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ラオス

ラオスでまた妹と合流したので、少しだけ一緒に周ります。ツインの部屋で、今までの行った国や会った人の話を妹と「あーだ、こーだ」と盛り上がり、何気なく引き出しを開けると、使用済みのコンドームがあります。もうひとつの引き出しを開けてみると、使用前のコンドーム。こういう時、兄と妹はどういう対応をとっていいのか、わかりかねます。知ってる人がいたら教えてください。

妹が「日本に戻ったら何が食べたい?」と言うので、かなり考え「大戸屋 (定食) か五右衛門 (パスタ) かな」と答えたら「そこに母の手料理はないんだね」と言われました。

妹は決して「お兄ちゃん」と呼びません。「ねえねえ」とか「あのさ」などの感嘆詞で呼ばれます。たまに僕が「おまえ」と言うと「私、おまえって言われるのがむかつくんだよねぇ」とすごんできます。「でも、おまえも俺のことをお兄ちゃんとは言わないでしょ?」と、がんばって言い返すと「うん。ならおまえでいいや」と。今さら、妹に「お兄ちゃん」などと言われても、僕も誰のことを言ってるのか分からないと思います。そんな兄妹。

僕と妹はお互いに「人の悪口を言う」共通の趣味があります。もっと言うと本人達はそれが悪口だと思ってないのだけれど、周りが聞いていたら、悪口に聞こえるようです。ただ、僕らは馬鹿な奴らを放っておけないだけなのに。そして、目の前で何を話しても気づかれない為、旅行中は特に欧米人へ牙がむきます。はっきりいって、英語で100パーセント感情を伝えるのは無理です。今回の人生で僕はそれをパスします。

なんか外国人にむかついた時に「えっと、これはファックというべきなのかな?ちょっと小声で。フ、ファック ユゥー。う、うん。いけそうだ」なんて考えていたら、もうかなり感情は冷めています。なので、日本語で悪口を言う時は、英語が母国語でなくてよかったと思える、数少ない時。

議題はいかに欧米人がつまらない話しをしているか。「俺の英語力が完璧なら、なんで彼らが、あんなにもつまらない話しを面白そうに話しているか聞きたい」と僕。「彼らにあるのはテンションだけだ」と妹。「話す前から、自分で話す内容を思いだして、それに笑う奴は死んだほうがいい」などなど。この様な会話はとどまることを知らないです。そして、このような感情が芽生えるのは、英語ができない劣等感とおおいに関係があると思います。

そんな後味悪い兄妹は母子家庭で育ちます。僕が5歳、妹が1歳のころに母子デビュー。慰謝料、養育費が一切もらえない環境で母は子供2人をよく育てたと思います。僕が小3になるまで、家族3人は親戚の家に居候していました。

なぜか、ボケたおばあちゃんも一緒の6畳の部屋で暮らしていて、僕としてはかなり気味が悪かったです。いつも見えない存在に話しをするおばあちゃん。正直に言って、早くいなくなればいいと思っていました。

小2の時、一緒に住んでいた伯母さんや母が具合の悪くなったおばあちゃんの介護でかなり疲れていました。たまに、ボケたおばあちゃんへみんなが愚痴っていた気もします。それでも、夏休みにおばあちゃんが死んだ時は、みんなぐすぐす泣いていました。

おばあちゃんが死んだことで、みんながそんなにショックをうけていたということが、僕はショックでした。みんな、本当に悲しいのかよと。僕は一滴の涙も出ず、自分があまりいい人間ではないのだろうと思いました。この頃から悲しいと思って泣いたことは無く、泣く時はいつも悔しい時でした。悲しいと思って泣く涙は負けた気がするから。

小3になって、初めて母子3人の暮らしが始まりました。場所は二子玉川。母の地元が世田谷の為、どうしてもここら辺がよかったらしいです。もちろんお金も無いので、高島屋の裏のツタが生えた汚いアパートに住んでました。洗濯機は外に配置する所なので、一度、母が洗濯機を開けたら猫が出てきました。

あと、トイレで用をたしていると、すごく小さい虫が行列で、いつもタイルをはっています。それを見るたびに、トイレはあまり長居したい場所ではなくなりました。部屋の間取りも、小学生の僕が3歩ほど歩けば、ほぼ回りきれます。

社会人になって「地元はどこですか?」と聞かれ「世田谷です」と言うと、「それはお坊ちゃんですね」と言ってくる人がいます。でも、それは世田谷のブランドのせいだろうからしょうがない。最近は「世田谷のシティ−ボーイです」と言ってます。

母がどんなに苦労して、必死こいて、僕らを育てたとしても当時の僕には不満が多かったです。「お父さんがいれば、お母さんはいつも家にいれるのに」「お金があればもっといい家に住めるのに」あと単純に妹って存在はダサイなとも思っていました。その時は上の兄弟が欲しかったからです。今思うと、少しでも自分を守ってくれる存在が欲しかったんだと思います。

でも、もし父と一緒に暮らしていたら、僕は彼の頭をバットかなんかで殴って、塀の中にいたような気もします。それぐらいダメな存在です。僕の永遠の反面教師。

なので「両親がいないと子供は幸せになれない」系のドラマは本当にやめて欲しい(さすがに今はないと思うけど)。いかにそれが片親の子どもを傷つけ、追い込ませるかを、クソみたいな大人は考えたことがないのだと思います。僕の今までの人生をかけて言いますが、両親がいたら僕は本当に不幸でした。

小学校の課外授業で、近くの多摩川のゴミを拾うというものがあります。その多摩川へ行く道程で、いつも自分の家の前を通ることになります。それが、本当に嫌で嫌でしょうがなかった。

僕の家を知ってる同級生は「あっ、おまえの家だ!」と自信満々に言ってきます。「だから何だ!」って話しなのだけど、汚いアパートに負い目を感じて、いつも下を向いていました。

こんな気持ちは絶対に一軒家に住んでいる人には分からないと思います。なので、自分の家が近づいてくると、テンションを上げて、話題を無理矢理作ったりしました。なんとか、自分の家を通り過ぎるまで、みんなに気づかれないように、それはがんばってしゃべってたと思います。

その話を妹に言ったら、当時、登校拒否をしていた妹はもっとかわいそうでした。課外授業で家の前を通るたびに「ここが〇〇ちゃん(妹)の家だから、覚えておきましょうね」と担任がみんなの前で言っていたらしいです。

あと、二人でサンタクロースの話もしました。小さい時、靴下の中に高いプレゼントを書いて入れておいて、結構、ドキドキしていました。けれど、次の日ぐらいに、あからさまに母の機嫌が悪くなっていたので、僕の中でサンタクロースは消えていきました。

妹の場合、とっくにそんな感情はなかったらしく、同級生が面倒だったと言ってました。小学生の時でも「昨日、サンタさんに何をもらった?」と言ってくる同級生には「図書券」と答えていたらしいです。モノとかだと「見せて」なんて言われるとまずいと思って、とっさにそんな答えが出てきたらしい。

ビールを飲みながら、そんな話を兄妹で延々としてました。お互い小さい体でいろいろと抱えてたんだなと思い、そして、その当時の自分にとても感謝したくなりました。そういった経験があって、本当によかったなと。

妹とは兄妹でなく「戦友」なのだと思い、やはり僕には「お兄ちゃん」は似合わないのだと思いました。

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