がない。
だから、文脈や背景から察してもらおうという選択肢がそもそもないのだ。
Bくんは水を飲んでいた。
それを見たAくんはハッキリと「I want to something to drink. Can i drink your water?」(私は何か飲み物がほしいです。 あなたの水を飲んでもいいですか。)言ったのである。
それを聞いたBくんは素直に水をあげた。
これでAくんの願いは叶ったわけである。
ここがローコンテクスト文化の特徴である。
例え共有されている景色が同じであったとしても、それを基に会話が進むのではなく、会話はあくまで言葉により成立し、進められていく。
文脈や背景では円滑に進められないため、後ろめたさがあっても、自分の願いを叶えたい時はこのように全てを言葉にして単純かつ具体的な言葉に表して伝えなくてはいけなくなる。
ということである。


ここが大きな違いになる。
また長々と文にしてしまったが、少しはイメージしていただけただろうか。

これらを見て感じる違い。
もし、海外でバリバリ何かを成し遂げたい。
世界中の人たちと繋がりたい。
日本を飛び出して何かをしたい。
って考えている方々がいるとしたら、ここの違いは大きな壁になるのではないだろうかと思う。
日本人が世界中の人々に信頼されるにはこの違いは少なからず理解し、少数派である日本語がグローバルな時代にある世界に対して生き残り活躍していくためには、我々日本人がこの違いを理解し、壁を乗り越え、
合わせていくべきなのではないだろうか・・・

そんなこんなで・・・

次こそはこれらを基に自分が感じたこと、自分の目標に必要になってくるであろうこと、乗り越えなければならない壁など、自分の考えを中心に話していけたらと思う。

今回はこの辺で。

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