暇と退屈の倫理学
2024年ほとんどの人は暇と退屈を経験していると思う。
特に日本は生きるための食事や インフラ が整っており、 「暇」が誰しもあるはずだ。 そして 「退屈」している人も増えてきているはずだ。
私も、そのうちの1人で暇な時間があったり、なにかしているんだけど退屈だなとときどき思ことがある。
そんな時に見つけた國分さんのこちらの著書に出会った。
こちらから暇と退屈に対してのアプローチの参考にしたい。
まず本書では「暇」と「退屈」 を以下のものとしている。
実際私の体感でも、まず社会生活の日常を送っていく中では休暇というものがあるので、「暇」は誰しもあるものだ。
「退屈」は人によっては差がありそうだ。私は仕事中でも、休暇のダラダラと過ごす時や、家族との食事、友達と遊んでる時など、いつでも関係なく急に霧みたいに心を覆ってくる。
本書と体感を並べながら紐解くと、
「暇」は客観的なもの
「退屈」は主観的なもの
と納得できる。
暇は、以前は特権階級のものだったが現代では民主化された。
しかし、多くの人の暇が資本主義に漬け込まれて暇を搾取されている。 逆に人は退屈することを嫌うので、搾取されることを望んでいる人もいる。
これは 最近だとアルゴリズムにお勧めされたYouTubeや tik Tokを見ている人何かが当てはまる。
退屈については 本書の中で、退屈論の最高峰と位置づけられているマルティン・ハイデッカーの退屈論 「 形而上学の根本諸々概念」を引用している。
ハイデッカーは退屈を3つの形式に分けて説明してくれている。
第一形式を説明する事例は、片田舎の小さなローカル線の駅舎で、4時間後に来る列車を待っている。 これは、引き止めによって生じる退屈だ。
つまり、何かによって(列車)に退屈させられていることであると分析されている。
そして生じた退屈から逃れるため気晴らし(仕事)を行う。
今だとスマホを触ることが多いのではないか
第二形式は何がその人を退屈させられているか明確ではない。事例は、 家族 や友達と楽しく素晴らしい時間(気晴らし)を過ごしたのだが、その後にふと今日は退屈だったと思う時だ。退屈するようなことはなく、むしろ充実していたのだが、なんとなく、なぜだかその気晴らしに際して退屈していた。
また第二形式と第一形式は単に並んでいるのではなく、一から二へ分析が深まっているとハイデッガーは強調している。
私が退屈だと感じていたのはこの第二形式だと感じた。
第三形式は最も深い退屈だ。
ハイデッガーはどのように答えを出したかというと
なんとなく退屈だ
この文で投げ出された。
そして退屈するということは自由であり、それを実現するには決断することだ、決断によってその自由を発揮せよ。これがハイデッガーの結論である。
しかし本書では決断した後、そしてこの退屈はから逃れるためまた第一形式の仕事の奴隷になる。
第三と第一は一つの同じ運動の一部だということになるという。
なので第二が特殊であるとして、退屈と向き合うために人類は文化や芸術という気晴らしを発達させたとある。
結論では、第一に本書を通読することによって、暇や退屈についての新しい見方を獲得した それこそが、暇と退屈の倫理学の第一歩である。 つまり 本書を通読してきたことで、その実践のただ中にいる。
これには勇気をもらえた。
別の視座を学び思考することも実践なのだと読書の肯定だと感じた。しかし理解する過程(思考)が大事なのであって結論という情報の奴隷になってはいけない。
今近代の義務教育を受けてきた私は過程を無視しがちになっている。これを忘れずに過程を意識して大切にしていきたい。
二つ目の結論は浪費することだ。消費ではなく浪費だ。消費は観念で終わることがないが、浪費は物を受け取り(受け取りには限界がある)どこかで満足する。
この浪費の物を受け取るとは楽しむことで訓練が必要である。これは簡単ではないが、歴史を知り文脈を読み、教養を身につけるのみだけではあらず、身体感覚を磨くことにより、より深く楽しみを享受できる。
つまり民芸を味わうことのできる生活を送るのだ。現代の消費は大量の情報だ。主に視覚や聴覚を通じてSNSやインターネットから消費している。
その中で浪費をすることは大変難しいと思うが粘り強く訓練しよう。
現代の民藝はどんなのだろう。考えてみよう。
手作業で地域性がある写真は民藝的。写真は民藝と言える
AI時代の民芸はどんなものになるんだろう。AIは民主化されたら民藝になるのだろうか。
落合さんが先に考えていたテクノ民藝。
民藝について訓練していこう。
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