小説 シーラカンス

 シーラカンスは、古生代のデボン紀に出現してから現在まで、それほど体の形を変えていない。正雄はそう聞いた。

 化石で見つかるシーラカンスが、現在の姿とまったく同じであるわけではないが、それでも形の変化はわずかであり、少しずつゆっくり進化を遂げたのだという。

 生きた化石。シーラカンス。検索すると画像はたくさん出てきた。パソコンのディスプレイには古代の形をとどめる魚の姿があった。

 いつだったか、水族館で冷凍にされたシーラカンスを見た。時間が止まっているような、それでいて、もっとも長い時間を生きてきたような、そんな不思議な感覚を覚えた。

 ほとんど同じ形で生きてきた。それほどまでに、自分にこだわる理由はなんなんだろう。

 環境に適応して姿を変えるのが進化の常ならば、環境が一定であれば進化の必要はないのかもしれない。進化とはその意味で、生きるための手段なのだ。
 



「整形している。目のとこ」
 と菜月が言ったのは、婚約してからしばらく経ってからのことだ。
 しばらく、言葉を持てなかった。沈黙が続いた。互いに互いの顔を見ていた。正雄の視線は菜月の目元に集中していた。

 出会ったのは、一昨年の12月だった。友人の紹介で知り合った。お互いに27歳で、正雄も菜月も共に未来を探していた。
 僕らはウマが合ったのだろう。正雄はそう思っていた。一緒になる。そう決めることに迷いはなかったし、後悔もなかった。

 新しい生活を夢想していた。いくつものイメージが描かれては、過去に消えていった。過去を押しのけて、二人は二人の未来を見ようとしていた。
 
「嘘つきたくないと思うから、言おうと思った」
 改めて、彼女の顔を見た。菜月の顔をこれほど真剣に見たことはなかったかもしれない。

 ふと、どんな顔だったか、わからなくなってしまった。もちろん、目の前にいる菜月以上に、菜月の顔を持つ人間はいないのだ。菜月の顔、その事実がふっと揺らぐ。水面に映る表情のように、一定せず、曖昧な彼女がそこにいた。

 菜月は、自分のことを語り始めた。
 いじめられていたこと、死にたいと思ったこと。変わろうとしたこと。過去の自分を捨てたこと。新しい自分の顔は、豊かな毎日を連れてきたこと。後悔は何もないこと。未来を信じていること。彼女は、小さな声で語った。
「嫌だよね?」
 菜月は言った。

 嫌じゃないよ。そうすぐに言えばよかった。でも、言えなかった。正雄は躊躇した。
 冷凍されたシーラカンスのように、体がこわばり、口の中は乾いていて、うまく言葉を発することができなかった。

 沈黙より饒舌なものはない。菜月は、正雄のことをすべて理解した。
「よかった。言っておいて。後戻りできないところまで言っちゃうと嫌だし、嘘ついて、騙して生活するのも、嫌だから」
 菜月の声は震えていた。唇を固く結んで、手探りで言葉を探しているようだった。

 菜月は家を出ていった。
 部屋には、正雄が残された。

 俺は何をしているんだろう。鏡に映る自分を見た。一人の男がいた。
感情は抜かれ、生気のない剥製のようだった。

 
 
 

 ひと月経った。正雄の元には菜月の部屋の合い鍵があった。合い鍵を使って部屋に入った。いつもそうやっていた。互いが、互いの部屋を自由に使っていたのだ。

 不法侵入だと言われても文句は言えない。正雄はそう思いながら合い鍵を見つめた。
 正雄は菜月を待った。一時間ほどしたら、菜月が帰ってきた。菜月は扉をおそるおそる開けて、ゆっくりと部屋の中を覗いた。

「何しているの?」
 菜月は正雄の顔を見ると、安堵を抱いて、硬直した肩の力を抜き溜息をついた。
「泥棒かと思った」
「驚かせるつもりはなかった」
「鍵か。そうだ。預けたままだったね」
 沈黙が流れた。互いに静寂をうろつき、言葉を掛けるタイミングを探っていた。

「一緒に住む家を見つけないといけないなってさ」
 正雄は言った。菜月は頬を固くして、睨みつけるように正雄を見た。
「どういうこと?」
「……どういうこと、って」

 このひと月の間、正雄には考える時間が沢山あった。時間が彼の冷凍された肉体を解き、冷めた情熱をふたたび熱し始めたのだ。

「この家は、二人で住むには狭すぎる。結婚するなら、もう少し広い場所がいい。子どもだってほしいし」
 人は変わっていくのだ。彼女は、深海から飛び出さそうとして、自分の人生を変えようとして大きな決断をしたのだ。

 どうして俺だけが、留まっていることができるだろうか。

「改めて、一緒にいよう」
 正雄はそう言った。

 菜月は言葉を持たなかった。頬は緩み、涙が溢れた。正雄は静かに菜月を引き寄せ、力一杯抱擁した。

 人を好く気持ちは古代魚のように形を変えない。しかし、僕らは変わっていく。それが日々を積み上げるということだからだ。
 正雄は菜月の顔を見た。その顔は涙で歪んでいた。

「そんな不細工な顔だったっけ?」
 笑いながら正雄は言った。

 菜月は微笑みながら正雄の胸を叩き、再びその顔を正雄の胸に埋めた。

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