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第11章 『れいわ一揆 製作ノート』


『れいわ一揆 制作ノート』(皓星社、2020)の書評文


 該当書籍は、単に安冨歩さんやれいわ新選組の本とは云えない内容となっています。映画「れいわ一揆」もそうなのですが、非常に入り組んだ構造となっています。本書の前半の頁は、山本太郎さんを除く2019年の参院選に立候補した人たちの生インタビューが掲載されています。読んでいて気づくのは、一人ひとり背負っている背景がまったく異なると云うことです。当然、話している内容は各人バラバラで、唯一の共通点は、参院選直前に山本太郎さんから声かけられた、と云うだけです。それぐらいバラバラな人たちであることがわかります。
 もっとも、だからこそ、れいわ新選組は注目を集めたと云えます。もし、これが既存の政治の枠組みでしたら、「憲法は改憲か護憲」「靖国神社参拝するかしないか」「歴史認識問題ではどうするか」「夫婦別姓に賛成か反対か」「財政をどうするか」「年金医療福祉制度はどうするか」「再配分をするか市場に任せるか」と云った何十年も議論された話が出てくると思います。しかし、本書のインタビューではそのような話は出てきません。ある意味では、今まで既成の政治的枠組みからこぼれ落ちた人たちの声が可視化されたと云えます。
 本書を読んで気づいたことですが、私はれいわ新選組の候補者が具体的にどう云う人たちで、どう云う人生経験をたどり、どう云うことを訴えていたのかを知りました。もちろん、2019年の参院選当時の記者会見は大西つねきさん以外は全員みたのですが、その後は山本太郎さんにばかり注目していました。安冨さんのことは去年から具体的に知りました。私が読んだ印象では、候補者一人ひとりを詳しく知るには、とても僅かな選挙期間中では不可能です。それぐらい濃い内容が話されています。安冨さんのインタビューはある程度著作を読んでいるので、理解ができるのですが、他の候補者たちの著作や思想は充分に調べていないので、まだインタビューで答えている言葉の真意はわからないところがあります。もちろん、インタビューですから、本人たちはなるべくわかるように努力して答えているのですが、より深く理解しようと考えると、物足りないと感じてしまいます。
 例えば、安冨さんのインタビューで、豊橋で演説したさいのくだりに、「依存先の増加っていう感覚を得られた」(93頁)と云う発言をしていますが、この言葉は安冨さんの『生きる技法』を事前に読んでいれば理解できますが、本書だけでは「あたしの論理」と云うことしかわかりません。たぶん、他のメンバーの発言も本人の著作や今までの活動を調べないと深く理解できない箇所が多いと思います。
 そこで、私が思ったことは、現代の社会で私たちが人間をみるときは、その人を細切れにしてみざる得ないと云うことです。具体的に云うならば、その人がトータルでどのような人間かと云うよりも一面だけ切り取ったほうが理解するのが楽と云うわけです。例えば、テレビのニュースが典型的で、流れてくるニュースはほぼすべて加工されているのは云うまでもありません。一つ一つの事件の背景を丁寧に説明するには、膨大な量の手間と時間がかかります。それを決められた時間内で伝えようとすると、何らかのかたちで加工しなくてなりません。山本太郎さんがれいわ新選組を旗揚げした経緯や彼が今までどのような経歴を歩んできたのかを伝えるのは不可能と云えます。それは別に、れいわ新選組や山本太郎さんに悪意があると云うよりもニュースの構造自体がそうなっているわけで、政権与党の自民党や公明党に関してもニュースをみるだけでは、たぶんさっぱりわからないと云えます。あるいは、安倍晋三さんなどの与党の政治家がどんな人物なのかを知るには、ニュースはほとんど役に立たないと云えます。
 しかし、多くの人がニュースで情報を得ているのは、生の膨大な量の情報を精査することが大変だからです。野口さまは今まで、安冨さんの思想や人柄を知りたく、いろいろな著作や発言を読み、言動をチェックしてきたと思いますが、二三日では不可能だったと思います。私も安冨さんの思想を知りたく、本人の著作以外にも影響を受けたと思われる書籍も手を出しましたが、それだけで膨大です。安冨さん一人だけでも手間と時間がかかるわけですから、山本さんを含めた他のメンバーたち全員を知り、さらに政権与党の自民党の政治家たちを調べようとすれば、パンクしそうです。ちなみに、映画にも出演していた三原じゅん子さんに関しては、政治学者の中島岳志さんがYoutube番組「ファイヤーラジオ」の中で、三原の右派的な思想とその背景に複雑な生い立ちについて言及しています。これだけでもかなり複雑です。

 
 映画と本書が伝えようとしたのは、直接的には2019年の参院選でのれいわ新選組をめぐる熱狂と云えますが、さらに深く踏み込んでいくならば、生の人間の姿と云えます。それは、監督の原一男さんのドキュメンタリー作品は、生の人間に肉薄しようとしてきたからです。「さようなら、CP」にしろ「極私的エロス」にしろ「ゆきゆきて、神軍」にしろ「全身小説家」にしろ「ニッポン国VS泉南石綿村」にしろ、登場人物たちに長期間密着して撮影しており、どう云う人なのかがわかるような内容となっています。


 例えば、「全身小説家」の主人公の井上光晴は複数の女性と関係を持っていたことが映像をみるとわかり、先日亡くなった瀬戸内寂聴とはとりわけ親密で、ガンで入院中の井上を見舞ったり、医者を紹介したり、井上が亡くなると弔事をよむ場面が映し出されています。なお、原さんは生前の井上が自身の出生に嘘をついていると感じ、亡くなったあと、実際の井上の生い立ちを追求しています。撮影中は意識していなかったようですが、映像から井上と寂聴さんが男女の関係にあったことを映画にも登場する作家の埴谷雄高に指摘されたそうです。井上も嘘をついているが、寂聴さんも堂々と嘘をついている。法衣をまとい、葬儀の場で、井上と自分はセックス抜きの男女の仲だった、と大勢の前で述べていたのは最大の嘘だと云うことです。


 私は「ゆきゆきて、神軍」と「全身小説家」の「制作ノート」を読みましたが、本書よりも頁は少ないのですが、その分、原さんの体験談や撮影秘話がしるされています。それは、原さんの映画の特徴は長時間相手と密着し、その人物がどんな人なのかを徹底して描き出そうとしているからです。だからこそ、映し出されている映像は大変濃くて、長時間の編集が要るわけです。原さんは半世紀ほど映画監督をしていますが、作品数が少ないのはそう云う理由があるわけです。
 しかし、今回の「れいわ一揆」はわずかな期間で、監督も詳しく知らない人たちの熱狂を描いているわけですから、情報の編集はあまりなく、極めて生の状態と云えます。それが、本書にも現れています。本書の前半が候補者たちの生のインタビューに割かれているのは、そう云う理由があると思います。人間の編集されていない生の声そのものを収録している、と云えます。「あとがき」で原さんは、同業者のドキュメンタリーの製作者から安冨さんや他の候補者たちのこれまでの人生や生活を描いたほうが、候補者たちの言葉の意味がわかりやかったのではないか、と指摘されたことを触れています。確かに、そのほうが映画の内容としてはわかりやすく、原さんの今までの作品もそのように描いてきました。しかし、それではこのような映画の仕上がりにはならなかったと思います。むしろ、原さんが安冨さんや山本さんや他の候補者たちと親密な交流が事前にあったら、このような作品にならなかったと思います。それこそ、「ゆきゆきて、神軍」の奥崎謙三のように被写体が犯罪を犯して刑務所に入るところまで付き合わないと、相手そのものを描けないと云えます。原さんも安冨さんもお互いのことを深く知らずに、手探りな状態だった関係だったからこその作品なのだと云えます。
 そして、それは現在の私たちの人間関係の大半が出会う相手のことをよくわからない状態で接しているからではないでしょうか。例えば、仙台のような都市部で暮らしていれば、特段に努力をしなければ、出会う相手のことを知らないままで薄い関係を作ることになります。私は小学校から大学まで地元で過ごしましたが、同級生たちが現在どうしているのか知りませんし、連絡先も知りません。学校自体が嫌いで、同窓会に一度も足を運んだことがないから、と云えますが、私が友人をあまり積極的に作らなかった、そう云う関係を結ぶことをあまり意識していなかったことにあると云えます。学校に限らず、近所のコンビニやスーパーで働いている人のことはわかりません。安冨さんがいろいろなところで述べていますが、現代人は貨幣による薄い人間関係しか築けなくなり、相手がどんな人なのかに関心を払わなくなった、と云えます。
 私は「れいわ一揆」が訴えようとしているのは、「知らない相手のこと」をどこまで知ろうと思えるのか、と云うことではないか、と思います。知らない人を知ろうとするのは、大変です。だからこそ、現代ではいろいろな枠に人間を当てはめて、理解しているフリをしています。学校なら生徒と教師、コンビニやスーパーなら客と店員、企業なら経営者と従業員、家族なら夫婦や親子、政治的イデオロギーなら保守やリベラル、と云った具合にです。もちろん、すべての枠を取り払うのは不可能ですし、出会う人全員をキッチリ理解することはできません。ただ、枠だけでは人間を理解できず、生きていけないのも真理と云えます。考えてみると、短い期間で社会の舵取りを担う政治家を選挙で選ぶのは、難しいことです。ただでさえ、自分の周りに住んでいる人のことがわからないのに、その上、相手の主張を知った上で、投票するのは難しいことです。原さんは、候補者の言葉を伝えたかった、と語っていますが、言葉だけでどこまで知らない相手のことを知ろうと思えるのかが、同作がもっとも訴えたかったことではないかと思います。だからこそ、みる人を選ぶ映画でもあると思います。
 私は同作の中でもっとも印象深いシーンは、安冨さんが堺市の堺東駅前で自身の生い立ちを語りながら、聴衆と共に涙を流す場面(337-340頁)でしたが、安冨さんと堺の人たちが共に涙を流せたのは、かつてあった風景と中学校の校舎について想いをはせられたからだと云えます。現代の日本において、実はほとんどの人は同じ景色をみてはいません。社会学者の小熊英二さんは、日本のアニメが学校ばかりを描いているのは、都市部でも地方でも、正社員でも非正規雇用でも自営業でも学校には共通して通っているからだ、と指摘し、30代を越えた大人の日常風景を描くと、あまりにもライフスタイルがバラバラだから共感を持たれづらいのではないか、と述べています。

 
 そう考えますと、安冨さんと堺の人たちが一緒に涙を流せたのは、大人になってしまえば、バラバラの人生を歩まなくてはならない日本の姿を現していると云えます。本書に収録されているインタビューの内容がバラバラなのは、そんな日本の縮図とも云えます。
 私は安冨さんの涙をみたあと、新海誠監督の「秒速5センチメートル」をみる目が変わりました。以前は、小熊さんの分析のように学校しか共通の場がなく、大人になると孤独になる現代日本を描いたと考えていましたが、安冨さんの主張を重ねると、大人は子ども時代に拘束されている、と云うことです。物語の主人公の貴樹は親の都合で東京から長野、種子島とあちこちを転勤します。そんな彼が唯一心を開ける相手は、明里と云う小学校の同級生でした。しかし、中学になると離れ離れになります。結局、貴樹は東京で就職しますが、人間関係を上手く築けず、女性と失恋し、会社を辞めて放心状態の日々を過ごします。そんなとき、彼は明里のことを思い出し、自分のそれまでの人生を反省し、涙を流します。彼は自分の過去をみつめ直すことで、何とか立ち直ります。

 
 新海誠さんは、日本を代表するアニメ監督で、作品の美しい映像が海外でも高く評価されていますが、物語の構造も上手くできている、と云えます。ちなみに、新海さんの作品の主人公は、ほとんどが10代の子どもです。安冨さんの「子どもを守ろう」と云う主張は、「秒速5センチメートル」の貴樹の煩悶の延長で考えると理解しやすいと感じ、だからこそ多くの人を引き付けるのではないかと思いました。「れいわ一揆」は、そんな安冨さんの主張を映像と云うかたちで残した、と云えます。




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