ソクラテスの印象

お断り

私は勉強というものが大変苦手な、そして忌まわしく思う者で、ここでソクラテスについて述べるとしても、彼や彼以前、また古代ギリシャについて振り返って再度確認しておくという作業を行っていない。この記事は単に私がソクラテスのことを現在の私にまで残った記憶から再構築すれば、そのように見えるというだけのものである。なので、以下の文章の文末には「知らんけど」という一文が省略されていることを断っておく

古代ギリシャの民主政治

ソフィストとは知者という意味だ。彼らは哲学者というよりは弁護士に近いと思う。彼らは市民に弁論術を教える家庭教師のようなものだ。そうした職業知者が多く輩出されたのには古代ギリシャの政治形態がその素地となっている。

古代ギリシャの政治は直接民主制といわれる形態だったという。市民は議場に立って意見を主張するとき、それを是とするだけの弁論術が必要だった。弁論術は思弁的であるより討論に勝利することが重んじられ、主張の内容が白か黒かではなく、白だろうが黒だろうがどう白と説き伏せるかに重点が置かれた。

ソフィストとソクラテス

そこに登場するのが弁論術の教師、ソフィストである。彼らはいわゆる詭弁によって自説を押し通す方法を市民に説くのである。弁論術の詳細はもう記憶にないので触れない、というか触れられない。

そこに現れるのがソクラテスである。ソフィストは知者という名のとおり、自らの知(弁論術)を商品としたが、ソクラテスは自らの無知をもって彼らを質問責めにし、彼らの論理の破綻を指摘するのだった。

政治的な弁論術の、いわば黒も白という言葉を教えるソフィストに対し、ソクラテスは知への愛を以てより善い生き方を探求したという。ソクラテスは無知者として、知者とよばれる人々に教えを乞うという形で対話を求めて質問責めにするということだ。

もってソクラテスはソフィストとは一線を画する哲学者としてプラトンらに認識される。

でも、実際どうなんだと思ったりする。なるほど、ソフィストの自説を通す弁論術の知は、探究的というよりは討論的で勝敗的なものだったのだろう。しかし、その彼らに勝ってしまうソクラテスは哲学者なのか。ソクラテスは最初の哲学者(という認識が現在も妥当か知らないが)というより、最後のソフィストなのではないか? これまでのソフィストは自説を補強するための詭弁術を構築していったが、ソクラテスは自説というものをもたず、相手の説と弁論術を突き崩すことに弁論を特化させて対抗した。知に対して無知の知によって彼はソフィストに勝つのであれば、彼もまたソフィストのように思う。その文脈でソクラテスという人物が出現しえた、などと思う。ソクラテスがしたのは、それまでのソフィストがより強力な知によって相手を打倒する方法の探究だったとすれば、ソクラテスはそれを転倒してより無知な存在となることによって相手を打倒する。その点で彼もまたソフィストの文脈のなかに立っていると言える。

まあ、知らんけど。そんなことを思ったりする。

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