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合唱

 音を合わせる。それによって価値が生まれる。合唱が美しいのは、永遠に「完璧」にたどり着かないからなのだ。 


 人間は不完全だ。そして、言葉は不器用だ。曖昧な形態しか持ち得ない私達が、輪郭を持たない声なるものを合わせる。それは、ハーモニーの中で、互いの際を見つけ、相対性の中に構造を描き出す。調和は、完全なる理想を希求する一方で、常にそこに瑕疵を含む。なぜならば、完全調和の前に常に「人間」が介在するからだ。

 前述したように、人間は不完全だ。ならば、人間が作り上げる理想もまた不完全に過ぎない。もちろん、「理想」なるものは完全であるべきで、人間の不完全さを排除した形で「理想」は語られる。あらゆる無菌状態で壇上に上がるからこそ、理想は理想たり得る。

 しかし、理想はあくまでも理想なのだ。完全なる無菌などどこにもない。合唱は音の中に理想を希求する。しかし、完全に無菌ではいられない。些末なノイズが混入する。それはきっと、技術や、技能の不足に転嫁できるものではないだろう。

 そこには、どうにもならない完全なる欠点があるのだ。その事実によって合唱の魅力が消失することはない。むしろ、逆に永遠に瑕疵が存在するからこそ、理想が永久にこだまする。

 流麗なメロディーが、時間を奏でる。時間が複線的に流れ、メロディーは調和を生み出す。複合的なハーモニーは聴者を多層的な世界へと導く。そこには究極の安堵がある。調和は、不完全さを抹消しようと試みる。しかし、完全には排除できないノイズが、多層的な調和に亀裂を入れる。調和は、一瞬で瓦解し、その安寧を放棄する。

 瓦解の後にも、次のメロディーが時間と共にやってきて、新たなる調和を生み出そうとする。喪失と創造が、繰り返し起こるのである。
 
合唱は確かに美しく、壮麗だ。青春の情熱がその美しさに拍車をかける。浮かんでは沈む、完成と未完成の美学。それは心臓の鼓動のようだ。つい、その響きに耳を預けてしまう。きっと、それは母に抱かれているような幼子の時に覚えた本能を刺激されるからなのだろう。
 NHKの合唱コンクールを視聴しての感想である。


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