連載長編小説「愛をください」#6
*謳歌期
わたしは市民合唱団「ヘンデル会」のメンバー、加藤さんと岩田くんと佐伯さんの四人で熱海に向かっていた。二泊三日の温泉旅行だ。
移動は加藤さんの運転する車だ。岩田くんが助手席に乗り、わたしと佐伯さんは後部座席に乗っていた。
十二月の『メサイア』の公演から年が開けて、二月になろうとしていた。
繁忙期の正月は外したので、道もそう混んではいなかった。
車の中で流す音楽はクラシックばかりだった。佐伯さんが「ポップスはないの?」と訊いたが、加藤さんは「ごめん、ポップスは聴かないんだ」と答えた。
「なんだか旅行の雰囲気出ないー」と佐伯さんはむくれていた。
「どんな音楽を聴くの?」岩田くんが佐伯さんに尋ねた。
「んとね、X JAPANとか聖飢魔IIとか」佐伯さんは答える。
「ええ、結構過激なんだね」岩田くんは笑う。「春香さんは? どんな音楽が好きなの?」
「そうだねえ、チャゲアスとかユーミンとかは聴くかな。あとはほとんどクラシック」
「チャゲアス、いいよね。『太陽と埃の中で』なんかいい歌だよね」
「ああ、わかる。『追い駆けて、追い駆けても、つかめない、ものばかりさ』のところがいいよね」
「そうそう。沁みるよね」
わたしと岩田くんが盛り上がっているのを、佐伯さんはなぜかにやにやした顔で見ていた。
「加藤さんは、聖飢魔IIも知らないの?」佐伯さんが運転席に話し掛ける。
「知ってるさ。おまえを蝋人形にしてやるってやつでしょ」
「あはは、それそれ」
加藤さんがデーモン小暮の口真似をしたので、佐伯さんはご機嫌に笑った。
宿につくと、加藤さんが代表でチェックインの手続きをし、我々は男女で二部屋に分かれた。
「海が真ん前だ!」佐伯さんはベッドにバッグを放り投げると、窓辺に寄りレースのカーテンを開けた。
「ちょっと寒いけど、あとで温泉入る前に浜辺に行ってみようか」わたしはいった。
「行こう行こう! 加藤さんたちも誘おう」
佐伯さんは「加藤さんと岩田くん」ではなく、「加藤さんたち」といった。佐伯さんにとっては岩田くんより加藤さんの存在の方が大きいのだ。わたしは知っていた。佐伯さんが加藤さんを好きだということを。もちろん本人から聞いたわけではない。接していればわかるものだ。加藤さんもまんざらでもない様子だ。二人が結ばれるといいな、とわたしは考えていた。
佐伯さんが携帯電話を操作していた。やがて通じたのか、話し始めた。
「もしもし加藤さん? これから浜辺を散策しません? もちろんみんなで」相手の返事をこくこくとうなずきながら聞いている。「わかりました。じゃあ三十分後に」声がはずんでいる。
通話を切ると、佐伯さんはいった。「運転で疲れたから、三十分昼寝するって」
わたしは内心笑った。岩田くんのいの字も出なかったことにだ。まるで眼中にないのだろうか。
真冬の浜辺は、歯ががちがちと鳴るほど寒かった。昼寝をしてすっきりしたのか加藤さんは晴々とした顔をしていた。佐伯さんは足元ばかり見ていて、貝殻やらゼリーのような生き物の死骸やらを小枝でつついていた。岩田くんは波の様子やゆっくりと歩くわたしたちを“写ルンです”に収めていた。
「ここ、夏になると花火大会があるんだよね。海面に映る花火が最高に綺麗でさ、まるで銃撃戦みたいな音も迫力あるんだよ」加藤さんがいった。
「わあ、見たい! 夏にまた来ようよ!」佐伯さんは無邪気にいう。
「宿が取れるかが勝負だな」加藤さんが笑う。
そんなやりとりをしている我々の顔を、岩田くんは一人ずつアップで撮っていく。佐伯さんはピースサインを作る。わたしはぎこちなく笑みを作る。加藤さんは親指を立てる。
「撮るよ、カメラ貸して」わたしは岩田くんにいった。
「いいよ」岩田くんは手を振る。
「だって岩田くんが参加してる証拠が残らないじゃん」
「いいんだ。ほんと、僕はいいんだ」岩田くんは本当に嫌そうにいった。だからわたしもそれ以上はしつこくいうのを止めた。
散歩からホテルに戻ると、佐伯さんはキャリーバッグを開け、下着やブラシなどをポーチに入れて、浴衣に着替えた。無防備に服を脱ぐ佐伯さんに、わたしは胸が高鳴った。やっぱり温泉に入るのは止めておこうかな、生理が来たことにしようかな、どうしようかな、などとうじうじ考えていると、佐伯さんはわたしを急かした。
「何ぼけっとしてるの? 食事の時間に間に合わなくなるよ」
「ああ、はい」わたしは上手く切り抜けられず、結局浴衣に着替えることにした。
女湯の暖簾をくぐると引戸があり、開けるともわっとした硫黄の匂いが鼻孔をついた。スリッパを脱いで上がると、脱衣所には裸の女性たちがぱらぱらといた。わたしの頬は熱くなった。やっぱり止めればよかった、と悔いた。
佐伯さんが素早い動作で浴衣を脱ぎ、下着をとり、それらを籠に入れていく。わたしはまだ帯を結んだままだ。
「早く早く!」
「ああ、ちょ、ちょっと待って。あ、先に入ってて」わたしはしどろもどろだ。
「もう、意外とおっとりさんなんだね、春香さんって。先行ってるね」
佐伯さんが浴場に消えると、わたしはふうと息をひとつ吐いた。もう逃げられない。覚悟を決めないと。着衣を全て脱ぐと、タオルで身体を隠して浴場へ向かった。
髪と身体を洗っていると、すぐ後ろを裸の女性が通っていく。そのたびにわたしはビクビクとした。洗い終えると、視点をどこにも定めないようにして、慌てて湯船に浸かった。
「気持ちいいね」佐伯さんが手で泳ぐように湯をかき、近づいてきた。
「お、あ、そうだね」
「露天風呂、行かない?」
「う、うん。そうだね」
しばらくわたしの顔を眺めて、佐伯さんはけらけらと笑った。「春香さん、変なの」
湯から上がると、わたしはぐったりとしていた。湯あたりではない。気疲れだ。
部屋に戻り、食事の時間までベッドに大の字になった。佐伯さんは軽い化粧をしている。七時十分前にドアがノックされた。二人の男性が浴衣姿で廊下に立っていた。浴衣の帯が腰の下の方で結ばれている。わたしも本当はそう着こなしたかった。でも、そうすべきではないと思い、腰のくびれのところで帯を結んだ。そんな些細なことでもわたしにとっては重大なのだった。
食事処のリザーブされていた席に着くと、すぐに生ビールを頼んだ。食事は懐石料理なので、もう前菜が並んでいる。グラスを手に乾杯をすると、みなが喉を鳴らしビールを飲んだ。
「あー、美味い! 温泉ときたらこれだよ!」加藤さんが叫んだ。
「運転、お疲れさまでした」佐伯さんが加藤さんをねぎらう。
どうやら四人とも酒豪揃いのようで、生ビールを二杯飲んだあと、冷酒を飲んだ。食事はどれも美味しかった。酔いも回り、我々は満足して部屋に分かれた。「UNOやろうぜ」と加藤さんがいうので、わたしと佐伯さんは火照った顔もそのままで男性陣の部屋を訪れた。
部屋は男臭く散らかっていた。「汚いなあ、やだ、パンツくらいしまっておいてよ」佐伯さんが文句を垂れる。
そういいながらも、ちゃっかり加藤さんのベッドに腰掛けている。しかたなしにわたしは岩田くんのとなりに腰掛けた。加藤さんが「まだまだ飲むぜ」といって、冷蔵庫に冷やしておいた白ワインを出してきた。
UNOもそこそこに、わたしたちはメサイア談義に花を咲かせていた。何番の曲のどこが難点か、最終曲の「アーメンコーラス」はどう表現すべきか。バスの岩田くんが「アーメンコーラス」の出だしを静かに歌い始めた。テノールの加藤さんがそれに乗る。次はアルトのわたしの番だ。最後にソプラノの佐伯さんが加わる。次第にボルテージが上がり、四声が膨らみ部屋中にわんわんと響いていた。
歌い終わると、なんともいえない充足感に包まれていた。
「好きだよねえ、メサイア」佐伯さんが他人事のようにいう。
「好きなんだよなあ、どうしょうもなく」加藤さんがしみじみという。
「春香さんのアルト、太くて頼もしいよね」岩田くんがわたしを見た。
「そうそう、わかる。すごく支えになる」と佐伯さん。
わたしが照れていると、加藤さんが「いや、ほんと、始めての参加なのに発声の基本ができているってすごいよ」と正面切っていった。「小さい頃、何か音楽習ってた?」
「いえ、習ってないけど、ギターは独学で弾いてました」
「なるほどね、だからか」加藤さんはうなずいた。
「ギターかあ、かっこいいね。今度聴かせてよ」と岩田くん。
「聴きたい聴きたい」佐伯さんがいう。
「そんな、人様に聴かせるほどのものではないです」わたしは笑ってごまかした。
部屋に戻ると、自販機で買ってきて冷蔵庫に冷やしておいたポカリスエットを一気に飲んだ。
「結構酔ったあ」
「ワインも開けちゃったしね」
電気を消してそれぞれベッドに入り潜り込むと、しばらくの沈黙のあと、佐伯さんは神妙な声でこういった。
「春香さんてさあ、なんで男の子みたいな格好してるの?」ストレートな質問だ。
「うん、そうだなあ。男の子になりたいからかな」
「恋愛対象は? どっちなの?」
「え······」ど直球すぎて、答えに困る。女の子と答えたら気まずくなるだろう。
「男の子と付き合ったことはあるの?」
「ああ、高校生のとき、先輩と付き合ってたくらいかな」
「なあんだ。よかった、ノーマルで」佐伯さんはため息をひとつ吐いた。
「え? どういうこと?」
「やだ、気づいてないの? 岩田くんの気持ち」
岩田くんの気持ち?「ええ? なにそれ?」
「さっきも浜辺でみんなの顔撮ってたでしょ。春香さんがメインであたしと加藤さんはついでに撮ってたの、バレバレじゃん」そういって佐伯さんは笑った。
岩田くんが? わたしを好きだというのか?
「うそだよ、気のせいだよ」わたしはいった。
「もう、鈍いなあ。岩田くんの春香さんを見るときの目、キラキラじゃない」
「そんなこと······」
「春香さんは? 岩田くんのことどう思ってるの?」
「そんなこと、考えたこともないよ」
「え、じゃあ岩田くん、フラれちゃうの?」
告白されてもいないのにフルもフラれるもない。
しばらく黙っていた佐伯さんが口を開いた。
「岩田くん、良い人じゃん。真剣に考えてあげて」
翌朝、佐伯さんとレストランのビュッフェで朝食をとっていると、男性陣が遅れてやってきた。
「おはよう」
「お、おはよう」
向かいの席に座る岩田くんの顔を、わたしは直視できなかった。
続く
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