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国立新美術館「遠距離現在 Universal / Remote」レポート

お世話になっております。まるです。
先日、国立新美術館で開催されていた企画展「遠距離現在 Universal / Remote」を観てきたので、その時のレポートを書きたいと思います。

展覧会のテーマとタイトル

この展覧会がどのようなものかというと

本展は、日に日に忘却の彼方へ遠ざかる 、ほんの少し前の3年間のパンデミックの時期を、現代美術を通して振り返る展覧会である。

公式HPより

ということで、コロナ禍をテーマとした展覧会のようです。
2020年以降、パンデミックを題材にした展覧会は多く見かけるようになりました。以前noteでも紹介した森美術館の「六本木クロッシング2022展」も、コロナ禍が与えた変化を軸に展覧会が構成されていたのを思い出します。

今回の展覧会で特徴的なのは、パンデミックによる影響の中でも特に「距離」の感覚について焦点を当てていることです。

今の世界は、人類史上かつてないほど「世界の距離の遠さ」を意識しない時代でしょう。PCやスマホさえあれば、地球の裏側の情報さえ簡単にアクセスできることが当たり前となりました。どんなに地理的に離れている人同士でもビデオ通話で簡単に相手の顔を見ながらコミュニケーションを取ることが可能です。

一方で本展は、2020年から始まったパンデミックは、私たちに「距離」の感覚を再認識させたのではないか、ということに言及していきます。

今の時代を生きる私たちにとって、「遠さ」を感じることは、困難である。だが、その地理的な「遠さ」は決して打ち消すことはできない。(…)入国制限や渡航禁止によって、国家間の「遠さ」が露呈した。停滞した物流は、地球に住む私たちに「遠さ」の認識を改めて突きつけた。ふだんは見えなかっただけ、意識にのぼらなかっただけで、もともと「遠かった」ことをこのパンデミックの時に認識したのだった。

公式HPより

以前より地球は「小さく」なったという無意識的な感覚に対して、パンデミックは「距離」を改めて実感させる機会になった、ということでしょう。

世界の「距離」が縮小するのと同時に、表裏一体の関係として個人がリモートでできることの範囲、つまり個人が非対面的にアクセスできる「距離」は日に日に拡大しています。

オンラインで個人と個人が結びつき、家を出ずして国境をまたぐことは、もはや当たり前のことになっています。コロナ禍がリモート化を加速させましたが、今後一層、ますます地理的な距離感は消滅していくでしょう。

公式HPより

非対面下で個人がアクセスできる距離の拡大は、パンデミックにより更に加速し、今まで以上に意識されることになりました。リモートワークの定着などはまさにこの距離の拡大を意識させた典型的な例でしょう。

世界の距離の縮小と、非対面下における個人の距離の拡大、この両者は私たちに「どれだけ地理的距離が離れている対象であっても、その対象に関わることが可能となった」という、ある種の「万能感」を無意識のうちに与えてきました。そのような中、今回のパンデミックはこの「万能感」に対して改めて目を向けさせるきっかけになった、と本展は主張しています。このことが展覧会のタイトル「遠距離現在展 Universal / Remote」の由来になっています。

タイトル「遠距離現在 Universal / Remote」は、常に遠くあり続ける現在を忘れないために造語された。本来は万能リモコンを意味するUniversal Remoteを、スラッシュで分断することで、その「万能性」にくさびを打ち、ユニバーサル(世界)とリモート(遠隔、非対面)を露呈させる。コロナ禍を経て私たちが認識した「遠さ」の感覚、また、今なお遠くにそれぞれが生きていることを認識するのは重要なのではないかという思いが、この題名に込められている。

公式HPより

無意識に「万能感」を感じていた、世界や個人の「距離」に関わる急速な変化を改めて意識し、今まで見逃してきたことに目を向けてみよう、ということが本展の趣旨だと僕は思っています。

「世界の距離の縮小」と「権力の拡大」

本展では「世界の距離の縮小」が、今日のグローバル資本主義社会において「企業や政府といった大きな存在における権力の更なる拡大」と強く紐づいていることを暗黙のうちに指摘しているように思います。このことについて自分なり補足します。

前章でも述べたように、グローバル化が加速する現在において、世界の距離は縮小を続けています。普段は意識しないこの縮小は、しかしながら、その背景に企業や政府による大規模な情報インフラや高度な技術が隠れているのです。

例えば、本展の出展作家、トレヴァー・パグレンによる〈上陸地点〉シリーズに注目してみます。

トレヴァー・パグレン《米国家安全保障局(NSA)が盗聴している光ファイバーケーブルの上陸地点、米国ニューヨーク州マスティックビーチ》2015年 (公式HPより)

この写真は一見するとただの水平線を写したものに見えますが、実はこの撮影場所は大陸間を海底でつなぐ通信ケーブルの上陸地点でもあります。そしてこの写真のタイトルでは、通信ケーブルが米国家安全保障局(NSA)により盗聴されていることが強調されています。

大陸を跨いだ通信には、このように大規模な海底ケーブルの存在が不可欠です。この海底ケーブルは世界の距離の縮小に大きな影響を与えていることは事実でしょう。一方でこのケーブルは米政府によって構築されたインフラであり、実施しようとすれば通信内容をいつでも盗聴することが可能です。

この例のように、世界の距離の縮小は、その大半が個人単位では太刀打ちできないような企業や政府の力によって支えられています。そして基盤を整えた企業や政府は、その基盤の上で強い影響力を持つことになります。言い換えれば世界の距離の縮小を通じて、権力を持つものは更に力を拡大していくことができる、といったことにつながってくるわけです。

展示構成

以上の流れを汲んだ上で、本展の構成は次の2つの軸に分けられています。

  • Pan- の規模で拡大し続ける社会

  • リモート化する個人

本展は、第1部「Pan- の規模で拡大し続ける社会」と第2部「リモート化する個人」の2部構成である。「Pan-」は、パンデミック(Pandemic)の接頭辞であり、「全世界規模」を意味する。「リモート」は「リモートワーク」などですっかり定着した、「非対面」や「遠隔操作」のことである。(…) Pan-は、現代においてあまりに「小さく」なった地球の存在を示す。また、最新のテクノロジーにおいては、リモート環境はあまりに自在である。小さな部屋の空間はどこまでも拡張することができるだろう。

展示会カタログより

ここまでの説明に対応させると、「Pan- の規模で拡大し続ける社会」は「世界の距離の縮小」および「権力の拡大」と呼んでいたものに対応し、「リモート化する個人」は「非対面下で個人がアクセスできる距離の拡大」に対応しています。

一見すると両者は「社会」と「個人」という対照的なものに見えるでしょう。しかし実のところ、この二つは密接に相互作用をしています。

「Pan-」と「リモート」は、かけ離れているように見えますが、対立概念ではなくそれぞれがお互いを映し出す合わせ鏡のような存在です。

公式HPより

例えば、個人のリモート化が進んだ一因が、企業や政府による大規模なインフラの構築や高度な技術発展であることは間違いありません。この意味で社会は個人に対して影響を及ぼしています。

また、パンデミックの下では、私たちは積極的に個人情報を企業や政府に預けていた側面もあります。

「人流の抑制」はコロナ禍最大の課題であり、様々な問題を露呈させた。人がいつどこからどこへ移動したのか、どこにどれくらい滞在したのか、誰と接触したのかを把握し、移動と接触をコントロールするためのあらゆる監視技術がスマートフォンを経由して急速に拡大した。批判の声もあったが、国民の安全を名目にかき消え、人流制御の対策は多くの国で政府主導の下に行われた。(…) 私たちは「安全性」を信じて個人の権利と自由を丸投げするほかなく、企業や政府といった大きな存在に自分らの命を預けることになる。

展示会カタログより

このことは個人が社会に対して影響を及ぼした例でしょう。

つまるところ、「Pan- の規模で拡大し続ける社会」と「リモート化する個人」は対立するどころか、むしろお互いの存在をより際立たせていく関係であるように思えます。

「Pan-」の規模で拡大し続ける社会の問題

さて、今まで意識することのなかったPan- の規模で拡大し続ける社会に目を向けてみると、そこにはさまざまな問題が見えてくることが分かります。

先ほど紹介したトレヴァー・パグレンによる作品も、「世界の距離の縮小」と「権力の拡大」の結びつきという問題を提起するものであったと言えるでしょう。
本展ではトレヴァーと同じくPan-のキーワードのもと出品を依頼された作家として、徐冰(シュ・ビン)が《とんぼの眼》という映像作品を出品しています。

徐冰《とんぼの眼》2017年 (公式HPより)

一見すると通常のラブストーリーを扱った映画に見えるこの作品は、実は全て実際の監視カメラの映像をつなぎ合わせて制作されている、という非常に特殊な作品です。

チンティンという女性と、彼女に片思いする男性、クー・ファンの切ないラブストーリーが語られる。しかし、この映画に役者やカメラマンは存在しない。全ての場面が、ネット上に公開されている監視カメラの映像のつなぎ合わせである。チンティンとクー・ファンのセリフは吹き込まれたもので、画面に映っている男女は、場面ごとに異なる。それによって、まるでチンティンとクー・ファンが画面の中に登場しているように錯覚を促す。(…) 徐と彼の制作チームは、20台のコンピュータを使って約11,000時間分の映像をダウンロードし、若い男女を主人公にした物語に合わせて編集した。

展示会カタログより

映画の内容もさることながら、「作品の制作ができたのは、監視カメラから得られた膨大な個人の情報のおかげである」という事実についても、本作品は注目することができるでしょう。

本作品は、監視そのものの告発ではない。だが、これらの監視カメラの映像のほとんどが個人や民間企業によって管理されていること、そして、ある個人がそのデータを自由にアクセスでき、物語にまで仕上げたという事実が、作品内の物語よりも多くのことを語る。本作品を成立可能にした諸条件が、今日の我々の置かれている状況を露わにするのだ。

展示会カタログより

すでに述べた通り、パンデミックのもとでは身の安全、健康であることが優先されたため、諸々の技術に対して批判的な視点を縮小せざるをえませんでした。しかしながら監視カメラの映像に代表される個人のプライバシーに関わる情報は、個人の権利と自由に結びつくほどのものです。そのような情報を企業や政府といった大きな存在に預けることは、本来は当たり前のことではありません。
パンデミックを経た今日において、この危険性について改めて考えることは特に重要なことでしょう。

リモート化する個人の問題

本展を構成する二つ目の軸である「リモート化する個人」についても目を向けてみましょう。小さな部屋の中という非対面的な空間から、個人がアクセスできる距離は拡大を続けています。このことは個人に多大な恩恵をもたらしていますが、一方で目に見えにくい問題もはらんでいます。
僕が今回の展示会で感じた疑問は特に以下の3点です。

  • 「非対面下でアクセスできる距離の拡大」による情報量の増加により、情報はもはや個人のコントロールできる範囲を超えて暴走しているのではないか

  • 個人のリモート化は対面的なコミュニティの必要性を縮小させすぎていないか

  • 人々は「万能性」を追求するあまり、自身の「人間としての生き方」を無意識に蔑ろにしていないか

これらについて順番に触れていきたいと思います。

情報の暴走

次の出展作品はエヴァン・ロスによる《あなたが生まれてから》というインスタレーション作品です。

エヴァン・ロス《あなたが生まれてから》2023年 (公式HPより)

部屋中におびただしい数の画像が敷き詰められています。これらの画像は作家自身のコンピュータのキャッシュ(cache)に蓄積された画像データです。
キャッシュとはインターネット上で一度アクセスした画像やテキストを一時的に保存し、再度アクセスする際の表示等を高速化する機能です。キャッシュはユーザーのあずかり知らぬところで自動的に保存・削除されるものであるため、通常意識されることはありません。

インターネットを通じて触れてきた情報をこの作品のように改めて可視化すると、自分がいかに莫大な情報に触れてきたか驚かされることでしょう。また作品内の画像の中には、作家自身の意思で表示されたものの他に、企業のロゴなどの意識せざる画像も含まれています。

《あなたが生まれてから》では、彼に次女が誕生した2016年6月29日以降にキャッシュされた画像が、取捨選択されたり序列をつけたりされることなく用いられている。そこにはロスが閲覧したであろうニュース記事や動画配信サービスのサムネイルが無作為に並び、彼の私的な面をあらわにするようだ。しかしキャッシュには、自らの目的をもって表示したもののみならず、同じページにあってもほとんど目を留めることのない企業のロゴやバナー広告の画像も同等に含まれる。

展覧会カタログより

部屋中を埋め尽くし、見るものを圧倒させるような莫大な情報、そしてそれらに混入する自分の意思とは関係ない数々の情報、それらを前に果たして私たち個人は「拡大されてきた非対面下における個人の距離」を扱いこなしているのでしょうか。それとも逆に、既に情報は個人の制御可能な範囲を超えて暴走しているのでしょうか。自分にとっては、そのようなことをつい考えさせられてしまうような作品に思えました。

対面的なコミュニティの縮小

「個人が非対面でもできることが拡大している」ことを裏返せば「対面でなければならない必要性が無くなっている」ことを表します。このことは人々にとって果たして本当に良いことなのでしょうか。
ティナ・エングホフによる〈心当たりあるご親族へ〉プロジェクトはこの点に関して考えさせられるものでしょう。

ティナ・エングホフ《心当たりあるご親族へ――男性、1954年生まれ、自宅にて死去、2003年2月14日発見》2004年 (公式HPより)

このプロジェクトで撮られた一連の部屋の写真は、実は孤独死した人の部屋の写真です。

写真は一見すると、色鮮やかな壁紙が明るい印象を与える。だが細部を見れば、ちょうど人ひとり分の区画だけが不自然に剥がされたカーペットや染みのついたベッドが、その場と死を結びつける。枯れ果てた観葉植物から想像される無気力な生活の中で迎える死もあれば、ソファに投げ置かれた服が思わせる何気ない日常に突然訪れた死もあるだろう。

展示会カタログより

孤独死という言葉から受ける印象にはさまざまなものがあると思いますが、大抵の人にとっては「恐ろしさ」を感じさせるものでしょう。作家自身もそのように思っているようです。

これらは多くの人にとっての恐怖を写した写真ー孤独死は誰にとっても恐ろしいことだと思いますからーでもあるわけですが、このような、美しさと実際に現場で起きた出来事のバランスというのは、ちょうどいい具合にするのが非常に難しいと思います。人と恐怖、犯罪の現場とそこで起きたおぞましい出来事と向き合うことで、見る人は考え始めるのです。これは本当に真実なのか?この部屋で誰かが死んだのか?と。

展覧会カタログ(作家に対するインタビュー)より

誰しもが誰からも看取られない孤独な死を恐れており、対面的なコミュニティの縮小はそれを助長させていきます。そしてこの縮小は孤独死だけに限らず、他の面においてもどこか孤独で、底抜けの寂しさを私たちに感じさせるのではないでしょうか。

人間としての生き方への軽視

「非接触下で個人がアクセスできる距離の拡大」は確かに冒頭で述べたような「万能感」を与えてくれます。一方で膨大に増えた情報は人間の制御できる範囲を超えて個人を飲み込み、また対面であることの必要性の希薄化は孤独と寂しさを今まで以上に感じさせるような、そのような印象を僕は受けています。
そして自分が思うのは、私たちは無意識に「万能感」を追求してしまうあまり、人間として本質的な部分、ないし自分の納得する生き方に対しての意識を疎かにしていないか、ということです。
万能であることを追求することと、人間の本質を追求することでは、後者の方が大切であり、前者は後者に至る手段であって目的ではないはずです。そのことを改めて認識し直すことは、自分にとって生きていく上で非常に重要なことであるように思えます。

自分と世界の最適な距離

本展に出品された作品群は、グローバル資本主義社会の拡大、遠隔化に伴い変わり続ける個人の生き方、それらと切り離せないテクノロジーの急速な発達、といったように目まぐるしく変化する世界に関連する題材を取り入れたものが多くを占めていました。

そのような中、本展の最後に近い場所で展示された木浦奈津子の油絵《こうえん》は非常に異質なものに見えます。

木浦奈津子《こうえん》2021年 (本展HPより)

木浦のこの作品は、資本主義でも、閉ざされた空間でも、テクノロジーでもなく、身近な風景が描かれたものです。本展に出品された木浦の他の作品も、《うみ》や《やま》といった日常の景色が描かれています。
一見他の作品と関連が見えにくい木浦の作品が、本展の締めくくりに近い場所で展示された意図はどのようなものなのでしょう。

本展のキュレーションを担当した尹志慧は、木浦の作品について次のように言及しています。

本展の最後に紹介する木浦奈津子の絵画<うみ><こうえん><やま>などは、2014年制作の作品から2023年の新作まで、この10年間の風景画だ。(…) 木浦はその(パンデミックの)前後でほぼ変わることなく、身近な風景を描き続けてきた。(…) 人の姿はなくても、あるいはポツンと置かれた影のようであっても、木浦の描く海や公園や山の中に、パンデミックにもかかわらず続く私たちの生活の情景がなぜか見えてくる。社会状況がどうであれ変わらない本質的な部分を捉えている木浦の風景画に私たちは励まされ、生活の営みは続いていく。キャリア全体を通して一貫した作風を維持してきた木浦の絵画は、本展の最後に欠かせない作品となった。

展示会カタログより

まさに先ほど触れた「本質」について、やはりキュレーターからも言及がなされています。

目まぐるしく変わる世界において、それでも変わらない私たちの本質的な部分は果たして何なのでしょうか。
おそらく確実に、これからも世界と個人を取り巻く「距離」は急速な変化を続けることでしょう。そしてその変化がもたらす「万能感」は魅力的であるが故に、無意識に追従したくなるものです。木浦の作品はそのような激動の変化の中で、まるで「距離」の感覚を重要性を再び思い出させてくれるもののように、自分は感じます。自分自身にとって最も心地よいと思える距離はどのようなものなのか。自分が自分らしく生きるためには、世界とどれだけの距離をとることが適切か。そして世界の変化に流されず、どれだけ距離の感覚を失わずにいられるか。

展覧会全体を通じてそんなことを考える機会になった、というのが今回の僕の感想でした。


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