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体罰と教育

こんにちは、minomaruです。

本日は、たびたび問題に上がる「体罰」についてお話していきます。

まず最初に私は、時と場合状況にはよりますがどちらかといえば体罰肯定派です。


先にお話しておきます。体罰であろうと暴力であろうと、人を死に至らせるまでの接触は肯定できるものではありません。

そこに関しては大反対です。


それを念頭に置いて読んでいただきたいです。


戸塚ヨットスクールの戸塚校長のお話を知る前までは問答無用で体罰反対派でしたし、話を聞いた今でも人を殺してもいいほどの体罰に愛があるなんて風には思えません。それについては肯定できることじゃないと思ってます。

でもね。っていうお話。


最初にも書いている通り状況によるとは思います。

普段の教育現場ではびこっていいものだとはあまり思えないけど、戸塚ヨットスクールのような「最終手段の指導現場」として体罰を用いた機関があってもいいと思うんですよね。

私の周りにいましたが、親が子供の顔色を伺って言うべきことを言えなくなったらそれはもう成長は見込めないですよね。


そうなったときには、不快感恐怖感を実体験として自身に経験させるのは本当に大切だと思います。


今の風潮的に、不快感恐怖感を排除すれば解決するでしょ。みたいなのありますがそんなわけないじゃないですか。


火が危ない。ということをやけどして知って、体験として恐怖感が残ることで自ら触ることをしなくなったわけで。

何か大きなミスをしてしまった時、「もうこんな思いはごめんだ」という気持ちから気を付けるようになるわけじゃないですか。


そもそもを排除したらサイコパス育成国になっちゃうよ(は?)


常日頃不快感、恐怖感で従わせるのは楽だし全ての教育機関がこれをやるのは間違ってます。絶対。

でも、強制力がないと従わないやつってどう頑張っても一定数いるんですよ。私みたいなやつが。


ここでも話しましたが、なんでもかんでも排除することが果たして成長に繋がるのでしょうか。


大人の皆さまは、一度は学生時代に挫折を経験されてきたと思います。

そして学生時代を思い出してください。それが初めての挫折でしたか?

幼いころから、小さなことでも、うまくいかなかった、、という失敗や不快感恐怖感を経験して、こうしたらこうなるという事実を経験則として蓄積していましたよね。

そしてその過去の自分主観の経験から、第三者の話やフィクションの情報から得る客観的経験から学んで反省して考えてやっと、人の気持ちを考えられる人間になるわけですよね。

これをやってきたであろう大人ですら、ハラスメントやら誹謗中傷やらをするわけです。

これを経験していない人が世間に出たときのことを考えてください。

自分が被害者にならないとあまり想像つかないだろうからこういう言い方にしますが、、、。


平気であなたのことを傷つけてきますよ。


そして、もしかしたらその加害者があなただったかもしれないんですよ。


このようなことになる前に確実に矯正する機関、期間は必要だと考えます。

その為だったら、手段はいとわない。それくらいでいいと思います。


家族ゲームというドラマの話をしますね。

嵐の櫻井翔さん主演の家族ゲームのストーリーは幼心なりに胸が締め付けられました。

(天堂役の時も思ったけど翔やんは暗い裏持ちかつあーいう頭のねじ何本か外れちゃってる役が合うよねって話はまた今度♡)

悪意の体現者として、悪意に立ち向かっていける人間を育てる。


一部の生徒からは支持があったものの無愛想な田子雄大(櫻井翔)は、人格者で親にも多くの生徒にも人望があった吉本荒野(忍成修吾)の裏の顔を訴えても聞き入れてもらえず、生徒が自殺してしまった責任を感じて、、、。

というお話なのですが。


ここからはあくまで私の憶測にすぎないのですが。


戸塚ヨットスクールは、こーいう面を持ち合わせていると思います。

歪んだ世の中で生きていける人間を育てるために、あえて厳しく接するというのはあるのだと思います。

冒頭でも言った通り、人が死ぬまでの厳しさは愛か?と聞かれればそうじゃないと私も思います。

そして勢いで言い過ぎて後戻りできなくなっているのではないか、とも思ったりするのですが。

でもおそらくですが、戸塚校長の意図は体罰をするのが教育。ではなく

体罰も教育の手段の一つである。ということなんじゃないかなと思います。


どうしても、人を殺してしまった人の言葉だからそのフィルターでみて言葉の真意を感じ取ろうとしない人があまりに多いと感じます。


またアベプラの話ですが、このケースは体罰をするか?という質問に対して

「あなたはどうしてそんなに私に体罰をさせたがるの?」

と聞き返しました。私はそれがすごく心の中に残ったし、その一言が戸塚校長の真意であるとも思いました。


そして戸塚校長が何度もおっしゃっていた「綺麗事は悪」という言葉。

悪、というと言い過ぎな気もしますが綺麗事で社会復帰できればニートはいないしみんな豪邸に住めるお金持ちになってるはずですよね。


結論

今日はまじで簡潔な結論。


綺麗事言ってられるのは他人である何よりの証拠だと思います。

私は、見てるだけの外野が綺麗事言ってるだけより、実際に日々行動をしている戸塚校長の方がよほど人と真剣に向き合ってると感じます。



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