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これまでの一生

①幼少期~博士課程(23歳)

北海道の超田舎町に生まれる。生まれたときは、とにかく泣きやまない変な赤ちゃんだった。一日20時間以上泣いていたらしいです。

教育ママに育てられたので習い事を色々しました。空手、そろばん、書道、水泳、スキー、進研ゼミなどをやりつつ、小中高と平凡に過ごしました。

ただ、今思い返せば調子にのって人を怒らせることがとても多かったと感じる。双極症の前触れだったと思います。

やりたいこともなく、とりあえず大学に進学しました。学部は工学部でした。塾講師、家庭教師、肉体労働などのアルバイトを経験して勉強もほどほどに頑張った。平凡な毎日が過ぎ4年生になり研究室に配属された。研究は楽しかった。そのまま大学院に進学してある程度成果も出した。

その後研究の道を歩むことを決心して、他の大学の博士課程に進んだ。双極症と真向から向き合うことになったのはこの時からだ。

入学したてのある日、猛烈な不安が到来した。頭がまわらない。考えがまとまらない。毎日ミスを連発した。教授からは厳しい叱責を受けた。後輩の前で「まるばつは博士課程でありながら○○もできていない!恥ずべきだ!」等のようなお叱りを毎日頂いた。僕の薄っぺらい自信がガラガラと崩れていった。

頭にさらに雲がかかった。食欲もなくやつれた。この頃からアルコールが手放せなくなった。アルコールを飲み不安を紛らわし寝る。起きてまたアルコールを飲む生活が続いた。動く気力がないのだが、じっと寝ているのは辛かったので、一日中布団の毛玉を一つ一つとるという地獄の作業を毎日延々と繰り返していた。何か月やったのだろうか、今思えばこの時期が人生で一番辛い時期だった気がする。

一日のサイクル:朝二日酔い+不安→酒→寝る

ある日、大学への必要書類を提出するために、ボールペンを手にして名前を書こうとした。その時に人生で一番の衝撃を受けた。

自分の名前にフリガナがふれなかった。

自分に何が起きているのかさっぱりわからなかった。困惑した。自分の名前が書けない博士課程は世界で自分だけだと絶望した。この世に別れを告げなければならないと決心し、なぜか頭を丸坊主にした後に行方不明になった。

数週間後、2000kmほど離れた町でふらついていたところを警察につかまって警察署に連行された。家族に電話された。強がった。「何も問題ない、旅行みたいなものなんだ」と。頭に雲がかかった状態を隠し、さも平然とした様子で「自分で帰れます」と伝えて帰宅した。僕の家に、いるはずのない母と祖母がいた。心配そうな顔をしていて優しかった記憶がある。何を話したか覚えていないが、博士課程にこのまま進むのは難しいので働いた方がいいという結論になった。今思えば、博士課程が難しいのに働けるとどうして思ったのだろうか?口が悪くなってしまうが、体調をおかしくして実家に帰るのは親として世間体が悪かったのもあったと思う。

それから就職活動をした。通常は新卒で就職するため「卒業見込み」で就活するが、僕の場合は「中退見込み」であった。頭が全く働かない中の就活であったが、幸運にも一社から内定を頂けた。

この内定をきっかけに躁転した。

大きな変化として

・寝なくなった。一日2~3時間寝なくてもスッキリ

・物欲が爆発した。手持ちの資金が底をつくまで買い物した

・多弁になった。とにかくだまっていられない

・他人の発言にイライラした。不満は怒りとしてぶつけた

・無敵感が体を包んだ。スーパーサイヤ人だ(笑)

典型的な躁の状態となった。幸運にも人生の崩壊まではいかなかった。

現在の妻と付き合い始めたのもこの頃だ。今思えば、“躁の状態だから声をかけた”とも思えるので複雑だ。その点は申し訳ないと思うが、愛していたのに偽りはない。南と北の遠距離恋愛だったが色々なところに旅行に出かけた。幸せだった。

そんなこんなで3月になり、就職のために東京に引っ越しとなった。引っ越し先は東京の1Kの独身寮だった。

②就職、結婚、双極症の自覚

躁状態はまだ継続、新人研修ではテンション激高で、頭がイッテルキャラで有名になった。その勢いのまま彼女にプロポーズしOKをもらった。その後は仕事や引っ越し作業でセカセカとしていた。引っ越し作業を終えた段階で婚姻届けを提出して結婚した。

そこから今度は鬱に転じる。

博士課程の時と同じく、頭が回らない。とにかく仕事ができない。昼ご飯も食べられない。買い物にも行けない。仕事では上司に毎日のように怒鳴られた。半日、フロア中に響き渡るくらいの怒鳴り声で怒られたこともある。脳みそが割れるかと思った。指摘を頭では記憶できなかったのでメモをとっていたが「そのくらい覚えろやバカが!」と言われた。でも覚えられなかったのでまた同じミスをして怒鳴られた。無限ループだった。でも会社は休まず行き続けた。妻に経済的苦労はかけないという精神力一点のみで働き続けた。

辛さを紛らわすために再びアルコールが手放せなくなったのはこの時期からだ。毎日毎日飲んでいた。安く酔える酒としてSTRONG ZEROが相棒だった。毎日5本は飲んでいた。500円で死ぬほど酔えるのだ、恐ろしい。

アルコールの影響で手が震えて字が書けなくなった。それでもごまかしながら働いた。同僚は一流大学出の博士を含めた優秀な人たちばかりでいつも劣等感を感じていた。自分が博士課程を中退していることを負い目に感じていた。苦しかった。でも、妻に弱音は絶対吐かないと決めていた。今思い返せば、相談しておけばよかったと強く思う。

数年の鬱後、今度は躁転した、症状は前に躁転した時とほぼ同じだ。金遣いが荒く、貯金は0円となり、クレジットカードは凍結され、専業主婦の妻には日雇いのアルバイトをさせてしまった。

その時でも僕は楽しく笑っていたのだ。本当恐ろしい病気だ。

転機は親に電話したことだ。明らかに異常な僕の言動から双極症を疑い、双極症治療で世界的に有名な病院に連れていかれた。

担当の先生はとても温和で、優しい、素晴らしい方だった。

双極症で間違いないと診断された。事前に双極症についてよく調べていたので僕の中では納得した。いらだちは無かった。むしろ楽になった。

③闘病、妊活、息子の誕生

その後は薬の調整と、アルコール依存からの脱出が課題だった。

ほとんどが鬱期で毎日のアルコール習慣はなかなか変わらなかった。妻は献身的に支えてくれた。本当に感謝している。ただ、日に日に妻が精神的に疲弊していき、診療内科通いとなった。妻は僕と自分の人生が前に進んでいないことに悩んでいた。

僕も、悩んだ。本当に悩んだ。

妻も僕も本当は子供が欲しかったのだ。でも自分たちが不安定な今、子供を作っても養うことができるのか不安だった。話合い、話合い、話合い、とうとう妊活することになった。一か月後無事に妻は妊娠した。うれしかった。本当に。でも嬉しさの10倍の不安が襲ってきた。妊娠時期はプレッシャーで100%鬱だった。毎日のアルコールはやめるどころか日に日に増えていった。

予定日より1か月早く、子供が生まれた。出てきたらすぐ大声で泣いた。僕も泣いた。手前味噌になってしまうが、信じられないくらいかわいい赤ちゃんだった。

④育児と断酒と寛解(双極症克服)

育児は壮絶だった。当然だが3時間おきに子供が泣くので睡眠がとれない。妻の体力も精神状態も限界。できる限りのサポートをしたつもりだったけど限界が来ていた。毎晩のアルコールは継続していた。

ある日の夜、晩酌している時に妻から

「お風呂に入るから寝ている子供見ていて」

と言われたので、ベッドの横で見ていた。この時期の子供は寝返りをうって呼吸できなくなるから注意が必要だった。ここでやってはいけない失敗をした。

寝てしまった。

妻が戻ってきた。

子供はうつ伏せの状態で大声で泣いていた。窒息の恐れがあった。

妻の怒りが爆発した。

人間はここまで怒るのかと思うほどの様相だった。当たり前だ。

自分が情けなくなった。そしてここが断酒の機会となった。4月9日だった。死んで(4)苦やむべき(9)日として記憶している。それまで星の数ほど断酒してきた僕だったけど、今回ばかりは本気でやろうと取り組んだ。

1~2週間は飲みたい衝動にかられたが精神力で耐えられた。子供と妻のためだ。その後は徐々に衝動が少なくなり、自然とアルコールがない生活が馴染んできた。断酒して2~3か月が経過したころ変化があった。気分が安定してきた。手の強張りが少なくなってきた。頭が働くようになってきた。

この頃からだ、メンタルや幸せや人生に関して書籍を馬鹿みたいに読み漁り、関連する動画を見てはメモをとり実践するようになったのは。

完全に人生がプラスの方向に転じた。

仕事がはかどった。出世してチームリーダの役職についた。

子供が一層かわいく思えた。育児を頑張った。

妻に休みをつくってあげられた。喜ばれた。

薬もどんどん減っていった。最大で6種類飲んでいたが1種類だけになった。残ったのはリーマスという薬だけだった。

精神科の先生からは「寛解が近い」という言葉を頂いた。

さらに体調を安定させるべく1年間、血の滲むほどの努力をした。ありとあらゆる情報を統合して双極持ちで安定できるオリジナルの習慣を作り上げ実践した。その結果、自身の体調の波を普通に生活するのに不自由ないレベルに低減でき、ほぼ完全に双極をコントロールできるようになった。

精神科の先生からは「寛解です」という言葉を頂けた。

④現在の生活(仕事と育児と自己啓発)

現在は体調はすっかり安定しました。

2歳の息子がかわいくて仕方がありません。どうしましょう。

それに加え、自身が本当にやりたいと思った、経営学を勉強するために社会人大学院に進学しました。現在修士の1年です。

ずっと「自分は中退した博士課程にもう一度進みたいのだ」と思っていました。でも本心は違いました。自分の心に問いかけたところ、博士課程に行きたい理由は

「劣等感の穴埋め」

ということに気が付いた。ずっと周りの博士持ちの同僚に負い目を感じていた。周りが持っているのに自分は持っていない。さらには中退者だ。世間体が悪い。
でも博士課程は自分の本当にやりたいことではなく、それは単なる承認欲求の穴埋めだったことに気づいた。博士号を取得し周りに認めてもらいたかったのだ。
その自分の本心に気が付けた。

「本当に自分がやりたいことは何だろう?」

と考えた時に見つけたのが「経営学」だった。

自分と同じように病で苦しんでいたり
生きづらさを感じている人に
役立つ場を提供したい

それが自分の夢だった。

場を提供するためには場を作る力が必要だ。それを学べる学問として経営学を選択した。社会人のための大学ということで、平日夜間と土日に講義やゼミがある。時間的にはかなりハードなのだが大学の授業は新鮮で楽しい。素晴らしい志を持つ同期の社会人や、フレッシュで優秀な新卒の学生さんに囲まれているので本当に毎日が楽しい💛

大学での学びの過程を経て、本当にやりたい仕事は別にあるんだということを確信した。今の会社にも、もちろん感謝しているが、準備が出来たら、新しい世界に飛び込もうと思う。このnoteの活動も準備の一環です

長々とした文章にお付き合いいただきありがとうございました!

このnoteでは僕の経験をもとに皆様の人生に幸せを提供できるような情報を発信していくつもりですので、何卒よろしくお願い致します。

皆様との出会いに心より感謝致します。

まるばつ

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