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はじめて見た上司の素顔

入社してから3ヶ月、はじめて上司の口元を見た。

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職場は新宿駅から20分ほど歩いた、少し年季の入ったビルがひしめき合うところにある。

見上げると太陽の光で先端が見えないような、ここに何百、何千の人が動いているんだと不思議な感覚になるような、そんなビルとはかけ離れた3階建てのビルだ。

鮮やかな青と白が反射するガラスなどはなく、グレーともベージュとも言える曖昧な壁面をそなえ、落ち着きはらった様子で構えている。


そんな古参の堂々さを、同じく持ち合わせているのが上司の木上さんだ。
高校卒業後に入社してから二十数年間働き続けているベテラン中のベテランである。

入社時は、少し仏頂面で素っ気ない感じという印象であった(恐縮ながら)。
ただ休み明けに姿を見かけると腕が日に日に赤黒さを増していて、釣りが好きなのかなとか、車の運転焼けかなとか一方的に想像を膨らませていた。

そんな木上さんと新米の私が言葉を交わすのはほとんど1日一回だと言える。
退勤時の一度きりだ。

だからもちろん、マスクを外したところを目にすることがなかった。

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業務を終え、いつも通り定時に帰ろうとすると、と書きたいところだが今日は違う。
用事のため午後休暇をとっていたからだ。

お昼休憩と同時に仕事を切り上げ、2階にいる木上さんの元へ退勤の挨拶をしに向かった。


2階のドアを押し開けるとすぐ目にはいる応接間を横目に、デスクが整列する右奥の空間へ目をむける。
普段の退勤時刻ならいる営業の社員さんは出払っていた。

向かい合わせになったデスクの間を仕切るラップを二重したくらいのビニールを通して、こちらを正面に1人座る木上さんの少し歪んだ姿が透けて見えた。


今ではほとんど体の一部となっている、口元の白いものがないことは意識しなくても分かる。


なんだかドキドキするが、マスクのない状態であると互いが認識している瞬間の小恥ずかしさのようなものは何度か味わっているし、
相手の目が完全に口元に向いているのを感じるとあまりいい気分にはならないことは経験済みである。
目のあたりしか見ないことを胸に誓い、意識しないことを意識して話しかけた。

「木上さん、お疲れ様です。お先に失礼します。」

心に余裕を保った口調で挨拶をし、平然を装うというミッションに成功した。

けれど緊張していても視覚はちゃんと機能していたようで、今朝までの想像とは違った木上さんの口元が頭に再生される。


具体的に言うのは気が引けるため簡単にまとめるが、仏頂面だと思っていた口元はわずかに緩んでいた。
失礼が許されるならば愛くるしく、なんだかピンと張っていた糸が緩んだ。


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結果的に良い意味で(?)期待は裏切られ、必ずしも口調と口元は一致しないんだなとまた一つ勉強になった。
(よくいうツンデレとかもそうなのかな)

今後、日常生活で見知らぬだれかに理不尽な態度をとられることがあっても、
「マスクの下はニコニコさ」と乗り切る術を手に入れた気がする。

なんにせよマスクをしている状態で勝手に口元を作り上げない方がいいという話は何度か耳にしているし、多少だけれど後ろめたい気持ちにもなる。
引き続き、仮の顔を作らないという姿勢を崩さずアイコンタクトに励みたいと思う。

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