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蛾月

 今日はとにかく暑い日だった。日が高く登りきった時には、羽が軋んで一休みしていた木の幹から飛び立つことができなかった。
 ふと、何かが近くに寄ってくるのを感じたけれど、私は逃げることもできずただ踏みつけないでくれ、と願った。
 小さな影が私のいる木に吸い込まれると、ぼんやりと何かが見えた。人間の足かもしれない。いや、他の動物だろうか。捕まえられてしまうのか。このままもう殺されてしまうのか。なんてったって私は小さく、無力だ。

「うわっ。気持ちわるっ。」

 人間は私に向かってそういうとそのままどこかへ走り去ってしまった。安心したのも束の間、「気持ち悪い」という言葉が耳に残る。
 私の目は、ほとんど見えてない。だから自分がどんな姿をしているのか、私自身はわからない。その代わりに聞くことの感覚は残っている。風を感じることだってできるし、何かが近づいてくる音も聞こえる。
 私にだって聞こえるものはあるのだ。傷付く心だって、ちゃあんとここにある。

 私のことを「美しい」と呼ぶ人はいない。それだけでもう、自分がどんな醜い生き物なのかはわかっている。わかっているつもりだが、やはり悲しく思う。

 日が傾いてきて少しずつ仲間の声が増えてくる。私たちを探す声があっちそっちに歌うように流れてくる。私も羽を一度はばたき、飛ぶ準備を始める。
 完全に日が落ちればもうこんなに休んでいる暇はない。違うとわかっていても、私たちは飛び続けなければならない。
 町に一つずつ明かりが灯るのに比例して仲間の声がより大きくなる。ゆっくり太陽が沈み、白んだ月が顔を見せはじめて、私はようやく月に向かうように大きく羽を動かした。

 私たちにとって光は進む方向だ。明るい方へ、明るい方へと、それは月ではないのに体は迷わず進み続ける。飛ぶのが下手な仲間が地面に落ちていく音が聞こえても、大きな箱のような乗り物に磨り潰される音が聞こえても、私たちは光に向かって飛び続ける。

 飛びはじめてからしばらく経ってから私は右の羽に違和感を感じた。昼間も軋んだ感覚があったが、それだけじゃない。体がうまく上がらない。このままだと地面についてしまう。大きく羽ばたいても、体はほんの少し浮き上がるだけだ。私を呼ぶ仲間の声が聞こえる。でもよく見えないんだ。どこにいるのか、本当にそんな仲間がいるのか。私はなんなのだろう。ただの「醜い」生き物なのだろうか。

 もう駄目だと、羽を動かすのをやめた。その瞬間地面に体が叩きつけられ、衝撃で右の羽に亀裂が入り、先の部分が欠け落ちた。私たちは痛みを感じない。感じれなくてもわかる。きっともう、飛ぶことはできない。

 それでも、私は飛び続けなければならない。動かそうとすれば羽は動く。けれど地面から体が浮き上がることはできない。このまま、死ぬんだ。そう思った瞬間羽を動かすのも億劫になった。仲間は諦めたようにまた光に向かって飛びはじめた。パートナーを声の限りに探して、未来の為の種を残していく。
 そんな当たり前のこともできないまま、私は落ちてしまったのか。

 そんな中ゆっくり、私に近付いてくる音が聞こえる。この規則的で平らな音は人間の足音だろう。踏み潰されるしかない。でもどうか、蔑まないで欲しい。お願いだ。例え私たちがどんなに醜くてもあなた達と同じようにちゃんと生きているのだから。

「あれ?飛べないのかな」

その声は思ったよりも優しかった。

「あー、羽が傷ついてるのか。……このままだと轢かれちゃうよな。」

 体がふわりと浮かんだ。温かい感覚が体を優しく包んで、降ろされたのは大きな樹の下に集められた柔らかい木の葉の上だった。

「ここなら大丈夫かな。綺麗な羽がかわいそうに。」

 こんな想いは初めてだったんだ。だから嬉しいなんて感情もわからなくて。初めてだったんだ。こんなにも優しい気持ちになれたのは。

「ゆっくり休んで」

 あぁ、行ってしまう。もうきっと二度と会うことはできないだろう。私はもう、あなたのところまで飛んで行くことはできない。万が一あなたがまたきてくれたとしても、その頃にはきっと私はもう死んでいるはずだ。
 でも、怖くないんだ。本当に。本当だよ。あなたが作ってくれたこの優しい場所なら、もう飛べなくても命がここで尽きても、それはもう怖くないんだ。ただひとつだけあるとするならば、あなたにもう会えないということだけが、ひたすらに恐ろしく感じるんだ。

 木の葉に隠れて月の光は感じることができない。ゆっくり離れて行く足音と同じペースで私の命が終わりに向かって行くのを感じる。 
 私は今まで生まれ変わったら、蝶になりたいと思っていた。美しい羽で鮮やかに、それでいて堂々と。自由に昼の青い空を飛んでみたいと思っていた。
 でも今は、今はもう違う。どうかまた同じ姿でもう一度あなたに会いたい。みんなに気持ち悪いと言われてもいい。あなたが綺麗と褒めてくれたから。

 風が優しく吹いて、命がゆりかごのように揺れる。まだ温かいあなたの体温をしっかり抱きしめながら、最後の一滴が静かに落ちた。

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