積み上げられた思い出

部屋に入った時に僕を待っていたのは、僕が今まで積み上げてきた「僕の歴史」たちだった。


5月の上旬、カナダから帰国し実家へ帰ってきた。できればすぐにでも一人暮らしをしたかったけれど資金も先立つものもないので、ここに身を寄せる他ない。僕の恋人ともそう遠くない距離なので(近くもないけど)、週に一回会うくらいには問題ない。ただ僕は自分の車を今持っていないので、恋人に来てもらうか、父親から軽トラを借りて会いにいくしかないのだけれど。

日本に帰ったら、何か新しい分野を勉強し直そうと思っていた。以前のような、自分が大学で情熱を注いだ専門を使いながらも、月給が20万円にもならない仕事をするのはもうウンザリだとすら思っていたし、その一方で、今までの経験を生かして自らビジネスを起こすよな気合も情熱も持ち合わせてはいなかった。ただただ、自然史の分野に戻ることに疲れていた。

きっとカナダにいる間に、自然史分野で活躍する人々を沢山見たからかもしれない。各国立公園には国が管轄している大勢のレンジャーがおり、ベストではないがそれなりの給料を貰いながら誇りを持って働いていた(し、就職の際には大学での専門性も問われる)し、公園の利用者(観光者)からも尊敬されていた。そもそも日本の環境省所属のレンジャーはほとんど現場にいいない。現場には、国から委託されたNGOやNPOが薄給で働いていて(自分がそうだったから)、それとは雲泥の差だった。

また、僕が働いていた場所は文字通り日本の端っこだったけれど、そこに戻って恋人と暮らすのは現実的ではなかった。昭和から時代が止まったような価値観の中で、僕はそこでゲイとして矢面に立つ気概なんてまるでなかった。

要するに、ただ僕はわがままだった。

実家に戻って自分の部屋に入った瞬間、そこには自分の歴史が詰まっていた。たくさんの登山道具、動植物の図鑑、専門書、論文集、写真集、雑誌、調査に使っていた野帳、学生時代からの日記の束などなど・・・。よく「得意なのというのは、それをする時に疲れずにやり続けられるもの」なんていうけれど、そういう意味では、これが僕の得意なものなんだなと、部屋を眺めながら思う。30歳にして、自分の分野を変えるというのは思ったよりもシンドイものらしいと、その「思い出」と化してしまう物を前に感慨に浸る。

ただ、僕の専攻した分野は「進化生態学」でもあった。「いかに生物が周りの環境に対応して変化を遂げてきたか」を調べる学問分野だった。僕も変化していけるだろうか。変化し続けて、何の得意分野もないような、中途半端な人間にならないだろうか。

何の決心もできないまま、わがままで何かに甘えている自分の弱さを感じる日々だ。