片羽の鳳凰は青藍の空を恋う 第10話


 翌朝目覚めると、丸い天井に見下ろされていた。
支柱から放射線状に伸びるはりの数を意味もなく数える間に、意識がはっきりとしてくる。
 
(そうだ。ここは狼狽之国ろうばいのくになんだった)
 
 近頃、朝起きる度に見える景色が違うので、自分が今何処にいるのかを思い出すまでに時間が掛かってしまう。
 ほんのひと月と少し前まで、山奥のあの小屋以外の場所で眠ることなどなかったのに。
 
 むくり、と体を起こす。
 皮と布だけで頼りなく思えた壁は意外に頑丈で、よく風を遮断し、眠っている間、寒さに震えることもなかった。
 
 ナルスを家長とする一族の皆は、前触れもなくやってきた来訪者を大いに歓迎し、わざわざ物置用の穹盧きゅうろを片付け、三人のための寝床を用意してくれた。
 お陰で初対面の人間と寝所を共にする緊張もなく、ゆっくりと眠ることが出来た夜だった。
 
 チノの姿は既にない。
 ランは丸めた背中をこちらに向け、まだ眠っているようだ。
 
 あれだけの出来事があった後の、気の休まることのない逃亡劇。
 皓皓コウコウの意識がない間も、藍は神経を張り詰めさせていたに違いない。
 それからほぼ丸二日歩き通しだった。
 見ず知らずの他人の手の中でも、屋根と壁がある場所に腰を落ちけられたことで、緊張の糸が解けたのだろう。
 
 その上、昨晩チノから聞かされた、にわかには信じがたいあの話。
 
 疲れていて当然だ。
 
(ああ、そうか。何かに似ていると思えば)
 
 丸く囲む壁と、放射線状の梁。
 この穹盧は鳥籠の形に似ている。
 己を閉じ込めていた宮を「鳥籠だ」と皮肉った藍が、鳥籠型の穹盧の中で安心して眠っている。必然のようで、皮肉であった。
 
 皓皓は藍を起こさないよう、そっと外に出た。
 
 狼狽之国の民は皆早起きなのか、それとも単に皓皓が寝過ごしただけなのか。
 外では既に皆働き始めていて、子供たちがきゃっきゃと走り回っていた。
 微笑ましい光景を、つい足を止めて眺めてしまう。
 もつれて転がった男の子二人がぱっと姿を消したかと思うと、次の瞬間その場に小さな狼が現れたので、間抜けなことに「わっ!」と声を上げてしまった。
 
 何も不思議なことはない。
 狼狽の民はその身に風の神の力を宿し、狼の姿に変化するものなのだから。
 
 狼、というより愛らしい仔犬に見える彼らは、人の姿のまま残された女の子、ハワルに噛み付くふりをしてじゃれついた。
 ハワルがきゃらきゃらと笑いながら逃げ回る。
 子供たちを見守りながら、昨夜の焚き火の後片付けをしていた女性が、皓皓に気付いて微笑んだ。
 
「おはようございます。眠れましたか?」
「はい。お陰様で。ええと……」
「サラーナと申します。ウールの妻で、この子の母です」
 
 言いながら、駆け寄って来たハワルを抱き止める。
 いかせん人が多く、皆耳馴染みのない発音のため、なかなか名前が覚えられない。
 
「何か召し上がりますか?」
 
 サラーナの申し出を有難く受け入れ、彼女たちの穹盧へお邪魔する。昨夜ほとんど食べられなかったので腹が減っていた。
 彼女らはもう朝食を済ませたとのことで、
 
「残り物ですみませんが」
 
 と、サラーナは申し訳なさそうにしつつ、小麦を練って焼いた物――鳳凰之国ほうおうのくににはない料理だったので名前はわからない――と果物を振舞ってくれた。昨夜の汁物と同じく肉が使われていないところに彼女からのいたわりが感じられる。
 隣に座ったハワルがじっと見詰めてくるので、果物を分けてやり、一緒に食べた。
 
「ねぇ、おねえさま」
「おねえさま?」
「おにいさま、じゃ、ないんでしょう?」
「そう、だけど……」
 
 皓皓がずっと着ていた着物は破け、汚れ、酷い有様だったので、昨夜、寝る前に身を清めたのと一緒に着替えている。
 自分の着物を貸す、と言うマナンの妻の申し出を断りきれず、一体いつ以来だろうか、皓皓は女物の衣装を身に付けていた。
 此処にいる皆に知られてしまっている以上最早隠す意味はないのだが、慣れない呼ばれ方にむずむずする。
 
「名前で呼んでくれると嬉しいな」
「お名前はなんておっしゃるの?」
「皓皓、だよ」
「どんな意味?」
「名前に意味があるの?」
「意味がないお名前なの?」
 
 問い返されて考えた。
 人の名前など記号に近い音でしかないと思っていたので、意味など考えたこともない。
 
「……僕の残りの半分、って意味かな」
 
 ハワルはよくわからない、と首傾げた。
 
「ハワルはどういう意味なの?」
「雪が溶けた後にやってくる季節のこと!」
 
 得意げな答えが返ってくる。
 
「サラーナさんは?」
「花の名前です。この国の、古い言葉で」
 
 三百年以上も昔には、人々は国によって違う言語を話していたという。
 各国間の交流が盛んになり、利便性を追求して共通語が開発されて以降、大国に属さない一部の少数民族を除いて、皆がそれを使うようになった。
 今、皓皓がハワルたちと不自由なく会話出来ているのも、いにしえの人々の努力の成果だ。
 そうして各国独自の言葉が完全についえてしまったかといえばそういうわけでもなく、どの国でもなんらかの形で受け継がれている。
 狼狽之国ではそれが人の名前において顕著なのだそうだ。
 
 皆の名前が覚えられない、と訴える皓皓のために、ハワルは何処からか探して来た板切れに炭の欠片かけらで簡単な家系図を書いて説明してくれた。
 狼狽之国の遊牧民には読み書きの風習がほとんどなく、ハワルがこの幼さにして文字を書けるのは特別なことらしい。
 
 家長のナルス、その息子にマナンとウールの双子と、タルという青年が。タルの片割は他所の一族に嫁に出ていて、此処にはいないそうだ。
 マナンの妻のニル、その子供たちがゾンとナマル。先程、狼の姿になって遊んでいた、双子の男の子たちだ。
 ウールの妻がサラーナで、娘がハワル。
 そしてナルスの母、ウル婆さん、ということだった。
 ナルスの妻は数年前に病で亡くなっていて、ウル婆さんの夫、ヤス爺さんはつい先日風になったばかり。
 総勢十人の家族。
 何かの呪文に聞こえてくる名前と関係性を必死で結び付けながら、ふと、足りない欠片に気が付いた。
 
「ハワル、君の対は?」
「いないわ。あたしは孤狼ころうだもの」
 
 ハワルは怖じることなく言った。
 
 ころう。孤狼。
 チノも自分を指してそう呼んだ。
 鳳凰之国における片羽かたはねと同じ存在。
 
 驚いてハワルを見る。この国に来てから僅か数日の間に、チノとハワル、二人もの片羽、いや、孤狼に出会ったことになる。
 十数年生きてきて、皓皓が自分以外の片羽に出会ったのは藍が初めてだった。
 藍に言わせれば、皓皓は本来の意味の片羽ではないので、皓皓が知る片羽は藍だけだとも言える。
 それなのに、この国では、こんなに短期間で、こんなに近くに、二人も?
 
「この国では、人が一人で生まれることはよくあるんですか?」
 
 そう尋ねたくもなってしまう。
 サラーナは首を振った。
 
「珍しいことです。だからこそ、チノのおじさまもハワルのことを気に掛けて、よく尋ねて来てくれるのでしょう」
 
 チノ。
 不思議な人だ。
 藍はチノのことを警戒してるようだった。神の依代よりしろの話を聞いてからは、尚更。
 だが、皓皓は彼の纏うその不思議な空気に、何らかの惹かれるものを感じている。
 
「チノさんは、今、どこに?」
「相棒を迎えに行くと言っていましたから、多分、丘の方だと思います」
 
 食事を終えた皓皓はサラーナに礼を言い、教えられた丘に向かってみることにした。


 山国育ちの皓皓には丘と呼ぶにも物足りない、なだらかな傾斜の上を歩く。
 風が強い。風の神からの試練か、あるいは祝福か、単に山脈からのおろしがまともに吹き下ろす地形なだけかもしれない。
 乾いた風がちくちくと肌を刺す。まもなく冬がやって来るのだ。
 
 傾斜を登りきった先で、チノと、心苦しいことにまだ顔と名前が一致していない青年――おそらく彼がタルだろう――が、馬に草を食べさせていた。
 
「皓皓じゃないか」
 
 放たれた馬たちが思い思いに草を食む中、一際大きな一頭にまたがったチノが、呼び掛けるまでもなくあちらの方からやって来た。
 鞍も付けず、裸馬を平然と乗りこなしている。
 
「その子が『相棒』ですか?」
「ああ。立派なもんだろう?」
「相棒と言うから、てっきり双子の片割か、奥さんのことかと思いました」
「わしは孤狼だと言ったろう。つがいもおらんよ」
 
 危なげなくチノが馬の背から飛び降りる。
 自由になった彼の相棒が、検分する様に鼻面を寄せてきた。皓皓は大人しくそれを受け入れる。
 しばらくして、ずいっ、と胸に頭を押し付けてきたので首を撫でてやる。しっとりと柔らかい毛並みだった。
 
「気に入られたようだな」
「好きなんです。動物」
 
 山中で暮らすということは、山の動物たちに囲まれて生きているということだ。
 里まで荷物を運ぶために、ハシバミという名前の馬も飼っていた。
 藍と共に紅榴山こうりゅうさんの宮を抜け出したあの夜、我が家に立ち寄った時、うまやを開放した。
 そうしておけば、賢い愛馬は皓皓の世話がなくとも、自分で何処へでも行って、自分で生きていけるだろう。
 養父母を亡くしてからは、あの子が唯一の家族のようなものだった。
もう二度とあの優しく温かい生き物に触れられないのだと思うと、どうしようもない寂しさが込み上げる。
 
 放牧されている馬たちは皆、ハシバミより、ひと回りふた回り体が大きい。
 種類が違うのか、育った環境による影響なのか。
 いずれにしろ、こんな体では鳳凰之国の狭い山道は駆け抜けられないだろう。

 チノが「相棒」の背を叩く。
 
「面倒な用事がある時は、片付くまでの間、此処で預かってもらっとる」
「面倒な用事?」
「例えば雛鳥を拾いに行ったり、な」
 
 言って、にやりとした。
 
「どうだ、良い男だろう?」
 
 自慢げに言うだけのことはあり、凛々しい顔立ちをした雄馬だ。
 おまけに賢い。目を見ただけでわかる。
 
「名前は?」
「ツァガーンだ」
「つぁ……?」
「シロ、でいい。そういう意味だ」
 
 皓皓が慣れない発音を舌に乗せられずにいると、チノは笑い、元も子もないことを言う。
 
「そのままじゃないですか」
「そのままでいいのさ。名は体を表すと言うだろう」
 
 名前に込められた意味を大切にしているようだったハワルには聞かせたくない発言だ。
 
「チノ、はどういう意味なんですか?」
「あー」
 
 相棒の名前を口にするのとは対照的に、言い淀む。
 
「狼、という意味だ」
「それはまた……そのままですね」
 
 皓皓や藍に「鳥」と名付けるようなものではないか。
 
「いや、むしろ的外れで、皮肉な名前さ」
 
 チノの言う意味を理解するのには、少し時間が掛かった。
 それから、はっとする。
 
 対の相手を持たない、つまりは神からの恩恵を与えられていない彼は、狼に変化することが出来ないのだ。
 藍が誰かの手を取っても鳥に変化することが出来ないのと同じで。
 自身が片羽であることを気に病んで生きてきたくせに、他人のそれにまで配慮が及ばない。己の身勝手さにうんざりする。
 
 しょげてしまった皓皓を励まそうと思ってくれたのか、
 
「乗ってみるか?」
 
 と、チノが相棒を指した。
 
「いいんですか?」
 
 それは魅力的な提案だ。
 皓皓の「家族」ではないが、今はこの動物の温もりが恋しい。
 シロの背中は皓皓が腕を伸ばしてやっとの高い位置にあり、よじ登るためにはチノに手を貸してもらわなければならなかった。
 賢い雄馬は自分の背中の上でじたばたする相手にも動じず、皓皓が腰を落ち着けるまでじっと待っていてくれる。
 
「うわぁ」
 
 一気に高くなった視線に、気分も高まる。
 空を飛ぶ時にはもっと遥か上から景色を見下ろせるが、それとはまた違う見え方だ。
 
 シロが歩き始めた。
 始めはゆっくり。
 手綱を握る皓皓の緊張が徐々に解けていくのに応えて、段々と速度を上げ、やがて彼は駆け出した。四本の足で力強く地面を蹴り、草の上を跳ね回る。
 鳥になって羽ばたく時より、もっと強い空気の力を感じる。
 シロの動きを押し留めてしまわない程度に、手綱を持つ手に力を込めた。
 耳元でびゅんびゅんと吹き抜けていく風の音が聞こえる。
 
 風。
 そうだ、風だ。
 風になるとはこんな感覚なのか。

 何故だか目に浮かんだ涙は、あっというまに乾いていく。
 シロが満足して足を止めるまで、思い切り草原の上を走った。
 何処までも行ってしまえそうな気がした。
 
「上手いもんだな」
 
 ひとしきり駆け回って戻って来ると、皓皓は再びチノの手を借りてシロの背中から降り、手綱を返した。
 すぐにチノに体を擦り寄せるシロを見て苦笑する。
 皓皓に愛想良くしてくれたのは彼なりのもてなし方で、相棒の隣の方が居心地が良いのが本音だろう。
 
「おまえさん、案外、狼狽の民としても上手くやっていけそうだな」
「僕が?」
「気ままだぞ、うちの国は」
 
 思いも寄らない話に、しばし思いを巡らせる。
どうせ国に帰ることが出来ないなら、一層――
 
「それも、いいかもしれませんね」
 
 例えばシロのような相棒を手に入れて、旅をするのはどうだろう?
 何処までも行ってしまえそうな気がした衝動に任せて、果てもなく、宛てもなく、駆けて行く。
 
 「広い世界を見に行こう」と誘ったら、藍は喜ぶだろうか。
 ああ、でも、ずっとあの宮の中だけで暮らしてきた藍は、馬に乗れないかもしれない。練習してもらわないと。
 
 夢物語に思いを馳せてみる。
 今は少しだけ、自分が片羽の鳥であることを忘れていたかった。


 目が覚めると、藍は穹盧に一人きりだった。
 ほんの少し前までそれは当たり前のことであったはずなのに、最近ではそれをひどく不安に感じるようになってしまった。
 
 狼狽之国に迷い込み、ナルス一家の世話になり始めて、数日が経つ。
 藍自身は自国と違い過ぎる暮らしにまだ居心地の悪さを感じているが、皓皓は此処での生活をそれなりに楽しんでいるようだった。
 いつの間にか彼女はタルという青年と意気投合したようで、丘の上で馬に触らせてもらったりしている。
 
 彼女。そう、彼女、なのだ。
 皓皓が実は少女であったことにも、藍は未だに戸惑っていた。
 
 穹盧を出ると、太陽はもう天高い位置にあった。
 宮を離れてからというもの、何故だかひどく体がだるく、昼夜を問わずに意識が朦朧とし、起きていられなくなる時がある。
 まだ怪我の治りきっていない皓皓がタルと共に馬の世話をしたり、女たちを手伝って洗濯や料理をしたりする中、無傷な藍が寝てばかりいるのはどうかとは思う。
 だが、体が言うことを聞かない。
 
「心の傷は、体の傷より癒えにくいものだよ。外から見ると何ともないように見えてしまうから、余計に困ったものだ」
 
 そう言ったのはウルという老婆だった。
 寡黙な彼女が言葉を話すのを聞いたのは、今のところその時だけだ。
 
 穹盧を出ると、桶を担いだマナンの妻――ニルに出会った。
 
「あら、おはよう。お寝坊さん。はい、これ、運んで頂戴」
 
 働かざるもの食うべからず、が彼女の信条だそうで、藍がどうしようもなく動けないことを責めたりはしないが、こうして起き出して来た時には容赦なくこき使ってくれる。
 腫れ物を触るように扱われるよりはずっといい。
 彼女の穹盧の水瓶に桶の水を注ぎ終えると、
 
「皓皓は?」
 
 と、尋ねた。今日はまだ彼女と顔を合わせていない。
 
「うちの人たちと狩りに出掛けたよ」
「狩り……」
 
(本当に何でも出来てしまうんだな)
 
 養父母を亡くして以来、一人で暮らしてきたという彼女はたくましい。
 箱入り、ならぬ籠入りの、形ばかりの皇子とは大違いだ。
 
「お、これは丁度良かったな」
 
 チノがひょっこり顔を覗かせたかと思うと、ずかずかと穹盧の中に入って来て、今継ぎ足したばかりの水を遠慮なく椀に汲み取った。
 一息に水を飲み干したチノが、藍の視線に気付いて「ん?」と首を傾げる。
 
「……おまえは神の依代だと言ったな?」
「いかにも」
「ならば、俺がおまえを通じて、風の神と話をすることも出来るのか?」
「ふむ」
 
 チノは手の甲で口元を拭うと、少し考え、おもむろに、穹盧の隅に立て掛けてあった釣竿を手に取った。
 
「ついておいで」
 
 それだけ言うと、さっさと外に出て行ってしまう。
 
「おい。何処へ行くつもりだ?」
 
 藍の呼び掛けに応えず、チノは肩に担いだ釣竿を揺らしながら、鼻歌交じりにどんどんと歩いて行く。
 説明もないまま歩き続け、連れて来られたのは、一家の穹盧が立つ場所から少し離れた川の畔だった。
 
「ほれ」
 
 と、目の前に釣竿が差し出される。
 
「釣りの経験は?」
「……覚えていない」
 
 まだ父母と共に都の皇宮で暮していた頃、エンスウと共に泉に出掛けたことがあった。
その時、たしか宛は従者に習って釣りをしていたような気がするが、自分がどうしていたかは記憶にない。

 二人のことを思い出すと、未だ胸が焼けるように痛む。
 
「とりあえず、竿を持って、糸を垂らしておけ。後は待ちだ」
 
 意味もわけもわからないまま、言われるがまま川面に釣り糸を垂らす。
 隣にしゃがみ込んだチノも、同じように竿を構えた。
 
 風が冷たい。
 ただ竿を携えて立っているだけだと、余計に体が冷えた。
 狼狽之国の冬は、鳳凰之国より早くやってくると聞いたことがある。
 
 火の神をまつる民にとって、冬は沈黙の季節。
 寒いのは好きではない。寒くなると、寂しさを思い出してしまうから。
 
 そうしてしばらくの間、チノが何度も魚を釣り上げる横で、一向に動きを見せない釣り糸を見るとはなしに眺めながら、ぼんやりとたたずんでいた。
 
 どのくらい経った頃だろう?
 
「おい、引いとるぞ」
 
 チノに言われ、はっと我に返る。
 
「こ、これ、どうすればいいんだ?」
「慌てるな。慎重に。糸を切られんように」
 
 ぐんっ、と引っ張られる感覚に抗いながら、チノの指示通り慎重に竿を上げる。
 釣り糸の先には、藍の片手に収まる程度の、小さな魚が掛かっていた。
 
「やったな」
 
 チノが歯を見せ、にかっと笑う。
 
「……俺なんかに捕まるなんて、鈍くさい魚だな」
 
 言いながら、藍はふっと、頬が緩むのを感じた。
 ここしばらく張り詰め続けていたものが不意に解けて、喉の奥から熱いものが込み上げてくる。
 それが涙になる前に、辛うじて飲み込んだ。
 
 それから、チノにやり方を教わって、魚をさばいた。
 決して良い気分のする作業ではなかったが、いつかマナンたちが鳥を解体しているのを見てしまった時のように、気分が悪くなるようなことはなかった。

 形が違うだけで、どちらも生き物であることは変わりないのに。
 都合のいい感覚だ。そう思うと、また乾いた自嘲が漏れた。 

 火を起こし、はらわたを抜いて枝に刺した魚を回りに並べる。
 一通りの支度が終わったところで、いよいよ藍はチノに説明を求めた。
 
「それで、これに何の意味があるんだ?」
 
 焚火に手をかざしながら、ようやくチノも藍と向き合った。
 
「うちの神さんは現金なんでな。お呼び立てするには供物を捧げなきゃいかん。それも、呼び出す当人――今はおまえさんだな。それが用意した供物でないと応えてくれんのだ」
「そういうことか」
 
 やっと腑に落ちた。これまでの行動が意味のないことではなかったのだとわかり、安堵したとも言える。
 これが皓皓であったなら狩りで獲物を捕まえてくることも出来ただろうが、藍には到底無理だ。チノもそう思って、素人でも比較的手を出しやすい釣りの方に誘ってくれたのだろう。
 
「さて、始めるか」
 
 チノは一息吐いて立ち上がると、そっと両目を閉じた。
 しゃんっ、と、腕に、袖に取り付けた飾りが振られる。
 しゃん。しゃん。しゃらん。
大 きな風がチノの髪を、着物の袖や裾をあおり、金属の飾りが狂ったように音を鳴らす。
 
 突風が吹いた。

「……まったく、鳥の所の人間ときたら、どうにも頭が固い奴ばかりでいかんのう」
 
 くつくつと笑いながら目を開けたチノは、一見、何も変わらない。
 一瞬、チノがふざけているのかと思ったくらいに。
 
「そう睨むでない、羽を持つ友人よ。それとも、鳳凰之国の弟皇子ていおうじ様とお呼びしてひざまずくべきかな?」
 
 その声の奥に、先程までは聞こえていなかった音が重なる。
 風の音。
 そして、獣の、うなり声。
 
「『風の神』、なのか?」
「いかにも」
 
 チノの体に宿った風の神は頷き、面白がるように藍を観察する。
 
 自国の神の恩恵にも預かれなかった片羽が、こんなに簡単に他国の神と対峙することになるとは。今日まで思いもしなかった。
 
「貴方に教えてほしいことがある」
「何だ?」
「今、俺たちの……鳳凰之国が乱れているのは知っているか? 熱病が流行り、不作が続いている」
「ああ。そちらから流れてくる風が淀んでいるからな」
「それは、どうすれば改まるんだ?」
 
 風の神は突然、地面にどかりを腰を下ろしたかと思うと、組んだ足に頬杖を付いた。
 
「神に教えを請う立場の者として、口の利き方がなっとらんな」
「……失礼、致しました」
 
 藍がしおらしく頭を下げると、風の神は吹き出す。
 
「よいよい。麒麟きりんの所の嫌味ったらしく慇懃な態度より、その方がずっと好ましい」
 
 揶揄からかわれていただけらしい。
 チノのあの性格は、この神によるところが大きいのではないだろうか?
 咳払いを一つして、藍は話を戻す。
 
「チノ――貴方の依代は、死者の魂が還らないことで火の神の力が弱まっていると言っていた。
 ならば遺体のほうむり方を土葬から火葬に戻し、魂が空へ登るようにすれば、神の力は戻り、国の乱れは治るのだろうか?」
「理屈から言えばその通り。しかし、問題は、それをどうやってかなえるか、だろう」
 
 言葉を失う。
 火葬の文化を土葬に変え、他にも様々な文化を麒麟之国流に改めているのは、兄皇けいおう兄皇后けいこうごうだ。
 誰がそれに意を唱え、国をあるべき姿に戻すことが出来るというのか。

 例えば藍が進言したところで、兄皇は受け入れないだろう。
 芻を殺めた疑いで追われている、今でなくとも。

 兄皇は麒麟之国の富に焦がれている。それ故にかの国から皇后を迎え入れ、彼女の助言を盲信した。
 藍の父である弟皇は急激過ぎる変革をそれとなくいさめていたようだが、聞き入られはしなかった。
 片割の言葉にさえ変えられなかった、兄皇の気を変えさせる。
 そんなことが出来るのは、それこそ、もう神くらいしか――
 
「そう。だからこそ、依代が必要なのだ」
「それが俺だと、どうして言い切れる?」
 
 藍は今まで火の神に出会ったことがないし、その力を感じたこともない。
 神殿にもうでたのも紅榴山の宮に移る前、母が亡くなった際のとむらいで、が最後だ。
 以来、神に祈りを捧げたことさえない。
 
「おまえさんは間違いなく火の神の依代だ。一人で生まれたのならば間違いない。
 鳥のが何故、今に至るまで自分の依代の前に姿を見せんのかはわからんが……あるいは、向こうから出向けないほど、力が弱まっているのかもしれん」
 
 もしも風の神の言う通りであるならば、事態は藍が考えているより、深刻なのかもしれない。
 自国の危機を感じて、背筋がぞっとする。
 
「おまえさんに理不尽な思いをさせた国を、それでもおまえさんは救いたいか?」
 
 風の神が問い掛けてくる。
 心を見透かされたような気がした。
 
 乱れた国をどうにかしたくて、宛から送られてくる資料を掻き集め、熱病についての研究を重ねていた。
 皓皓の里の診療所で見た光景を思う。病で苦しむ民を見過ごせない。
 だが、いざ本当に国を救いたいのか? と問われると、言葉が、息が詰まる。
 
 陋習ろうしゅうに囚われて我が子を鳥籠に閉じ込めた父。
 自国の正しい在り方を見失い、目先の富を追い求め過ぎたために、道を誤りつつある伯父。
 力を得る。ただそれだけのために、かけがえのない片割を殺めた従兄。
 力を与えてくれず、代わりに負うべき役割さえ、自分に教えてくれなかった神。

 彼らの国を、救いたいか?
 
「よく考えてみるといい。もし、それでもおまえさんが鳥のを助けてくれるというのであれば……おまえさんの国で、もっとも神に近い場所を尋ねてみるといい」
 
――向こうから姿を見せないならば、こちらから尋ねて行ってしまえ。
 
 それを最後に、風の神は瞼を閉じる。
 そして次に目を開けた時、其処にいたのはチノだった。
 
「やれやれ。うちの神さんはお節介焼きだな」
 
 チノがチノのままで笑う。
 『風の神』はまた大気に遊び、何処かへ行ってしまったらしい。
 
「……これは、風の神にではなく、同じ、対の片割を持たないおまえに聞きたいんだが、」
「なんなりと」
「おまえは、どうやって自分の運命を受け入れた?」
 
 藍はまだ受け入れられない。
 片羽としての理不尽も、依代としての責任も。
 チノは肩をすくめた。
 
「さぁな」
「真面目に答えろ」
「茶化しているわけじゃぁない。わし自身、いつ、何故、覚悟が決まったのか、ようわからんのだよ。もしかしたら、まだそんなものは決まっておらんのかもしれん」
 
 チノが空を仰ぐ。嘘のように真っ青な空は、鳳凰之国で見上げるより遠い。
 
「わしも、おまえさんよりは歳をくっている。面白くないことはそれなりにあった。
 ただなぁ、風に吹かれて流れ流れているうち、なんとなく、どうでもよくなってしまったのだよ。ある種の諦めだな」
「諦めろ、と?」
 
 今まで受けてきた理不尽を?
 片羽であるだけで忌子いみこと呼ばれ、籠に閉じ込められたことや、幼くして母を亡くしたこと。
 宛が、芻を殺めたこと。
 それら全てを、受け入れて諦めろと?
 
「そうは言わん。いや、おまえさんが風の民だったなら言ったかもしれんが……
 おまえさんは火の神の依代だ。風は気ままに流れるものだが、火は違うだろう? 火は――燃え上がるものだ」
 
――君は宛様の罪を憎まなくちゃいけない。
 
 突然、皓皓の言葉が蘇った。
 その真意が、今やっとわかった気がする。
 
 そうだ。
 本当は、自分はずっと。
 
(怒っていたんだ)
 
 自らが受けた理不尽な仕打ちを。
 宛が犯した罪を。
 
 火の神は裁きの神だ。
 人々が過ちを犯せば天罰を下す。
 日照り、火山の噴火、落雷。
 鳳凰之国の災害は時に無慈悲なまでに荒々しく、それは愚かな人間に神が怒っているからだと言われていた。
 それ故に、火の神は「怒りの神」とも称される。
 藍が火の神の依代であるというのなら――藍も怒るべきなのだ。
 
 さぁ、今こそ。
 理不尽を怒り、間違いを燃やし尽く。
 燃え盛る炎のように。





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