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自由子育て、自由教育

まずはなんでも夢中でやってみる。
もちろんしんどいこともある。
もちろん休憩しながらでいい。
自分が夢中になれることをする。
決して誰かにやらされてはいけない。
その瞬間、成果への欲求が
「自分の目標」と「誰かの期待」
の半分こっつになることがある。
誰かの期待に答えたいという
衝動は悪いことではない。
しかし、期待通りではなさそうな行動を
思い切って起こしにくくなる。
「怒られるんじゃないか」とか
思っているようでは最悪だ。
自らの思考と行動の制限は、
自らで操作できた方がいい。
なんでも自由に物事を進める。
独自の判断で展開を成す。
「自分はこうやって歩んでいくんだ」
と、誰かに決められず、自分で決めてみる。
それは自分にプレッシャーをかけるとか、
しんどいフレーズも含まれていそうだが、
物事の持つ意味は考えようだ。
「やってみなはれ」
を実現するために。

自らの判断でその道を歩む。
そうしたいけどできない人がいる。
判断を指示や期待に委ねすぎると、
次第に自分がわからなくなる。
人を目指しすぎる人もそうだ。
自分の意思が出てこないのだ。
それも、いざという時に。
自分は何を考えているのか、
自分の正直な気持ちを出せない。
「こうあるべきだ」
に慣れ過ぎてしまう。
「こうあるべきだ」に正解はないのにだ。

この甲と乙の性格の違いは、
受けた教育がもろに関わる。
親や教師に指示をされすぎると、
どうしても自発的にはなりにくい。
受動的欲求による行動に落ち着く。
失敗をしないように指示されてきたのは、
痛みを奪われているのと同じだ。
一見それは優しさに聞こえるが、
成長機会を奪うのと似ている。

提案、紹介、アドバイスをして、
あとは失敗も含めて末永く待ってみる。
自らで学ばせ、考えさせる。
解決できるのかどうかは後でいい。
そういう自由でいさせてもらった経験が
あるのか、ないのかで変わる。

ないなら、今から始めればいい。
自由でいれる環境を作り出す。
「ダメな自分」をさらけ出すことはお勧めだ。
周囲の評価は全て無視をする。
自分は立派な存在ではない。
どうせそう思われているんだ。
敢えてそうやって見せてるのだから。
期待に応える器を放棄する。
あなたの指示や期待には応えれない。
だから、自分で判断して動く。
わからない時は、自分で人に聞く。

受動的なのか能動的なのか。
誰も未来がわからない、
変化激しいこの現代に、
これから必要な要素とはなにか?