片羽の鳳凰は青藍の空を恋う 第11話
故郷で暮らしていた時には、山中に罠を仕掛けて兎などの動物を捕まえていたが、狼狽之国の狩りはそれとはまったく違った。
タルが獲物を見付けるやいなや合図を出し、マナンとウールの二人が狼の姿を纏って大地を駆る。
必死に逃げる鹿とのぎりぎりの攻防の末、狼がその首筋に噛み付いて足を止めさせた。追い付いたタルが剣で止めを刺す。
チノから借りたシロに乗って二人を追い掛けた皓皓が、装備していった弓を使う機会はついぞ訪れなかった。
「残酷だと思うかい?」
人の姿に戻った二人が狩ったばかりの獲物の血抜きをしているのを遠巻きに見ていると、タルが尋ねてくる。
皓皓は首を振った。
「無理しなくていい」
「いえ……だって僕も、肉を食べるから」
ここ数日で、皓皓は少しずつ元通り何でも食べられるようになってきたが、藍は未だ食の細いまま、肉には手を付けられないでいる。
タルたちはそれを国民性の違いによるものと思っているようだった。
皓皓たちが狼狽之国の習慣を、野蛮だと蔑んでいるように思ったかもしれない。
そうではないと伝えるためにも、皓皓は自ら「狩りについて行かせてくれ」と彼らに頼んだのだ。
正直に言えば、まだ血の色を見ると眩暈がする。
しかし、マナンとウールが一匹の獣になって獲物を捕らえる姿を目にしたことで、はっきりとわかった。
彼らが食うために動物を殺めるとの、宛が芻を殺したのとでは、まるきり意味が違う。
やはり、どうあっても皓皓には宛のしたことが許せない。許したくない。
事切れた鹿に真摯に祈りを捧げる彼らに、皓皓も倣った。
皓皓がマナンやウール、タルたちと共に狩りから戻ると、いつになく威勢良く焚き火が燃えていた。
「おお、これは都合がいい」
今日は大きな鹿を射止めた。肉の塊を焼くのにはいい火加減だ。
「藍!」
焚き火の前に藍がいるのを見付けて慌てて駆け寄る。
鹿の解体現場など目にしたら、藍はまた具合を悪くするだろう。
だが、炎に照らされた藍の顔を見て、皓皓は立ち竦む。
「皓皓」
今朝までの彼とは、様子が違う。
出会ってすぐの頃の刺々しい雰囲気ともまた異なる、冷静ながら、その下に何か滾るものを感じさせて、藍は其処にいた。
「藍」
「俺は、鳳凰之国に、帰ろうと思う」
「え?」
突然の話に戸惑った。
「どうして、そんな、急に……」
国に戻れば、また宛に命を狙われるのが明白だ。
せめてもう少し熱りが冷めるまでは、この国にいた方がいいのではないだろうか?
藍の心の傷だって、まだ癒えきってはいないだろうに。
異論を唱えようとして、気が付いた。
皓皓をまっすぐ見詰める目の奥に、炎が宿っている。
藍の瞳の色が、皓皓はとても好きだった。
「俺は、自分の国を救うことにする」
何がきっかけで決めたのかはわからない。
だが、藍はずっと、そのつもりだった。
それを、皓皓は知っている。
だから、泣きそうになってしまう。
「俺は行くが、おまえは残れ」
皓皓が答えるより前に、藍が釘をさすようにそう言った。
「どうして、」
「おまえは此処でも上手くやっていけるだろう。態々危険を冒して国に戻る意味はない」
ほとんど反射的に。
皓皓は藍の頰を叩いていた。
ぱんっ、と乾いた音が響いて、藍が目を大きく見開く。
「そんなこと言うな!」
「おまえ、」
「藍と一緒に行く。当たり前だろう!」
このままこの国で、マナンやウール、タルやハワルたちと一緒に暮らしていくことを考えなかったわけではない。
馬に乗って大地を駆け、風になる心地良さに夢を見もした。
しかし、その夢の中には藍がいた。
藍が行くのに、自分だけ残ることに意味はない。
故国を救いたい。
まだ藍がそう願えるのならば、その力になるのが皓皓の願いである。
それに、たった今思い知ったばかりなのだ。
「僕も、火の神の民だ」
罪を犯したまま裁かれずいる者と、間違ったまま進もうとしている国を許せない。
皓皓は、きっと待っていた。
藍がそう言ってくれるこの時を。
藍がそっと、皓皓から視線を外す。
「……馬鹿な奴だ」
「今更だよ」
その夜、旅立ちを決めた二人のために、皆が盛大な祝いの席を設けてくれた。
数日の間に余程懐かれたようで、皓皓はハワルをはじめとする子供に縋りつかれている。
藍は少し離れた所からそれを眺めていた。
「気は晴れたようだな」
チノがやって来る。
「よく、決意したな」
「遅すぎるくらいだ」
「必要な時間だったさ」
そうかもしれない。
この国で藍が学んだことは、皓皓と比べれば少ない。
だが、それがなけば到底この決意は出来なかった。
「鳳凰之国までは送ってやろう。が、わしに介入できるのはそこまでだ。あとはおまえさんが気張らんといかんぞ?」
黙って頷く。
本来ならば、チノには二人を見送る義理さえないのだ。そこを甘えるのだから、それ以上を望むわけがない。
「チノさん、藍さん」
両手に焼いた鹿の肉の串を持ったタルが、家族たちの元を離れて、二人に近付いて来る。
「寂しくなりますね」
「何。家族水入らずに戻るだけだろう」
チノの言葉にタルは笑い、それから藍の方を見た。
「大丈夫なのか?」
「ああ」
「君のことを聞いているんじゃない。皓皓のことだ」
タルの目が、すっと真剣な色を帯びる。
「君と一緒で、彼女は大丈夫なのか?」
それは。
藍が何度も何度も自分自答してきたことだ。
だから、こう答える。
「全力は尽くす」
皓皓が自分から藍と共に来ることを選んだ。選んでくれた。
それが彼女の意志である以上、藍に示すことの出来る誠意はそれだけ。
「……わかった。健闘を祈る」
「ああ」
タルが藍に肉を差し出す。
今度こそ、藍はそれを拒まなかった。
鳳凰之国より早く訪れる狼狽之国の冬に、風花が舞った。
穹盧をより簡素にし、持ち運べるようにした天蓋を出て、藍は自らの吐く息の白さに驚く。
まだ日も昇りきらない薄暗い草原に一人、チノが剣を携えて立っていた。
おもむろに鞘を払う。
鈍い銀色に光る刃が振るわれる。右から左へ。上から下へ。
しなやかなその動きは、見えない敵を薙ぎ払うようであり、神聖な舞のようでもあった。
「おまえ、剣を使えるのか」
しゃん、と音をたてて刃を鞘に納めたチノが、藍の言葉に振り返る。
「独り身で旅をしてるでな。身を守るには必要なことだ」
「……頼みがある」
――剣の使い方を教えてほしい。
藍の頼みを、チノは快諾した。
まだ幼い自分、ほんの一時期だけ、皇族の嗜みとして剣術を齧ったことはある。紅榴山の宮に移ってからも、うろ覚えの型をなぞるだけは続けていたが、いかんせん相手がいないので様にならなかった。
胡琴の腕より尚酷い。何の役にも立ちはしない児戯。
今一度、それを鍛え直しておきたい。文字通りの付け焼刃にしかならないとしても。
来るべき日のために。
ナルス一家の元を旅立ってから、藍は目に見えて精気を取り戻し始めている。
皓皓はそのことにほっとしていた。
朝早く起き出しては、チノに剣の稽古をつけてもらっているようだ。
それは藍にとって何か大事な儀式のように思えたので、その間、皓皓は二人の邪魔をしないよう、朝食を用意したりシロの世話をしたりしながら、大人しく待つことにしている。
出立から五日目。
いよいよ鳳凰之国との国境が目前に迫っている。
狼狽之国から鳳凰之国へ向かうための道のりは、鳥の姿で空を行ければ一直線だが、陸路を進むとなると面倒だ。
両国の境には、紅榴山――藍の宮があった山――が立ちはだかっている。
ただでさえ高く険しい山である上、皇族の領地なので民間人の出入りがない。
そのため、山道が敷かれておらず、人の足で歩いて超えるのはほぼ不可能に近いのだ。
国境を越えるには紅榴山を迂回して街道を行く必要があり、その街道沿い、狼狽之国から鳳凰之国に入ってすぐの所にあるのが、皓皓が薬を売りに下りていた里である。
山で暮らしていた頃は遠く感じていた里も、さらに遠く、国さえ離れて過ごしてきた今となっては、まるで本物の故郷のように懐かしく感じられてくる。
そんな想いが顔に出てしまっていたらしい。
「国境を越えたら、まずは一休みしよう」
チノがそんなことを言い出した。
「でも……」
藍の立場を思えば、敢えて人前に姿を現す危険を背負うべきではないのでは?
皓皓が遠慮がちに言うと、
「いずれにしろ、一度、おまえさんたちを屋根の下で休ませてやらにゃいかん。
それに、兄さんの顔はそちらの国では知られておらんのだろう?
まさかこんな愉快な三人と一頭の中に皇子様が紛れているとは、誰も思わまいよ」
と、チノが笑った。
一行はチノの提案により、「狼狽之国の行商人と、その甥と姪」という体をとって、衣装も狼狽之国風の物に改めていた。
鳳凰之国においては人目を引く藍の黒髪も、狼狽之国の民としてならば珍しくない。
そして、皓皓はと言えば、サラーナに譲ってもらった女物の着物を身に着けている。
宛はまだ皓皓のことを男だと思っているはずだから、詮索の目を欺くには適切な判断だと言えよう。
だが、「成人するまでは死んだ片割の名と性を背負う」という呪いを思いがけず破ることになってしまった。
それが亡き片割を裏切る行為のように思えてしまい、皓皓には居た堪れない気持ちが残る。
それに、ほとんど初めて着ることになった女物の着物は、妙に飾りが多くひらひらとしており、動きにくくて仕方がない。
そんな不本意な変装のお陰かは知れないが、国境の関所で、三人は対して疑われることもなく、すんなりと鳳凰之国へ入ることを許されたのだった。
「毎日、数え切れん程の行商人が行き交うでな。お役人もいちいち精査しておれんのよ」
どうやら過去にも同じ方法で鳳凰之国に出入りしたことがあるらしいチノが、拍子抜けしている皓皓と藍に、飄々と嘯いた。
関所を通り抜けた途端、景色が変わる。と、いうことはなかったが、
(帰って来たんだ)
と思うと感慨深い。
胸を張れる喜びに満ちた凱旋、とはいかないのが残念だ。
そこから南下して皇都へ続く街道を横切り、少しだけ西に進んだ先に里がある。
が、一行は敢えて里から外れた所にある、狼狽之国の行商人向けの宿場に宿を取った。
「関所のお役人の様子を見る限り、二人がお尋ね者として手配されるということはなさそうだったが、念のためな。おまえさんも、くれぐれも気を付けて」
「はい。いってきます」
「……本当に一人で行くのか?」
宿の部屋に入ってすぐ、落ち着く間もなく外套を着込み直した皓皓に、藍が仏頂面で尋ねてくる。
「顔が知られてないとは言っても、藍は里に姿を見せるべきじゃないよ。だったら、チノさんと二人で此処にいてもらった方がいい」
まだ物言いたげな藍に、皓皓は力強く頷いて見せた。
「僕は大丈夫だから」
此処での休憩は今晩一泊。
その間に、皓皓は一人で里に向かい、鷺信医師の診療所を訪ねるつもりだった。
宛はあの市の日に鷺学と会っている。
皓皓の行方を捜して、診療所に追っ手を差し向けた可能性は考えられた。
そんな中、敢えて鷺学に会いに行くのは危険だとわかっている。
しかし、あんな風に別れきりの鷺学たちのことや、あの時、熱病に苦しんでいた英小母のことを考えると、いてもたってもいられない。
本当は小翡や小翠のことも心配だったが、流石に藍の宮まで戻るわけにはいかない。
彼女らの無事を祈りつつ、皓皓は提燈の頼りない灯りで石畳を照らしながら、先を急いだ。
普段ならばこの時間、診療所はとっくに閉まっているはずだ。
それなのに、遠くから見ただけでわかる程に、窓からは明かりが漏れ、大勢の人が詰めかけている気配が感じられる。
嫌な感じだ。
皓皓は息を殺して身を縮めると、なるべく人目に付かないように暗がりを移動し、患者に向けて解放されている正面の扉を避け、診療所の裏に回り込んだ。
子供の頃から鷺一家と家族ぐるみの付き合いがあった皓皓は、時々そちらから彼らの住居に上がらせてもらい、食事を御馳走になったり、泊めてもらったりしてきた。勝手知ったる他人の家だ。
勝手口の横に下げられた鈴を鳴らす。
二度。間を空けて、もう三度。
すぐに内側から戸が開いた。
「皓皓!」
鷺朔は悲鳴のような声を上げたかと思うと、力いっぱい皓皓を抱き締めた。
きっちりと結い上げた髪の上に頭巾を被った彼女は、鷺信医師の娘で鷺学の双子の片割、名は朔という。
鷺学と同じく皓皓とは幼馴染で、皓皓より鷺学より男勝りの、けれどとても優しい女の子だ。
「兄皇子様の使いの人がうちに来たの。あなたが大罪人と一緒にいるかもしれない、って。無事で良かったわ」
なるほど、そういう話になっているのか。
「迷惑かけてごめん」
「そんなことはいいのよ。怪我はしていないみたいね。熱もない?」
「僕は平気だよ」
鷺朔は皓皓を家の中に招き入れ、戸を閉めた。
火の消えた勝手場には他におらず、鷺朔からは夕餉の香りではなく、消毒液の匂いがする。
「診療所、大変なの?」
「大丈夫。心配しないで……と言いたいところだけれど、あなたに嘘は吐けないわね。正直、大変よ」
鷺朔は近くの椅子を引いてきて皓皓を座らせると、自分もその向かいに腰を下ろした。
「あなたがネツサマシを届けに来てくれて、しばらくは落ち着いていたのだけれどね。冬が近付くにつれて、どんどん患者さんが増えているの」
酷く疲れたような、重い息が吐かれた。
「兄皇女様のことがあって以来、国全体の空気が澱んでいるでしょう? これじゃぁ、病が良くなるはずなんてないわ」
「芻様のこと、って?」
皓皓が尋ねると、鷺朔がきょとんとする。
「まさか、知らないわけじゃないでしょう? 兄皇女様がお亡くなりになったって」
「ああ。……勿論、知ってるよ」
知っているも何も、皓皓は彼女が亡くなったその現場に居合わせたのだ。
「それも、その下手人が弟皇子様って話じゃない。みんな、気が重くなって当然よ」
(違う!)
皓皓は大声で叫びたいのをぐっと我慢する。
あの一件は、あの時に宛が語った筋書き通りに、国中に広く知れ渡っているらしい。
「その後、弟皇子様はどうなったの?」
「兄皇子様が兄皇様と弟皇様に『命だけは助けてやってほしい』って嘆願して、国外追放になった、って話だったでしょう? あなた、もしかして本当に知らないの?」
「いや……」
藍を取り逃がしたことに対して、上手い言い訳を考えたものだ。
事実とはかけ離れた美談風の物語に、苛立ちを越えて吐き気がした。
「そうだ。鷺学にも、あなたのこと、教えてあげないと。すごく心配していたのよ。呼んでくるから待っていて」
鷺朔がそう言って席を立ち、慌ただしく勝手場を出て行った。
程なくして、鷺学が飛び込んで来る。
「皓皓! 良かった、無事で! 怪我はしていないか? 熱は?」
片割と同じ言葉で皓皓を気遣う彼が、なんだかとても懐かしい。
「ありがとう、鷺学。僕は大丈夫だ」
安心したように頬を緩めた鷺学は、しかし、次の瞬間、沈痛な面持ちになった。
「……栄小母さんが亡くなったよ」
胸を突かれた。
ああ……と唇から息が零れる。
「君が持ってきてくれたネツサマシのお陰で、一時は持ち直したんだけれど。駄目だった」
栄小母。
朗らかで気が良く、優しい人だった。
皓皓が片羽であることなどまるで気にせず、いつも親身になって世話を焼いてくれた。
――皓皓! 此処、使いな。アンタに店を出してもらわなきゃアタシたちだって困るんだよ。
そんな言葉はもう聞けないのだと思うと、彼女のさっぱりとした笑顔をもう二度と見られないのだと思うと、腹の奥から込み上げてくるもので息が詰まった。
気遣わしげに皓皓の顔を覗き込んでいた鷺学が、やがて躊躇いがちに口を開く。
「しつこいと思うかもしれないけれどさ……なぁ、皓皓。此処で、僕たちと暮らさないか?」
「鷺学、何度も言うけど、僕は……」
「僕と結婚しよう」
つい先程とは別の意味で、皓皓は息を詰まらせた。
「……え?」
「ずっと前から、そうしたいと思っていた」
「だ、だって、そんな……」
「君は亡くなった片割の弔いのために、男のふりをして生きなければならない。わかっているさ。
だから、君が成人して、その呪いが解けた時に言おうと思っていたんだ」
「そんな……そんなこと、突然言われても」
「僕の気持ちに気付かなかった? 全く?」
返す言葉を失った。
そうだ。本当はわかっていた。自分に向けられる慈愛の眼の意味を。
鷺学の、皓皓に対する恋心を。
「駄目だよ、鷺学。だって、僕は……」
「今も、あの人と一緒にいるのか?」
真剣な眼差しが、皓皓の胸に突き刺さる。
鷺学の言う「あの人」とは、藍のことだろう。
「あの人のことが好きなのか?」
「そういうことじゃない」
皓皓の藍に対する感情は、鷺学が皓皓へ向ける想いとは違う。
それは、絶対に。
「皓皓。あの人は……」
「……言わないで」
鷺朔は何も知らない様子だったが、宛とも藍とも出会っている鷺学は、何かを悟っているのかもしれない。
「お願い。言わないで」
問われたところで、本当のことを言えるはずもない。
鷺学に嘘は吐きたくなかった。
「僕、そろそろ戻らないと」
「皓皓!」
席を立った皓皓を、鷺学の悲痛な声が呼び止める。
「……ごめん、鷺学。今までありがとう」
無理やり作った笑顔でそう言うと、鷺学はもうそれ以上、言葉を重ねてこなかった。
鷺学の顔に浮かんだ絶望の色から目を背け、皓皓は逃げるように彼らの里を後にした。
急ぎ足で宿に帰る道すがら、涙が零れそうになるのを必死で堪える。
何がこんなに悲しいのか、皓皓には自分でもわからなかった。
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