片羽の鳳凰は青藍の空を恋う 第12話

 
――おまえさんの国で、もっとも神に近い場所を訪ねてみるといい。
 
 風の神の言葉を受け、ランたちは皇都おうとにある大神殿を目的地に定めて旅を続けていた。
 鳳凰之国ほうおうのくにの皇都は、国土の中心よりやや南寄りに位置する。
 北の国境からは、まだまだ長い道のりだ。
 
「僕が二人を乗せて飛べたらよかったんですけれど」
「いやいや。大の男二人が嬢ちゃんにおぶわれるわけにいかんだろう」
 
 皓皓コウコウがすまなそうに言うと、チノがそう茶化す。
 以前、彼女に背負われて宮を逃げ出した藍には、耳の痛い話だった。
 皓皓の肩の傷は粗方塞がったようで、日常生活にはもう支障がないと言う。
 だからと言って、二人の人間を担いで長距離を飛ぶなど、彼女でなくても無理な話だ。
 
「地道に歩いて行こう。何、街道沿いを行けば、途中途中で駅馬車も使えるだろうて」
 
 今度は藍が項垂うなだれる番だった。
 もし藍が馬を乗りこなせたならば、駅馬車などを使うまでもなく先を急げた。
 だが、狼狽之国ろうばいのくににいる間に何度か練習させてもらっても、藍はついぞ馬と心を通わせることが出来なかったのだ。
 
「相性というものがあるからな。仕方ない」
 
 チノの愛馬も、皓皓には懐いているのに、藍には一切近付こうともしない。
 藍は馬に好かれない気質の人間らしかった。
 
 三人は歩き続け、時には駅馬車を使い、時には商人たちが引く荷車に乗せてもらったりしながら、ついに皇都に辿り着いた時には、一年のうちで最も夜が長い時期になっていた。
 
「ここが鳳凰之国の皇都なのか……すごいな。人がいっぱいだ」
 
 街を歩きながら、皓皓が物珍し気に辺りを見回している。
 
 国境を越えてすぐ、一人で彼女の里を訪ねて以来、皓皓はいくらか意気消沈していた。
 聞けば、幼馴染と決別してきたと言う。
 二人で紅榴山こうりゅうさんの宮を抜け出したあの時に出会った、医師の青年らしい。
 それを聞いて、藍は歯痒い気持ちになった。
 
 皓皓は、ただ藍とエンたちの因縁に巻き込まれただけだ。
 故郷を、そこで彼女を必要としている人たちを捨ててまで、藍に付き合う必要は、本来ない。
 
 それでも、皓皓は言ってくれた。
 
「僕は藍と一緒に行きたい。藍の力になりたい。僕が、そうしたいんだ」
 
 そう言われてしまっては、もうそれ以上「付いて来るな」「里に残れ」と言うことは出来なかった。
 そこまでしてくれる彼女に対して、藍は何も返せていない。
 それが歯痒かった。
 だからというわけではないが、皇都の賑わいにつられ、少しばかり元気を取り戻した様子の皓皓に、ほっとする気持ちがある。
 
「ねぇ、あちこちに掲げられている、あの赤い布はなんだろう? 皇都ではいつもこうなの?」
「いや、いつもではない」
 
 藍にとっても久し振り、六歳の頃以来、実に十年ぶりの皇都である。
 あれから街の風習ががらりと変わったのでない限り、他の地域と同じく、皇都でも、皇族貴族以外が貴色きしょくの赤を用いることが許されるのは祭の時だけだ。
 
「あれは『冬至祭とうじさい』の準備だな」
 
 鳳凰之国では、冬は火の神の力が最も弱まる季節だと言われている。
 日が短くなるにつれて神の息吹いぶきは小さくなり、冬至の日、神は完全に沈黙する。そして、また少しずつ日が伸びていくに従って蘇る。そう信じられていた。
 冬至祭とは、沈黙した神が再び無事に力を取り戻せるよう祈りを捧げ、人々が厳しい冬を乗り越えられるよう願う祭りだ。
 真意としては、何かと我慢を強いられる季節に、僅かでも明るく騒げる一日をもうけよう、ということなのだろう。
 春までの月日を数えて食料や燃料を節約する人々も、この日ばかりは少しばかり気を緩め、食卓に御馳走ごちそうを並べるのだ。
 
「皇都の冬至祭はこんなに大々的なの?」
「おまえの所では違ったのか?」
「僕の家では、精々、いつもより少しだけ夕飯が豪華になって……
 他は、里の社に蠟燭を捧げに行くくらいだったよ」
「ああ、献火けんかか。それは、皇都でも同じだ」
 
 神への供物くもつとして、火の点いた蝋燭を捧げる。
 それはどの季節の祭でも、鳳凰之国であるならばどの地域でも同じ習慣だ。
 とくに信心深い民は大神殿に参拝する。遥々、遠方からそのためだけにやってくる者も少なくない。
 
「街が賑わっているのは、そのせいもあるだろう」
 
 人も物も動きがにぶくなるこの季節、これだけ多くの人間が皇都に集まっているのは、ひとえに祭りがある故だ。
 
「なるほど。つまり今の時分、大神殿には多くの人が集まっているということだな。まぎれ込むには丁度良かろう」
 
 チノの言う通り。
 だが、人が多いということは、反面、藍たちを探している人間たちに出くわす可能性も高まるということだ。
 表向きがどういうことになっているかに関わらず、水面下で、宛は藍の行方を追っているに違いない。
 そして、もう一つ。
 
「最後まで見届けられないのは気掛かりだが、わしは一緒に行ってやれんのでな」
 
 チノの言葉に、皓皓が表情を曇らせた。
 
 そう。大神殿は観光客の受け入れと布教のため開放されている一部を除き、鳳凰之国以外の民の立ち入りを禁止しているのだ。
 火の神をまつびょうは神殿の中でも最深部にあるため、チノと共に訪ねることは出来ない。
 
「そうでなくとも、わしのような依代よりしろが、招かれもしないのに他の神さんの領域に踏み込むのは禁忌だからな。
 とくに火の神さんは排他的故、うっかりお邪魔しようものなら天罰を貰いかねん」
 
 ということで、チノとは、大神殿の前で別れる手筈になっている。
 それは此処までの道中に三人で話し合い、互いに納得して決めたことだった。
 
 これ以上、他国の民である彼を巻き込むわけにはいかない。
 口には出さなかったが、藍がそう思っていることを、チノは気付いていただろう。
 
「この国のことは、最終的に、この国の民が決めるべきだ」
 
 至極もっともな言葉に、藍も皓皓も神妙な心地で頷いた。
 
 そして、いよいよその時がやって来た。
 大神殿の周りには、皇都に住む人々、遠方から訪れた熱心な信者、物見遊山で立ち寄った他国の民たちでごった返している。
 鳳凰之国らしい着物に着替えた藍と皓皓が、狼狽之国の民であるチノと共にいても、誰も気に掛けたりはしなかった。
 
「そんな顔をしなさんな」
 
 チノは困ったように眉尻を下げ、泣き出しそうに顔を歪める皓皓の頭に手を置く。
 
「きっと上手くいく。側にはおれんが、見守っておるよ」
「また会えますよね?」
「勿論だとも。全て片付いたら、風に便りを乗せてくれ。いつでも飛んで来るよ。まぁ、わしはおまえさんらのように、空を飛べはしないがな」
 
 チノの面白くもない冗談に、皓皓は無理矢理に笑って見せる。
 それから、チノは藍に向かって、筒状に丸めた書簡を差し出した。
 
「役に立つかはわからんが、一応、持って行くといい」
「これは?」
「風の神の依代からの口添えだ。此処の者たちがまだ神の依代の存在を忘れておらんかったなら、意味を理解出来るはずだ」
「……恩に着る」
 
 藍は書簡を受け取ると、思い直して言葉を改めた。
 
「ありがとう、チノ」
 
 チノが目をまたたかせる。
 
「どうした? 急にそんな、神妙に」
「本当に、何から何まで世話になった。貴方がいなければ、俺たちはすぐに立ち行かなくなっていただろう」
「構うことはない。全ては風の導きだ」
「それでも……ありがとう」
 
 心からの感謝を込めて、藍は頭を下げた。
 
「うむ。こちらこそ、だな。おまえさんたちのお陰で楽しかったよ。健闘を祈る」
 
 差し出されたチノの拳に、自分の拳をぶつける。
 ナルス一家の元に身を寄せていた間に教わった、狼狽之国流の挨拶だ。
 
 チノに見送られながら、藍と皓皓は大神殿の中へと向かう人々の列に加わった。



 建物の中へと入った途端。
 意匠のらされた内装に、一瞬、皓皓は目的を忘れて見惚れてしまった。
 
 はりにはつたと雲の彫刻。
 窓には幾何学模様きかがくもようの透かし彫り。
 壁に下げられたとばりには鷹、孔雀、鶴など様々な鳥が、繊細な刺繍で描かれている。
 芸術品の貯蔵庫のような部屋の中央にが置かれ、清めの火が燃えていた。
 
 狼狽之国も、皇都も、大神殿も、こんなことにならなければ訪れる機会のなかった場所で、しかしなのか、だからこそなのか、こんな形でなく来られたら良かったのに、と矛盾した思いを抱いてしまう。
 
 参拝者たちは各々に蝋燭を手にし、爐から火を貰って奥へと進んで行く。
 里の社で使われるのはただの白い蝋燭だったが、此処で配られている物には側面に牡丹ぼたんの花が描かれていた。
 溶けて消えてしまうのが勿体無いくらいの、った装飾だ。
 
 隣を見ると、藍がぼうっとした様子で爐の中で燃え盛る火に見入っている。
 
「大丈夫?」
 
 尋ねるとはっと我に返り、
 
「なんでもない」
 
 と、蝋燭に火を受けた。
 流石さすがの藍も、神殿の荘厳な空気に気圧されたのか。
それとも緊張しているのだろうか。
 
 参拝経路は上へと上へと伸びており、上るにつれ窓の数が減っていく。
 徐々に外からの光が閉ざされ、蝋燭の灯りだけが頼りになってくる。
 位置的には空に近付いているはずなのに、どんどんと陽の光から遠ざかっていく。
 天地が逆さになってしまったような倒錯的な感覚が、神秘性を煽る構造になっていた。
 
 銀の土台に辰砂しんしゃを散りばめた鳳凰の象。
 香木こうぼくを投げ込めるように置かれた火鉢。
 神の御告げを受けてこの国をしたと言われる最初のおうと、この神殿のいしずえを作ったと言われる彼の対の祭主さいしゅ、伝説の人二人の姿絵。
 
 祈りを捧げる対象は至る所にあり、参拝者たちはいちいち足を止めて頭を下げる。
 彼らにいぶかしまれない程度の礼を取りながら、二人たちはひたすら上を目指した。
 
 そして、参拝経路の終着点。最上階はたった一部屋。
 そこには、思わず足がすくんでしまう程、神秘的な光景が広がっていた。
 
 ずらりと並ぶ背の低い棚。その上に無数の燭台しょくだいが供えられている。
 陽の光が完全に遮断された部屋で、淡く儚い灯だけがぼんやりと輝いていた。
 参拝者たちが此処まで運んで来た蝋燭は、此処に捧げられるのだ。
 小さく短くなった蝋燭たちがあちこちで燃え尽きて、消えた一つと入れ替わりに、また新たな火が宿る。
 
 そして、蝋燭を供え終わった参拝者は天井を仰ぎ見て、誰もがほぅ、と息を漏らす。
 其処には「これこそがまさに神の姿」と言わんばかりの、見事な鳳凰の姿絵が描かれていた。
 細かく砕いた宝石で彩られた絵が、蝋燭の火を映してきらきらと輝いている。
 なるほど、蝋燭の火が多ければ多い程、つまり、参拝客が多い程、美しく見える仕組みになっているのだ。
 
 皆が上を仰いで嘆息たんそくしているうちに、藍が皓皓の袖を引いた。
 手の中の蝋燭を持ったまま、二人はそろりそろりと壁際に移動する。
 部屋の最奥の壁には両開きの扉があり、かんぬき代わりに張られた太く赤い綱が、部外者の侵入を拒んでいた。
 
「此処?」
 
 藍が微かに頷く。
 
 此処は最上階。参拝経路の終着点。
 だが、神殿自体はこの扉の先にまだ続いている。
 二人が目指す場所はその先にある。
 
 扉に掛けられた綱の結び目は固く、ちょっとやそっとでは解けそうにない。
 
「どけ」
 
 藍が囁いて皓皓を押し退けた。
 着物袖から小刀を取り出して、その刃を綱に押し当てる。
 
 ぎっ、と扉が軋んだ音を上げ、二人は息を呑んだ。
 
「何をしているのです!」
 
 監視に立っていた神官の男がすぐさま気付き、急ぎ足で駆け付けて来る。
 
「そこは立ち入り禁止の神域ですよ。扉に触れてはいけません。
 ……今、何を隠したのですか?」
 
 藍が両手を背中に回したのを目敏めざとがめ、問い詰めてくる。
 騒ぎを起こしたくはないが、神殿の器物を傷付けようとしていた事実はくつがえせず、言い逃れのしようがない。
 
 どうしよう。
 額にじとりと汗が浮かぶ。
 隣の藍からも同じ焦りを感じた。
 
 その時、
 
「どうしたのですか?」
 
 物静かな、それでいて重みのある声が割って入った。
 
「祭主様! この者たちが……」
「聖堂で大きな声を出すものではありませんよ」
 
 若い神官を穏やかにたしなめながら、上位の神職の装束を纏った老婆がゆっくりとこちらへやって来る。
 
「申し訳ございません、祭主様。この者たちが神域の扉に手を掛けたものですから……」
 
 祭主と呼ばれた老婆は、神官に指さされた藍を見上げ、大きく目を見開いた。
 
「……藍様?」
 
 絶体絶命だ。
 藍の正体が知られてしまっては、いよいよ逃れようがない。
 表向き国外追放された筈の藍が此処にいる理由を説明出来ない。
 
 一層のこと、強硬手段を取ってでも、藍だけは逃がせないだろうか?
 皓皓は必至で考えを巡らせる。
 
 祭主が「ああ……」と声を震わせ、両目から涙を溢れさせた。
 
「おかえりなさいませ、藍弟皇子ていおうじ殿下。火の神の依代よ」



 扉の外はいよいよ真っ暗で、祭主が捧げ持つ蝋燭の火だけでは、互いの顔を照らすのもやっとだった。
 一歩先に落とし穴でもあれば、確実に足を踏み外してしまうだろう。靴の裏で床を擦るように確かめながら歩いていると、後ろからついて来ていた皓皓が、藍の背中にぶつかった。
 
「ご、ごめん!」
「大丈夫ですか? どうぞ、お気を付けてお進み下さい」
「は、はい」
 
 祭主の言葉におどおどとした返事が上がる。
 どうやら皓皓は、暗く狭い空間が得意ではないようだ。
 いつでも堂々と藍の前を歩いていた彼女が怯える様子に、胸の奥がうずいた。
 
「行くぞ」
 
 気付けば手を差し出していた。
 驚いた顔をした皓皓が、躊躇ためらいがちに藍の手を掴む。
 
 不思議と、藍に不安はなかった。
 奇妙な高揚感に促されるまま、先を歩く祭主に従って歩を進められる。
 
「藍様がお生まれになってすぐの時、弟皇様から打診を受けました。
 『皇子を神の御許みもとに預けたい』と」
「聞いている」
 
 皇族に片羽かたはねが生まれるという一大事に、弟皇、すなわち藍の父は、一度、我が子を捨てるという非情な判断を下した。
 いや、この国での片羽の忌み嫌われようを思えば、鬼籍きせきに入れられなかっただけでも、慈悲を掛けられたと思った方が良いのかもしれない。
 
「しばらくして、『その話はなかったことにして欲しい』との申し入れがありました。
 同時に『弟皇の皇子についてはくれぐれも内密に』とのお達しを受け、我々はその後、藍様について何も知らないままでした」
 
 いずれにせよ、忌子いみこを皇家に残しておくべきではない。
 そう考えた弟皇に反対したのは、兄皇后けいこうごうだった。
 
 ――それではあまりにも赤子が可哀想ではありませんか。
 
 自身も苦労して初めての皇子皇女たちを手に入れたばかりだった兄皇后は、藍と、生まれたばかりの我が子を取り上げられる藍の母を捨て置けなかったのだろう。
 
「藍様が初めて此処へいらっしゃったのは、お母上を亡くされた時でしたね。覚えていらっしゃいますか?」
「ああ」
 
 忘れはしない。
 六つの時だ。
 
「我々は、今こそ藍様が新たな依代として火の神に選ばれる時なのだと思いました。先代の依代が亡くなってから随分経っていましたから。今こそ、と……」
「待ってくれ」
 
 祭主の話をさえぎる。
 
「ということは、ここの神官たちは皆、俺が、忌子の片羽が、火の神の依代であると知っていたのか?」
 
 振り返った祭主は、意外なことでも聞いたような顔をしていた。
 
「『斎子いみこ』は元より、神に仕える者のことでしょう?」
 
(……なんて下らない話だ)
 
 何故、それがこうも歪んだ形で民間に広まってしまったかはわからない。
 藍が生まれてこの方気に病んできた事実など、何処にも存在しなかった。
 結果として、間違っていたのは兄皇后だったのだ。
 
「……だが、あの日、火の神は俺の前に姿を現さなかった」
「ええ。神が何故の時、藍様を依代として受け入れようとなさらなかったのか。それは、我々にははかりかねます。
 だから、今度こそ、なのです。国が乱れ、藍様が自ら此処へ足を運んで来て下さった今度こそ、神は新たな依代をお迎えになるのでしょう」
 
 祭主が熱を込めて語る一方で、藍の胸の内には不安と疑念が浮かび上がる。
 
 十年前、神は藍を依代として受け入れなかった。
 それが、今更、気を変えることがあるだろうか?
 やはり、藍は火の神の依代などではないのでは?
 
 卑屈な感情が鎌首をもたげる反面、自分はこの先に向かわなければならない、という確信めいた思いがあった。
 神殿に足を踏み入れて以来、頭の奥に声が響いている。
 
――こちらへ。
 
 呼ばれている。誰かに。何かに。
 
「此処からは、更に足元にご注意ください」
 
 階段があった。
 ほとんど何も見えない中で、その段数さえはっきりとわかる。
 一、二、三、四と心の中で数えながら登って行き、二十四段目。
 此処が頂上。
 
 前を行く祭主が足を止め、行き止まりを告げた。
 その先があることを、藍は知っている。
 
――その先へ。
 
 伸ばした手が触れた壁を、強く、押す。
 扉が開かれた。
 
 突然、世界に取り戻された鮮烈な陽の光に、視界が白くなる。
 
 気付けば、空の上に立っていた。
 
 大神殿の中で最も高い場所。屋根から突き出した塔の頂上。
 其処には、吊り橋があった。
 縄と木板だけで作られた簡素な吊り橋で、反対側の先は、切り立った崖の上に繋がっている。
 遠くから眺めれば、空を切り裂く線のように見えることだろう。
 
「あれが、火の神を祀る廟です」
 
 祭主が吊り橋を渡り切った先、崖の上に立つ小さな朱色の堂を指さした。
 
「ここから先は本当の神域。余程のことがない限り、私でも立ち入ることはありません」
「そんな場所に、俺を行かせていいのか?」
「皇族の方々の参拝は許されております。それでなくとも、貴方は火の神の依代ですから」
 
 祭主の言葉を受け、藍が吊り橋に向かおうとすると、皓皓が繋がれたままの手を慌てて振り解いた。
 
「ま、待って! 僕は一緒に行けないよ!」
「俺が神の依代だとして、その言葉を聞き届けてくれるものがいないと困る」
 
 チノが風の神をその身に宿した時、神はチノの口を借りて喋っていた。
神と対話するには依代以外に、もう一人別の人間が要る。
 
「でも……いいんですか? 僕が行って」
 
 皓皓が助けてを求めて振り返ると、祭主は静かな動作で頷いた。
 
「藍様がそうお求めになるのであれば、構いません」
「そんなに心配しなくても、火の神はおまえを拒んだりしないだろう」
 
 わけもなく、藍はそう感じていた。
 皓皓は尚も不安な顔をしていたが、やがて、
 
「……わかったよ」
 
 と、腹を括った様子で頷く。
 
 ところが、いざ吊り橋の前に立つと、情けないことに今度は藍の方が怖気付いてしまった。
 鳳凰之国の民の、他の物ならいざ知らず、空を飛べない藍にこの高さは脅威だ。
 足がすくむ。
 
「……行こう」
 
 そんな藍の怯えを感じ取ったのか、道を切り開くべく、皓皓が先に吊り橋に足を掛けた。
 先陣を切る彼女に対し、自分だけが臆して二の足を踏むわけにはいくまい。
 藍も覚悟を決めて後に続く。
 
 吊り橋は一歩進む度に軋み、耳元では風が悲鳴のような声を上げている。
 ふと、記憶が蘇った。
 
 十年前。
 まだ六歳だった藍は、母のとむらいのため参拝する途中、橋の真ん中で足を震わせ、前にも後ろにも進めなくなってしまった。
 その時、前を歩いていた人が戻って来て、しゃがみ込む藍の手を掴み、無理矢理に立ち上がらせた。
 
――情けない姿をさらすな。母様が見ている。
 
 幼子に向けるには厳しい言葉。
 しかし、あの時、自分は確かにその言葉に背筋を正された。
 お陰で再び歩き出すことが出来たのだ。
 
 先を行く背中はあの日よりずっと小さい。それなのに、不思議な既視感がある。
 
 今回は一度も立ち止まることなく、藍は吊り橋を渡りきった。
 
 一国の神を祀るにしては、こじんまりとした堂だった。
 六角中に屋根を乗せた形で、屋根も壁も鮮やかな朱塗りをほどこされている。
 皓皓と入れ替わって前に出た藍は、一つ深呼吸した後、腹に力を込めてその扉を開いた。
 
 部屋の中央で、篝火かがりびが燃えている。
 それだけの空間。
 威厳ある彫刻の像もなければ、豪奢ごうしゃな姿絵もない。
 堂の奥には形ばかりの祭壇があるが、古びた剣が飾られているだけで、供物の一つも捧げられていない。
 今まで通り過ぎて来た大神殿の他の何処よりも、殺風景な部屋だ。
 
「本当に此処なの?」
 
 皓皓が怪しむのも無理はないが、記憶の中と寸分変わらぬ景色に、藍は既に理解していた。
 
「あれだ」
 
 言いながら、篝火に歩み寄る。
 とても人の手が行き届いているとは見えない離れの堂で、一人でに火が燃え続けている。
 その奇妙さに皓皓も気が付いたようだ。
 
 二人の来訪に反応するかのように、大きな火柱が立つ。
 鉄製の篝には、燃料になりそうな物が何も入っていない。そんなことは構わないとばかりに火は勢いよく燃え盛っている。
 摩訶不思議な現象は、すなわち、神秘。
 其処には、確かな神の息吹が存在している。
 
 篝火の前に立つと、何をすればよいのか自然と理解出来た。
 燃え盛る火に手を伸ばす。
 
「藍、危ないよ!」
 
 だが、火は触れた藍の指を焼くことなく、器の形に捧げられた彼の手で掬われた。
 皓皓が息を呑んだ。
 
「火の神の言葉、おまえがしっかり聞き届けてくれ」
 
 皓皓にそう言い置くと、藍は両手で掬った火を、湧き水を飲むように吸い込んだ。
 
――待っていたぞ、我が『依代』よ。
 
 頭に響く声が大きくなり、鮮明な言葉を結ぶ。
 次の瞬間、全身が熱に包まれ、藍はがくりと膝を崩した。




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