見出し画像

競争から下りる

 自己の生の価値を他者に預けない。競争は本来ばらばらのはずの個別の好奇心をただ1つのトラックに整列させる。実際の競技、試合ならそれも必要だろう。しかし、すべてのものが競争の形式に当てはめてしまうのは、自分が好奇心を抱いていた根拠がなんだったのか忘れてしまうことにもなりかねない。スポーツのなかでも、勝敗に喜んだり泣いたりしながら、そのなかで勝敗とは別に自分の癖を知ったり、ボールの軌道が自分の体感のうちに感じられることなんかのほうが、その競技をしていて楽しい瞬間であるように思う。
 アレよりコレのほうが重要だと思ったり、私はあの人々より一歩先を見ていると思ったりすることは、自己の本来の好奇心の在処をかつて耳打ちした探究とは別のところで作動している競争だ。私が民俗学に興味を持っているとして、そこに見出した好奇心の道しるべは、民俗学の枠のなかにのみ留まるのでもない。学問分野にしろ運動場のトラックにしろ、それは飽くまで他者に示せる公共語に過ぎず、最初からそんなものは存在せず、いっとき白線の間を走って、その走ったことから得たものがテニスコートのほうを指さすなら、ゴールもせずに白線を踏み出してラケットを握りたい。
 競争、勝負のなかに落ちるということは何のために走っていたのかを忘れて競技に主体の座を奪われることだと思っている。白線は競技のなかでは重要な摂理だが、競技の外では競技を成立させているだけのフィクション以上ではない。競技や学問は、思い立ったそのとき思いのまま逸脱していけるもの、土地と自己との結びつきを絶対視して土地に固執するのではなく、山の中を渡るサンカとなり、公園のベンチを寝床にするホームレスになってもいいだろう。そこから見える景色はそこからしか見えない景色であり、ルールの外側からルールの形を見ること。固執はただ、虚構を真実として再生産する方法だ。
 いつでも横断できる羽根のある者に。さっきまで遊んでいたおもちゃをぞんざいにできる子供に。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?