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ロシア正教会キリル総主教「正教勝利の週の救世主キリスト大聖堂での礼拝後の総主教説教」(2022年3月13日)


概略


 「ウクライナ侵攻はゲイプライドパレードのせいだ!」と云った説教を行った翌週の礼拝後に語った説教。タイトルの「正教勝利の日」とは、9世紀のビザンチン帝国で正教会の礼拝で用いられる聖画像、イコンへの崇敬を行う勢力が政治的な勝利を納めたことを記念する日である。キリスト教を始めとする一神教ではモーセの十戒で「あなたはいかなる像も造ってはならない」「あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」(新共同訳、出エジプト記、20︰4、5)と述べているように偶像崇拝を否定している。だが、実際はキリスト教美術と云うジャンルがあるように絵画や彫像などが作成されて崇敬の対象となっていた。
 しかし、聖書をストレートに読めば偶像崇拝は否定されているのでイコンを用いた礼拝は認められない。だが、イコンへの崇敬は慣習として社会に根付いているので止められない。そう云うわけで、ビザンチン帝国ではイコンへの崇敬を認めんと云う勢力と正当な信仰として認めろ、と云う勢力で約2世紀にも渡って論争が続く。最終的に、イコンへの崇敬と信仰は矛盾しないと云うかたちで決着がついたのでそれを記念して「正教勝利の日」として祝うことになった。
 なので、説教の前半部分は歴史の話を交えながら、権力と信仰の関係について語っている。あれ?、ゲイプライドパレードはどこいった?ドンバスの人たちはどうしたんすか?ウクライナとビザンチン帝国は同じ?中世の皇帝が政治を取り仕切っていた帝国と民主主義で選挙があって大統領制を敷いている国が同じなんすか?
 ウクライナで教会が迫害されている〜、ってあなたが戦争支持を散々云ったからじゃないすか?しかも具体的な迫害の実態って、自分の名前を礼拝で読み上げてくれないから?正教会の礼拝では自身が所属している教会の総主教の名前を読み上げて祈る習慣がある。なので、モスクワ総主教庁系の教会ではキリル総主教の名前が読み上げられるのだが、軍事侵攻を支持しているのでは嫌になってくる人が出てくるのが普通じゃないですか?と思いたくなる。うーん、それにしてもみみっちい。遠大な歴史の話から自分の名前を読み上げてくれないことを無理やり並べているせいで前半と後半の落差が激しい。て云うか、サラッと「占領軍」とか聖書の引用で犬笛を吹いているようにも読める。



 なお、PDF化もしたので欲しい人はどうぞ。



訳文


2022年3月13日、四旬節第1週、正教勝利の日にあたり、モスクワと全ロシアのキリル総主教聖下は、モスクワの救世主キリスト大聖堂において、聖大ワシリイの典礼と正教勝利の日の礼拝を執り行った。礼拝の終わりに、ロシア正教会総主教は大主教の講話で信者を前に語りかけた。


父と子と聖霊の御名において。

今日は四旬節の第一主日であり、聖なる使徒たち、使徒たちの部下たち、聖なる父祖たち、地方教会を指導した多くの聖人たち、殉教者たち、告白者たちに始まり、私たちのために正教の信仰を守ってくれた人々の記憶に捧げられます。外的状況を恐れず、神を恐れぬ権力に頭を下げず、死に至るまでキリストに忠実であり続けたすべての人々のおかげで、私たちは今日、ロシアの首都モスクワの生まれ変わった救世主キリスト聖堂で、正教勝利の日を祝うことができるのです。

私たちの教会、すなわち普遍教会の歴史は、多くの悲しみに満ちているが、同時に多くの喜びにも満ちている。困難や病気、人生の失敗に直面したとき、私たちはしばしば自分自身を不幸だと思い、キャリアで成功しなかった人は自分自身を敗者だと思う。そして多くの場合、この悲しみは人を圧倒し、人生において何が本質的で、何が表面的で二次的なものなのかを見失わせる。教会の歴史は、何が最も重要かを教えてくれる。私たち信者にとって、正統派の信仰を守ること、教会に忠実であり続けること以上に大切なことはありません。それが、神などいないと主張する人々による教会や信仰に対する精神的、知的な圧力であろうと、分派や分裂の道を歩み、他の人々にも同じ道を歩むよう呼びかけている偽りの兄弟たちによる圧力であろうと、どのような状況であろうと、正統派の信仰を守ること、教会に忠実であり続けること以上に大切なことはありません。あるいは、信仰や霊的生活に無関心で、目先の利益のために生き、神への信仰などという問いがほとんど存在しないか、存在したとしても人生のごく周辺にある人々からの圧力である。


教会の歴史を振り返ってみると、しばしば拷問や嘲笑の中で、人々が信仰のために命を捧げたことを思い出す。人がそのような苦しみに耐えることができるのか、想像もできないほどの苦しみを味わいましたが、彼らー使徒、使徒的人物、殉教者、告白者、聖なる教父たちーこそがキリストの信仰を私たちに伝えたのです。それゆえ、正教の勝利の日に、私たちは何よりもまず彼らの聖なる御名を思い起こし、彼らの生涯、彼らの言葉、彼らの思い、彼らの奇跡、彼らの偉業を通して、彼らの信仰を守り、高め、現在地上に生きている私たちを含む後世に伝えてきたすべての人々のために共に祈ります。

教会の歴史全体は、外的な力による圧力の多くの例によって特徴づけられる。聖像破壊運動の歴史は、教会の生活がいかに皇帝や世俗権力の地位に依存していたかを示している。第7回全地公会議において、イコンへの崇敬は可能であるばかりでなく有益であり、イコン崇敬は教会の精神生活の一部であるべきだという教会の信念が確認された後、ビザンチン帝国は新たな支配権力の下に置かれた。イコン崇敬を行わない他の一神教の経験など、様々な政治的状況の影響を受け、皇帝は多民族帝国を強化するためにはイコン崇敬を放棄した方が良いと判断した。教会芸術の傑作が破壊され、美しいフレスコ画が消されたり、動植物から拝借した装飾で塗り替えられたりした。そして、これが皇帝が考え、信じたことなのだから、「誰の王国が信仰であるか」という当時の政治生活の法則に従えば、臣下たちも同じことを信じなければならなかった。しかし、イコン崇敬の否定は公会議布告と矛盾するため、教会はもちろん反発し、迫害が始まったー異教徒からではなく、聖像破壊論者から、残忍な迫害が。それでも主は慈悲を下し、ビザンチンの人々が主に忠実であることを試された。敬虔な皇后テオドラが権力を掌握したことにより、イコン崇拝は、正教会がそれに従って生きてきた使徒の信仰、使徒の伝統に対応するものであることが再び確認された。

この聖像破壊運動の歴史全体において、教会が世俗の権力にいかに強く依存していたかがうかがえる!イコンを信じない皇帝がやってきて、みなにイコンを信じるなと命じた。教会とイコン崇敬の正しさを信じる皇后テオドラがやってきて、すべてが元通りになった。このように教会が外部の権力に依存すること、政治的権力を持つ者に依存することは、最も危険な依存である。教会員は皆、法を守る人々であり、当局や軍のために祈る。しかし同時に、権威が神をも恐れぬものとなり、キリスト者に信仰を捨てることを強要したり、聖像破壊運動のように異端に陥り、その下僕に従うことを強要したりする場合に備えて、すべてのキリスト者は選択する権利を留保している。


このようなことはすべて過去のことのように思えるだろう。そうではない!ウクライナで起きていることを考えると、胸が張り裂けそうになる。かつてのビザンチン帝国と同じではないか。政府がやってきて、政治的な理由から、正教会信者の大多数がロシア正教会(モスクワ総主教庁)に所属することを認めない。(注1)こういった人々への弾圧が始まる。彼らはほとんど反逆罪で告発され、侮辱的かつ冒涜的に「占領者の教会」と呼ばれる教会に行かないよう圧力をかけられる。(注2)そしてもちろん、聖像破壊運動の時と同じように、すぐに政府の指導に従う人々もいる。「司祭が教区を失わないように、主教が説教壇を失わないように、占領軍に協力したと非難されないように、何が起ころうと、何が起ころうと......」などなど。

しかし、私たちの教会は、このような揺れ動く試練をくぐり抜け、迫害と弾圧にもかかわらず生き延びてきたのです。今日、私たちは自らの歴史的経験からこう言うべきでしょう:私たちは世俗の権威を尊重しますが、教会の内的生活に対する権威の干渉を受けない権利を留保します。今日、教会で総主教の名前を記念することさえ(注3)、ユダヤ人(ヨハネ19:38)を恐れて不可能になりつつある人もいますが、ウクライナでもそうなることを願っています。(注4)

私たちは誰も非難しませんが、悲嘆にくれる心で、そのような人々を理解したいと思います。と同時に、小さな不誠実さを持つ人は、大きな不誠実さを持つこともある(ルカによる福音書16章10節参照)。(注5)したがって、今日の私の祈りは、ウクライナの人々が正教の信仰を守り、分裂に陥り、それによって当局に忠誠を示すことを示唆する人々の圧力を恐れないようにすることです。私たちはウクライナ正教会のために祈り、そしてこれからも祈り続けます。主が私たちの主教、聖職者たちに理解と力を与えてくださるように、また、過激な意見の持ち主たちが今日私たち正教会の人々に課している、不名誉で不快なあだ名や、ほとんど占拠者たちにある種の教唆をしたと非難するようなことがないように、このようなすべての汚点が彼らの魂を汚すことがないように。私たちは皆、一つの聖なる普遍的な使徒教会、すなわちモスクワとキエフにあるのと同じ教会、私たちの地元の教会、殉教者、告白者に属していることを忘れてはならない。私たちの民族の霊的一致を破壊しようとする、教会とは異質な勢力のいかなる外圧や努力にかかわらず、私たち全員が一致を保つことができるよう、神はお与えください。誰かが恐れから総主教の記念を拒否するのは、もちろん弱さの表れです。私はそれを不快には思いません。しかし、些細なことで真理から逸脱することは、霊的生活にとって危険なことなのです。今日は恐ろしいので総主教のために祈りませんが、明日は誰かがもっと要求するかもしれません。

神よ、ウクライナの地にある私たちの教会、祝福されたオヌフリー大主教、すべての主教座をお救いください。私たちは、正教の信仰と正教会が、現在起こっている政治的プロセスによっていかなる損害も被ることはないと信じています。神が私たちの教会を守り、私たちの国民を強め、私たちすべてのロシア正教徒を助けてくださいますように。繰り返しになりますが、私が「ロシア人」と言ったのは、『原初年代記』に登場する「ロシアの地はどこから来たのか」という言葉のことです。ウクライナに、ベラルーシに、私たちの国ロシアに住むすべての人々のために祈ります。正教の勝利の日であるこの日、主が、私たちが信仰の一致、精神の一致を保つことができるように、そして、私たちには一人の聖人、一つの霊的伝統、しばしば共通の霊的父祖、修道士がいること、すなわち、神の民が一つであることを念頭に置いて、私たちが信仰の一致、精神の一致を保つことができるように、特別に祈ります。悲しみと嘆きは過ぎ去るだろうが、この悲しみと嘆きが私たちの内なる霊的強さを弱めないことが非常に重要である。もし私たちが耐えるならば、現在ロシア、ウクライナ、ベラルーシを含む私たちのロシアの地と、地球上のほぼ全域のさまざまな州に教会員が住む私たちの教会は守られるでしょう。そして、私たちが四旬節の最初の日曜日に記念する正教会の守護者たちの純粋な信仰を守るならば、主は私たちとともにいてくださると信じます。アーメン。

モスクワ・全ロシア総主教庁報道部


訳注


注1.2018年に独立したキーウ総主教庁系の正教会とモスクワ総主教庁系の正教会は併存しているので、そのような事態は存在しない。

注2.ウクライナ最高議会はモスクワ総主教庁系の教会に対してウクライナ正教会と名乗る代わりに、ロシア正教会と名乗ることを求める法律を採択した。だが、モスクワ総主教庁側が憲法裁判に信教の自由の侵害であるとし、裁判所はその訴えを認める判決を下している。

注3.実際は政府から強制されていると云うよりも、軍事侵攻への抗議で取り止めているのが実態である

注4.新約聖書のヨハネによる福音書の該当箇所では、イエスが十字架で処刑されたあと、処刑を支持したユダヤ人たちからの制裁を恐れて弟子の一人のヨセフが身分を隠して処刑の決定を下したローマの総督であるピラトに遺体の引取をした。聖書では特に悪いことだと述べていない。むしろ、スムーズに葬儀ができたことだけが記されている。と云うよりも、不用意に「ユダヤ人」と云う言葉を使っているせいでエスノセントリズムを煽っているようにも読める。

注5.新約聖書のルカによる福音書の該当箇所のその後の部分では「どんな召使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじているか、どちらかである。あなたがたは神と富とに仕えることはできない。」(ルカ16︰13)となっている。ウクライナ政府に忠誠を誓わず、自分に従えか?犬笛みたいな箇所となっている。


最近、熱いですね。