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第8章 『「言葉が殺される国」で起きている残酷な真実』


楊逸/劉燕子『「言葉が殺される国」で起きている残酷な真実』(ビジネス社、2021)の書評文


 同書は、中国出身の作家の楊逸さんと文学者の劉燕子さんの対談で、日本人が盲点として気づかない点を語り合っています。
 安冨さんは同書の書評を書かれましたが、なぜ同書に注目したのか、私なりに調べてみました。
 そのさい、中国経済が専門の梶谷懐さんの著作『日本と中国、「脱近代」への誘惑』『幸福な監視国家・中国』を参照しました。楊さんも劉さんも中国人としての視点で語っているので、その視点は何なのかを知るうえで参考になりました。他に、2015年の安保法制時に行なわれた講演も参照しました。


 同書では、中国共産党への痛烈な批判とともに、日本の左派リベラル言論人への批判が語られています。
 その点を少し解説しますと、冷戦期の左派ー特に70年代ーに顕著だったのですが、中国の毛沢東にかなり強い共感を持っていました。例えば、鶴見俊輔の盟友だった竹内好は毛沢東にそうとう入れ込み、『原発危機と「東大話法」』で紹介された高木仁三郎も毛沢東に影響を受けていました。理由は、戦後の左派はかつて日本が行なった中国侵略への反省とともに、自由な民主主義社会の青写真を社会主義国に求めていました。竹内が典型的だったのですが、民主主義と毛沢東への共感は一致していると考えられていました。中国共産党の公式の見解では、都市部の富裕層ではなく、貧しい農民から支持を受けて政権を取ったとされていましたので、「貧しい出自でも功名を上げることができる」と云う戦後民主主義の価値観と重なり合うところがありました。70年代は高度成長期まっただ中でしたが、当時の現役世代は戦前・戦中の貧困や苦労を経験しており、急速に豊かになる社会にある種の戸惑いを感じていました。特に、左派の言論人は「日本は経済的に豊かになったが、本当にこれで良いのか」と云う疑問を抱いている人が一定数いました。そのさい、日本の現状や資本主義への批判として毛沢東の思想がかなり参照されていました。


 もっとも、それはかなり美化された中国への認識ではないか、と云う批判が保守系言論人からかなり前から発せられています。
 例えば、ジャーナリストで山本七平の評伝を執筆した稲垣武は『「悪魔祓い」の戦後史』の中で、当時の左派言論人が社会主義や毛沢東への極端に美化したともとれる認識を問題視しています。稲垣は共産党政府の宣伝にまんまと乗せられた言論人や文化人は社会主義を崇拝するあまり、社会主義国内で起こった現実の問題をみていないのではないか、と批判しています。

 ただ、そう云う左派と右派の対立から、あまりよろしくない状況が生じています。
 同書の中で、楊さんや劉さんが保守系の出版社や言論人との共著を出したさいに、左派リベラル系の言論人から批判を受けたことに戸惑いを覚えたことを述べています。
 梶谷さんの『日本と中国、「脱近代」への誘惑』の中で指摘されていますが、中国のマイノリティであるウイグル人やチベット人や近代的な立憲主義や民主主義を唱える人たちは、思想的には真逆にみえる日本の右派や保守と結びつきやすい傾向にあります。理由は、さきほど述べていた冷戦期の社会主義崇拝の尾が引いているのもありますが、同時に戦後の左派やリベラルは世界各国で戦争をくり返すアメリカや対米追随を行なってきた自民党への反発が強く、各国固有の理論を尊重しようと云う発想が強かったとも云えます。要するに、「人権」や「自由」と云った普遍的とされる価値観は重要だが、「人権」や「自由」を侵害する国ー例えば、中国のような国ーに直接介入するのは及び腰だったとも云えます。「リベラル」と云う言葉の原義は、「自分と異なる他者への寛容」なのですが、近代的な理念を共有していない国に「寛容」になろうとすると、どうしてもその国で起きている人権侵害や少数者への迫害に目をつむりがちになっていたとも云えます。
 一方で、日本の右派は戦前からのアジア主義を掲げていました。アジア主義は、西洋列強によってアジア各国で迫害されている人たちと日本が連帯をすることを訴えていました。しかし、戦中は「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」などを打ち出し、アジアへの侵略を正当化するようになります。日本の右派からすれば、現在の中国は戦前の西洋列強のような「敵」に映り、そこで迫害されているマイノリティや反体制派知識人は共闘すべき相手になります。もっとも、それは同床異夢ではないかと云う指摘があります。
 劉さんは以前、ジャーナリストの安田峰俊さんとの対談で、日本特有の右派/左派の対立に意図せずに巻き込まれることで、自分の云いたいことが云えない状況にあるのに戸惑いがあることを述べています。そのさい、安田さんは日本の右派が劉さんのようなリベラルな言論人に近づくのは「敵の敵は味方」と云う場当たり的な発想が根幹にあるのではないか、と指摘しています。


 安冨さんがなぜ同書の書評を書いたのかを考えたとき、同書の内容に共感したのもあると思いますが、もうひとつの意図としては、日本のリベラルが中国のリベラルな知識人となかなか連帯できず、本来なら相容れないはずの右派と結びつかざるを得なかった苦い歴史を踏まえると、かなり戦略的とも云えます。安冨さん風に云えば、右派も左派も自分の「立場」に固執するあまり、本当に困っている弱者の声に耳を傾けられなかったことへの反省ともとれます。

 同時に、安冨さんは同書が著者たちの意図を超えて「現代社会が普遍的にもつ陰湿な暴力の構造」を論じている、と評価しているのは理由があります。それは近年の社会学的な研究では、日本や欧米諸国のような自由主義国と中国のような社会主義国家は一見すると異なる社会にみえて、本質では同じではないかと云う指摘がかなりあるからです。
 例えば、経済学者のブランコ・ミラノヴィッチの『資本主義だけ残った』では、アメリカも中国も同じ資本主義国家ではないか、と指摘しています。異なるのは政治体制のあり方がアメリカでは「リベラル能力資本主義」で、中国では「政治的資本主義」と云う差で、本質的にはどちらもグローバルな資本主義の上にあり、人間の欲望を刺激し、格差と腐敗を生じさせると述べています。


 該当書籍の中で、中国の人民は飼いならされた「ブタ」なのではないかと指摘しています。私はこの比喩は日本でも当てはまるのではないかと思います。日本で似たようなことを云っているのが宮台真司さんなのではないかと思います。宮台さんは現在の日本は「クズ」があふれていると述べています。宮台さんの定義によれば「クズ」とは、「言葉の自動機械」「損得マシーン」「法の奴隷」を指します。

 宮台さんの述べている「クズ」は社会学者のマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の末尾にしるされた「精神なき専門人」「心情なき享楽人」の現代版と云えます。現代社会では「リベラル能力的」であるにしろ、「政治的」であるにしろ、人間性を喪失させるのは変わらないと云えます。
 また梶谷さんとジャーナリストの高口康太さんの共著『幸福な監視国家・中国』では、中国で起きていることはジョージ・オーウェルの『1984』よりもオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』に近いのではないか、と指摘しています。オーウェルの小説では、一党独裁的な恐怖政治による窮屈な監視社会を描いていますが、ハクスリーの作品では人々の欲望を叶えながらもシステムによって統制され、人間性を喪失する姿を描いています。


 つまり、中国では単に強権政治が行なわれているのではなく、人々の欲望を叶えながら、支配が行なわれていると云えます。同書の中で指摘されているのは、日本でもテクノロジーに基づいた利便性を追求すれば、監視社会に近づくのではないか、と指摘しています。

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/08/post-12789.php

 該当書籍では、経済的な功利主義を追求することで、結果的に「ブタ」として飼いならされてしまうのではないか、と指摘しているのとも重なります。

 同書の価値は文学的な感性によって、現代社会の抱える問題を指摘してみせたことで、それは安冨さんが書評で述べているように、著者二人の意図を超えて、日本と中国は本質的にはよく似ているのではないかと云うのは、近年の社会科学の研究成果と重なる結論を提示したと云えるかもしれません。



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