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鎌倉・地獄と極楽の旅 感ずること、思い出すこと(前編)

 2023年1月13日午前10時大船駅笠間口、我々の旅はここから始まった。

大船観音を見ると、何だか湘南に来たな、と感じる。

 鎌倉散策と称して、鎌倉の旧跡や伝説を巡り、土地の神と出会う日帰り旅行である。尚、私の尻は2時間の在来線により、すでに痛い。

 一行は大学の先生と生徒四人の、いわばゼミの行事である。新年初めての会合でもあり、なかなか楽しみで眠りが浅かった。

 挨拶も早々に、まず粟船山常楽寺へ向かうため、バスに乗った。曰く、寺を見た後は歩くので、ここで体力を温存しておこう、とのことである。この時私は軽い気持ちで、「そうかぁ」と思っていたばかりであったが、この後、地獄を見ることになる。地味にハードな冥界巡りの始まりである。

 常楽寺は三代執権、北条泰時が開基した臨済宗の寺院である。元は真言密教の要素が強かったが、蘭渓道隆がやってきたことで臨済宗となった。

 我々はお堂を参拝したのち、裏山にある木曽義高、姫宮の墓跡を目指した。もちろん泰時の墓もあるのだが、時間の都合上割愛してしまった。すいませんでした。

 道中、裏山を幼稚園の園児が遠足していた。みんな小さくてかわいい。まさか自分にもそんな頃があったなんて信じられない。道の途中で休んでいたのだが、その奥に泰時の娘、姫宮の墓跡がある。失礼して通らせてもらった。

 姫宮の墓跡は、一説には大姫の墓とも言われている。

 大姫は源頼朝と北条政子の娘で、木曽義高の許嫁であった。義高は木曽義仲の息子で、人質として鎌倉に入っていたが、義仲が粟津の戦いで源義経に討たれると、頼朝は義高を警戒し、遂に捕える命令を下す。大姫はそのことを知り、義高を女房姿に扮装させ武蔵国へ逃す。しかしそれはすぐに露見され、身代わりとなっていた側近の海野幸氏は捕えられ、義高も武蔵国入間河原で討死する。この時義高12歳、大姫7歳という若年であった。

 大姫はこれがために心身共に病み、病床についたまま20歳で生涯を閉じる。

 彼女の墓跡はとても小さなものである。今でもしっかり供養されているが、どこか寂しげである。それは義高の墓跡にも言える。

宮姫、大姫の墓

 義高の墓は塚になっており、後ろには新しい卒塔婆があった。大姫の墓跡よりも離れた山の上にあり、多少大きいが、これもまた寂しい。運命に翻弄され、悲恋に散った二人の魂は、まだ辺りを彷徨っているのかもしれない。

木曽義高の墓

 裏山を降り、我々は歩いて次のスポットへ行く。ちなみにその道中でも園児の散歩と遭遇し、何となく心ほぐれる気持ちがした。

 狭い住宅街を、往来のトラックに脅かされながら、我々は次なる場所、長窪の切通しへ辿り着いた。ここは本当に分かりづらいところにある。民家の細い路地に入らないといけない。何だかコソ泥しているようであるが、それを抜けると急に中世へタイムスリップしたような、魅力的な切通しが現れる。

まさかこんなところに?!という路地の先には……

 長窪の切通しは鎌倉七口ではなく、ほとんど地元の人しか通らないような穴場の切通しだ。おそらく六国見山の尾根を通って鎌倉へ出るための抜け道だったのであろう。なお、ここには同祖神もほとんど無く、中世の人々もあまり通らなかったのではないだろうか。

 暖かい春のような陽射しが、切り出された岩肌に注いでいる。木々の太い根が岩肌に絡みながら、厳しい環境で皮を厚くしている。ここには生きようとする生命の、純粋で真っ直ぐな魂があった。

向かいから武士や行商がやって来そうな雰囲気がある長窪の切通し

 切通しを抜けて、住宅街を通って坂を上がったところに、六国見山への入り口が見えた。結構急な坂を歩いたので、息が上がっている。少し休憩して、山を見れば長い階段がある。ああ、と思ったきりで、一同足が進まない。まあでも登らないと仕方がないので、「グリコ」でもやりながら楽しく登ることにした。なかなか時間がかかったが、そこまで疲れず展望台へ出る。

 六国見山は標高147メートルの低山である。ここからは安房、上総、下総、武蔵、相模、伊豆の6つの国が一望できたため、六国見の名前がついた。確かに展望台からの眺めは良く、横浜の高層ビル群や富士山、遠くにはうっすらと房総半島も見えた。少し暖かく霞んでいたため、視界は多少曇っていたものの、ここまで見通せるとは思っていなかった。

 展望台からすぐのところに、稚児の墓と呼ばれる史跡がある。ここには様々な説があるが、その中に興味深い伝説が伝えられている。

 時代は8世紀、奈良時代にかけて、由比ヶ浜には染屋時忠という人が住んでいた。彼は藤原鎌足の玄孫で、関東諸国を治め、東北地方にまで勢力があったこと、そして由比ヶ浜近くに館を構えていたことから、由比の長者と呼ばれた。

 彼には3歳になる娘がいたが、ある時、娘が大鷲に攫われてしまい、行方が分からなくなってしまった。その後、娘の残骨と見られるものが各地で見つかると、時忠は各地を巡っては墓を建て、丁寧に供養したという。そのうちのひとつが、この稚児の墓と言われている。

立派な石堂、しっかりと供養されている。

 墓は地元民に掃除されているようで、綺麗である。それに想像よりも大きい。先ほどの大姫や義高の墓よりも立派である。名前も忘れられてしまった稚児のために、こんなに大きな墓を作るものだろうか。もしかしたら鎌倉を抜け出そうとした義高のように、脱走する人がここで捕まり、亡くなったのかもしれない。この山で亡くなった多くの人々のための、供養塔の役割も果たしているのではないだろうか。

 我々は稚児の墓を後にして、山の稜線をひたすらに歩き、明月谷へ出た。道はほぼ獣道という感じで、運動靴でないと少し危ない。完全に道を甘く見ていた我々は、原宿にでも行くような格好で歩いていた。足が痛くなるのも無理はない。明月谷に降りて、すでに膝の笑っていた我々は、カニ歩きでコーヒーショップへ行き、ひと休みする。

 しかしコーヒーショップは感染症対策で、テイクアウトだけだという!なんという無念だろうか、我々は息つく暇もなく、コーヒー片手にまた山に入ることになる。しかしこれが美味しいのだ。筆者は1日4、5杯は飲むコーヒードランカーなのだが、こんなに風味豊かで飲みやすく、バランスの取れたコーヒーは飲んだことがなかった。これを山を歩きながら飲むという贅沢は、普段あまりできないこである。というかコーヒー片手に都市生活風情の一行が山道を歩いている、という構図は、なかなかに珍しかろう。山のもののけ達は、我々のことをどう思っていたのだろうか。

イシカワコーヒーさん、美味しすぎて慣れないインスタ撮りをする筆者。

 明月谷から、天園ハイキングコースに入って、建長寺半僧坊までを歩く。さすがに足が疲れているので、途中休みながら、起伏のある山の尾根を進んでいく。途中で、「今日って何を目的に...」などと考え始めてはいけない。ただひたすらに歩く、という行為の中に、中世の人々の生活を感じるのだ。

 そしてついに、勝上獄(しょうじょうけん)と呼ばれる展望台へ出た。ここまで来ると、もう鎌倉は目と鼻の先である。足元には建長寺の伽藍が見える。階段を下れば半僧坊である。我々は由比ヶ浜沖の海に煌めく光を見つめつつ、達成感の中、下界に降りていく。

麓の建長寺を望む
午後の日差しに映える由比ヶ浜と、鎌倉市街。

 半僧坊には天狗の像がいくつもある。これは明治に静岡から当地に勧請された半僧坊大権現が、天狗のような姿をしていたためであるという。つまり実際に天狗の伝説が建長寺に伝わっている訳ではない。しかし我々は、山から降りてきたという点では、まあ天狗のような存在である。ある意味では、山に入って一度「死んだ」ことで、生まれ変わったのかもしれない。

まさか天狗を背に降りてくるとは思わなかたったな……

 まあとにかく、もう疲れ切っていた一行は、「生まれ変わるも何もあるものか、とにかく腹が減った」と、臆面もなくフレンチトーストのために急ぐのであった。

 鎌倉駅までバスで出て、そこから時間の兼ね合いでタクシーに乗った。車窓からは由比ヶ浜が見えた。

 午後の光に燦々と輝く由比ヶ浜には、冬なのに多くの観光客がいた。サーファーも多く、これこそ鎌倉、という感じがする。しかし彼らの足元には、鎌倉時代に処刑された沢山の罪人たちが眠っている。

タクシーから由比ヶ浜を望む

 由比ヶ浜はその昔、罪人の処刑場であった。また、鎌倉の歴史を刻んだ多くの合戦の舞台でもあり、伝説は後を経たない。この美しい浜辺で、5千人以上のひとが首を落とされている。それを考えるだけでも、なんだか冷たいものが体に走るようである。

 さっきまでいた六国見山や勝上獄が、山の彼岸であるならば、由比ヶ浜は海の彼岸といったところであろう。この先には果てしのない海原が続いており、さらに先に天竺がある、当時の人々が、見えないものの世界がこの先にあると考えるのは、自然なことのように感じる。

 ともかく、我々はフレンチトーストのために急いでいた。何せ予約の時間ギリギリアウトである。それに腹も減っている。

 タクシーを降りて、細い路地を歩くと、古民家のような店があった。椅子やテーブル、スピーカーや細かい部分まで、特注のブランドで揃えられた、和風モダンなパン料理専門店である。ここのフレンチトーストは、正直言って今までに食べたことのない味だった。「これは本当にフレンチトーストなのか」と、自分の常識が脆く崩れ去っていった。人間美味いものを食べると、前頭葉がじんわりして、言語も何もなく、嗚咽と共にただ顔が綻ぶものだが、まさにそのような体験だった。脳内麻薬というのはこうして生成されるのか、と思った。

Cafe recette鎌倉さん、常識が変わるフレンチトースト。

 幸せ空間でゆっくり休憩をした後、外に出るとすでに夕方であった。由比ヶ浜を眺めつつ、星の井通の交差点で、途中帰宅の二人と別れる。この後バイトだったり予定があるとのことだったが、大丈夫だろうか。ぜひ家でゆっくり、泥のように寝てほしいと思う。

 残った三人は、そのまま歩いて星井寺虚空蔵堂へ向かった。もう時刻は4時ごろで、陽も暮れかかっていた。逢魔時に差し掛かって、我々はさらにディープな世界へと足を踏み入れることになる。

星井寺虚空蔵堂

 星井寺虚空蔵堂は、奈良時代に東大寺などを勧進した僧侶、行基が、ここにある星の井という井戸を覗いた時、そこに映る星の光に虚空蔵菩薩の姿を見て、それを彫り安置したというのが始まりである。この時に彫られた仏像は、現在は秘仏になっており、本堂には前立像の姿が確認できるだけである。しかしこの黄金色の前立像を見た時、なぜかは分からないが、私は何かを感じ取ったようである。

 初めは軽い気持ちで、特にお参りをするというのではなく、敬意を持って史跡を調べるという気持ちでいたのだが、本堂を覗き、暗闇の中で金色に浮かび上がる前立像を見た時に、言いようもない心のざわめきを感じた。「ああ、これは何かあるのだな」と直感的に思いつつ、門まで降りて、三人で次のところへ行こうとしたのだが、やはりこれはお参りをしなければと思い、急いで参拝をした。やはり逢魔時、我々はまた、彼岸への扉を叩いてしまったのだ。

奥に見えるのが前立像とされる。言いようもない霊験を感じる。

 星井寺から、極楽寺坂を上る。ここは現在は車道が整備されており、交通量も多い場所であるが、昔は細い切通しであった。新田義貞の鎌倉攻めの激戦地としても知られている。

 極楽寺坂を抜けると、江ノ電の極楽寺駅、そして極楽寺がある。この地は元々、地獄谷と呼ばれており、鎌倉の中心地から見ると西方の境界にある葬送の地であった。北条泰時の弟、北条重時が別の地にあった寺院を当地に移し、極楽寺としたことで、葬送の地から鎌倉にとっての西方浄土という位置付けとなった。

 この辺りは山に囲まれ、木々が鬱蒼としているため、昼間でも少し暗い。我々が行った時には陽も暮れかかっており、街灯の灯りがないとなかなか危ない場所であった。なんとなく、あの世へ通じる道を歩いている気持ちがする。坂には多くの庚申塔や道祖神があり、見えない世界との距離の近さを感じざるを得ない。

 極楽寺周辺から、さらに西ヶ谷へ歩いていく。すでに日の入りの時刻は過ぎており、空には薄雲がかかっていた。薄暗い住宅地を歩いていくと、道すがらに地蔵堂がある。

西ヶ谷にある月影地蔵堂

 我々がここへ辿り着いた時、地元のおばあさんがお堂の戸締りをしていた。もう五時を回っているし、この時間帯から寺社を巡る人はあまりいない。我々も少し見るだけで、引き返して他へ行こうと考えていた。

 ところが、おばあさんと挨拶を交わした際に、「どこから来たの?」と聞かれたので、「東京からです」と答えると、「それなら少し見ていけば?」と、お堂をまた開けてくれることになった。なんという偶然だろうか。

 せっかくだし、お堂に上がって近くで月影地蔵を拝ませてもらった。このお地蔵様は、元々は阿仏尼が住んでいたと言われる月影ヶ谷にあったが、江戸の頃に移されたらしい。古い白熱球がぼんやりと堂内を照らし、着色されたお地蔵様のクリーム色の肌が映えていた。瞳には水晶が何かが埋め込まれているのだろう、その輝きは美しかった。

 おばあさんによると、この着色は大正か昭和の初め頃、像の修復の際に施されたのだという。この地から鉄道で東京まで運ぶ時、ハンモックのような形で寝かせて動かしたので、地元の子供がお堂を覗いた時に仏像が倒れていて、驚いて逃げたらしい。

 また、当時は裏山で鎌倉石の採掘を行っていたため、職人たちが休憩の際にこのお堂を使っていたという。そしてなんと、彼らは休憩の暇つぶしに、地蔵を背に博打をしていたのだ。

 しかし遂に警察に見つかり、全員お縄になって連れて行かれた。悪いことをすると、全てお地蔵様に見られているんだぞと、おばあさんは子供の時に教えられたらしい。なお当時の職人たちは、場所を使わせてくれた感謝の気持ちを込めて、参道の敷石のために鎌倉石を寄贈したのだという。

 他にも詳しいことは、家に帰れば分かるんだけどねぇ、とおばあさんは言っていたが、これだけローカルな話を聞かせてもらえるだけで嬉しい。ましてやわざわざお堂を開けてくださったのである。頭が下がって仕方がない。

 おばあさんは「また来てください、資料もあるから」と言って、我々が来た道を歩いて帰っていった。我々も、少ししてから同じ道を通ったのだが、すでにおばあさんの姿はない。何だか夢幻能のようである。

 夢幻能とは、能の謡曲のジャンルのひとつである。旅人の前にある人が現れてその土地の伝説を語り、自分はその主人公であると言って消える。その後在りし日の姿で現れた亡霊が、妄執や思い出を舞として表現するが、それは旅人の夢の中での出来事であった。これが夢幻能の定石である。

 あのおばあさんは確かに、その土地やお地蔵様の逸話を語ってくれた。そして自分がその主人公である、とは言わないまでも、どこか知らない所へ帰っていったのである。夢幻能はこのような体験から生まれるものなのだろうか。やはり我々は、いつの間にか彼岸の世界に迷い込んでしまったのかも知れない。

 夢と現実とのはざまで、ゆらゆらと夜の鎌倉を歩く。我々は暗闇の御霊神社でお参りをし、由比ヶ浜を歩きながら夕食を目指す。

御霊神社
夜の由比ヶ浜

 夕食は「鎌倉 松原庵」さんで、お蕎麦をいただいた。夜ということで、もちろんお蕎麦だけではなく、色々なつまみとお酒もいただいた。ここもすごい、すごく美味しいのである!

ちょっと大学生には上品すぎる……?

 出てくるもの全て美味しい。野沢菜や冷奴、揚げ豆腐や茄子の煮浸し、全て素材の味が生かされていて、繊細な味付けである。美味しいって、こういうことを言うんだな、と感じさせてくれる。

 筆者は日本酒の飲み比べセットで料理を堪能したが、相性が良すぎる。思わず「いい仕事してるねえ」と言いたくなってしまう。そして蕎麦は、海苔蕎麦をいただいた。

海苔蕎麦

 海苔蕎麦も、いい仕事してるなあ、と思う。海苔はふわふわで、風味は抜群。蕎麦もコシのある信州産であるから、食べる手が止まらない。いや、止めたくない。そんなこんなですぐに完食してしまった。

 外に出ると小雨が降っていた。我々は「バンク」というバーで、一杯飲んでから帰ることにした。外観は昔の銀行そのまま、レトロな建築で目を引くが、内装は大人なバーである。銀行として使われていた当時の雰囲気を感じながら嗜むウイスキーは最高である。もし一人だったら飲みすぎちゃう場所だ。危ない危ない。

素晴らしい大人な空間

 こうして、我々の旅は終わった。鎌倉の地獄と極楽、異界の存在と触れる旅は、2万2千歩というそれなりの歩数と、筋肉疲労を残した。この達成感はどこからくるのだろうか。家に帰って、もちろん泥のように眠ってしまった。


 ……終わった、と思っていた。

 よく考えてみよう。もしもこの旅が、「夢幻能」であるならば、あの月影地蔵で出会ったおばあさんが、在りし日の“本当”の姿で我々の前に現れなければならない。そして妄執や思い出を舞うはずである。つまり旅自体は確かに終わったのだが、謡曲としての我々の旅はまだ成就していないのである。

 後編へ続く!


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