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私の取り柄は "行動力" ー 7月から横浜に帰ります。

私の取り柄は "行動力" ー 最近、何気ない会話の中で自分の口から出た言葉です。

何気ない会話でもないですが… 自分の今後の話をしていた時です。

前回のnoteでも書きましたが、昨年度は本当に怒涛というか、大変な1年間でした。複数のさまざまな要因が重なって、そのような状態になってしまいましたが、同時に自分の覚悟の甘さ、未熟さを感じた年でもありました。

そんな中でこの先どうするか。前職を退職してから仕事のない日はずっと情報収集し、考え続けました。

とはいえ行き着いた結論は、私の中で実は何年も前から出ていたものでした。

ただ単に、私はこれまでその結論に向き合う勇気がなかったのでした。

私がずっとやりたいと思っていたこと ー それは「武力を伴う争いとそれによって傷つく人のない世界、そして核の被害のない世界を実現する」ことです。

4年前に地域おこし協力隊に転職したときにも、今回と同じように自分は何がしたいのかを突き詰めて考えました。これは実はその時から変わらない思いです。

いきなり何の話?!と思う方もいるかもしれません。まるちゃんは岳温泉と安達太良山が大好きでPRしたり、企画するのが得意なんじゃないの?と。

それもそうだと思います。福島の良いところや物事の魅力を伝えることはめちゃくちゃ楽しいし、私も大好きな仕事です。協力隊時代のような仕事は「天職じゃないの?」と言われたこともあります。

でも楽しいだけが仕事なのだろうかと、この半年、考えれば考えるほど悩むようになりました。もちろん天職に就いても大変なことや楽しくない日々もあるでしょうが、私が想像している「楽しいだけではない仕事」は、それとはちょっと意味合いが違います。

地域おこしの仕事は地域貢献という面があるとはいえ、私にとってはあくまで純粋に「楽しい」要素が強い仕事です。地域を盛り上げるには楽しむことが不可欠だとこの4年間の経験からも思います。

でも、私が本当にやりたい仕事はこれなのか…?

前職を辞めてやむを得ずフリーランスになったとき、私は今までのような「楽しい仕事」では満足できないことを悟りました。

地域おこしの仕事も、日本が直面する都市一極集中や地域衰退の課題に取り組むという意味で、もちろん社会的な意義を感じていましたが、それ以上にもっと誰かの助けやサポートを必要としている人たちが世界にはまだいるのではないか…。学生時代から国際協力に興味があったこともあって、ごく自然にそう考えるようになっていきました。

そこで立ち返った私の原点は「武力を伴う争いとそれによって傷つく人のいない世界、そして核の被害のない世界を実現する」こと。そして、そのために自分は力を尽くしたいと改めて思ったのでした。

そんな訳で3月からはテロ・紛争を解決することを目指して活動する、NPO法人アクセプト・インターナショナルでプロボノ(社会人ボランティア)を始めました。まだ始めて数ヶ月ですが、真正面からテロ・紛争に向き合う代表の永井さんやスタッフの皆さんの姿勢に大変刺激を受けていますし、自分の勉強不足を痛感しながらも、やるべきことはこの方向で間違っていないのだろうと自信を持てるようになりました。

ちなみに「核の被害のない世界」と今書きましたが、福島に来るまではこれは「核兵器のない世界」でした。私は広島生まれで、幼い頃から原爆という存在が人よりも少し身近にあって、事あるごとに意識していたので、核兵器をなくしたいという思いが以前から強かったのです。

そんな思いを持っていながら、偶然にも福島に新卒で配属されたのは、もはや運命的だったと思います。

縁あって、当時まだ帰還困難区域だった富岡町出身の方のご自宅を2016年11月に見せていただいたことで、原発事故の被害を目の当たりにし、核兵器だけなく、原発事故の影響を含めた核の被害をなくすことを目指そう、まずは目の前で放射能の被害/風評被害に苦しむ福島のために何か出来ることをしよう!と思ったのが、地域おこし協力隊として福島に残った理由の1つでした。

その目的を果たすために、風評被害の払拭に向けたPRの取り組みや浜通りでのお仕事にも携わらせていただきながらも、一方でいつの間にか私は当初全く意識してなかったはずの「地域おこしの面白さ」にどっぷりハマっていきました。

人と人とが繋がり、新しいものが生まれる。
化学反応が起きることで人が、街が変わっていく。

地域の人を巻き込んで、ゼロイチを創る楽しさに途中からすっかり惚れ込み、最終的には場所づくりのプロジェクトまで立ち上げました。しかし途中で協力隊が終わってから本業としていた前職を退職することになり、稼ぎのメインを失ったことで自分が本当にやりたい仕事は何か?と考え直さざるを得なくなったのでした。

この頃はエネルギーを出すのが本当に難しく、突然の自分の迷いにプロジェクトを一緒に進めていたメンバーに迷惑もかけてしまい、人生うまくいかないものだなと… 初めて心から思いました。

こうして紆余曲折を経ながらも、何とか昨年度取り組んだ場所づくりプロジェクトは、たくさんの人の協力を得てBegin Againという名前で今年3月に何とか完成させることができました。イベントスペース&バーとして運営をしていくところです。

ただ、協力隊として活動を始めた当初から実は「いつかはここを出なきゃいけない」と思っていました。というより、こんなに長く二本松に住むことは私の中では全くの想定外でした。

福島のためにもなるし、情報発信やPRに興味があるからちょっとやってみよう、もし合っていたら1〜2年経験を積んで東京で転職しよう… そんな考えで始めた協力隊の仕事でしたが、蓋を開けてみればもう二本松での生活は5年目に突入していました。

取り柄の"行動力"を活かした結果なんだろうと思います。


プロジェクトも落ち着いた今年4月ごろから、自分のやりたいことに改めて向き合うために、少しずつ国際協力系の仕事をリサーチし始めました。でも、まだBegin Againのことも頭にありましたし、異業種への就職がこんなにすぐに決まるとは私自身も思っていませんでした。

たくさんの国際協力関係の求人がある中で、自分の目に留まったのは7月からの勤務先である、NPO法人ピースウィンズ・ジャパンのウクライナ事業担当の募集でした。

2月にロシアがウクライナに侵攻して以来、また新たな武力を伴う争いが始まってしまった… という絶望と、このまま何もしないでいてはいけないんじゃないかという思いを感じていました。

色んなNPO団体の活動を見たり、情報収集をする中でアフリカや中東を始めとする世界各地で紛争が続いていること、私たちの多くはそれを忘れて(最悪の場合には認識することもなく)過ごしていることを理解しました。

そんな中で今の世界で一番注目されているのがウクライナ危機であるのは間違いありませんが、だから飛びついたという訳ではありません。でも「武力を伴う争いとそれによって傷つく人をなくしたい」という思いを持っている私が今掴むべきチャンスなのかもしれないと思い、悩んだ末に確か締め切りの日に応募書類をメールで一か八か送りました。

それにしても、メーカー社員→地域おこし協力隊→デザイン会社→フリーランスなんていう経歴では一筋縄には国際協力業界には入れないだろうと思っていました。海外の大学院に行った方がいいかな、とか色々と悩みました。

でも研究したいことも明確にならない状態で大金を払って海外の院に行くのもどうかと思ったり、自分は勉強よりも現場での仕事が好きなのも分かっていたので、ダメもとで応募しました。

書類審査を通過してから、2回の面接とリファレンスチェック(推薦人のチェック)があったのですが、ここではかつてJICA二本松にいて、非常にお世話になっていた訓練所スタッフや当時の所長の皆さまのお力を借りれたこともあり、予想以上にトントン拍子に内定をいただいてしまった… というのがこの5月に起きたことです。

自分でもびっくりで嬉しい反面、やはり迷いました。

今決めていいのだろうか… まだ二本松でやり残したことも色々とあるんじゃないか。

でも、今を逃したらもう同じような形で人道支援に関わる国際NGOには入れないかもしれない… 今後のライフイベントを考えたら今と同じようにはチャレンジできなくなるかもしれない…。

先方からも出来るだけ早くジョインしてほしいと言われていたので、実はゆっくり周りの人に相談する時間もなく… 内定受諾の旨を伝えてから、周りに報告を始めました。

そしたら… バカみたいに寂しくて仕方なくなりました。

仕事が上手くいかなくて、もう福島や二本松を出たいと思っていた時期もあったのに、ここでの生活や人間関係、環境すべてが一気に愛おしく思えました。

大好きな安達太良山が日常の景色からなくなる…
みんなでワイワイ飲んでた日々もなくなる…
地域の人と他愛もないお話しをする日々もなくなる…
温泉にいつでも入れる日々もなくなる…

今でも二本松から引っ越したくないと心のどこかで思っている自分がいます。真面目に分身できるなら1人は二本松に置いていきたいです...。

それでも、私は前に進まなければなりません。

それは自分の成長のためでもあるし、自分が真に満足のいく人生を送るためでもあります。

私が二本松では満足できないと言いたい訳では決してありません。ここに引き続き住んで、日本の地域課題に向き合う道も実際に想像はできました。

でも、私はやっぱりもう一度世界を見たいし、よりグローバルな環境で地域での経験を活かして仕事をしてみたいという思いは移住した当初から結局変わりませんでした。

福島で得た経験、スキル、そして何よりも人との繋がり。

これは協力隊になる道を選んでいなければ絶対に得られなかった、私の人生における一番大きな財産です

とにかく行動しまくって、こんなに楽しくて充実した4年間を過ごさせていただき、その過程に関わってくれた皆さまに心より厚く御礼を申し上げます。

安達太良山のない日常が寂しいから、Begin Againでもまだやりたいことがたくさんあるから、また皆さんと他愛もないお話をしたいから… 絶対にまた帰ってきます。

二本松・岳温泉は本当に私の故郷、ホームです。

心地よい人たちとの楽しい時間、場所を自分から手放すってこんなに大変なことなんだなと... 実感しています。


という訳で大変長くなりましたが、タイトルの通り、私は7月から実家のある横浜に帰ります。

でもこれをお別れにしたくはありません。
私は「地域の風の人」でありたいと思っています。

いつもいる訳ではないけれど、風に乗ってときどきやってくる人。そんな関わり方もありなのではないかな...と思っています。

また見かけたら、お!まるちゃん!最近どう?ってぜひ声をかけてもらえたら嬉しいですし、東京に来ることがあればぜひ気軽に声をかけてください!

地域を離れても一緒に盛り上げることはできるんだ!ということを示せるくらいの存在になれるように、引き続きがんばります。


福島での皆さまとの出会いがなければ今の自分はありません。時に大変なことも含めて、大切なことをたくさん教えていただきました。

福島が大好きです。今まで本当にありがとうございました。

そして、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

2022.6.13  丸田 陽加里

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