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歴史書に記されている死後離婚。

高坂Θです。前回は結婚について書いたので、今回は離婚の話を。
普通に疎遠になっての離婚ではなく、夫と死別した後のこと。
一時期よく話題になっていた、姻族関係を終了するという意味の
「死後離婚」が行われた、歴史上の例を紹介します。

当事者女性の意志は考慮されておりません。

それは713年、記されている史書は「続日本紀」。
和銅6年11月5日の記事で、前触れも無く、突然の宣告が行われます。
文武天皇の嬪(ひん)であった石川刀自娘(とじのいらつめ)と、
 紀竃門娘(きのかまどのいらつめ)の二人を嬪から格下げして
 嬪と名乗らせない(扱わないようにする)」と。

天皇の妻の称号には、律令に定められている序列があります。高い順に、
后(きさき)・妃(みめ)・夫人(ぶにん)・嬪、と並んでおり、
妻となった当の女性に授けられている品位(ほんい:皇族としての位)
又は位階において、正四位上から従五位下までの場合がですので、
さして高い位階ではなく、席次としては下に位置付けられていた二人、
蘇我から改名した石川氏の娘さんと、紀氏の娘さんに対して、
文武天皇(707年6月15日崩御)に入内:天皇に嫁入りしていた事実を
抹消するという意味の宣告です。死後離婚の理由説明は一切有りません

父が誰であるかの記録が無い、石川氏の娘さんは「広成」という名の
皇子を産んだともされています。母親たる女性が、天皇の妻の一員であった
という事実を抹消されてしまうと、子供も天皇の子息とは認められません
少なくとも石川氏としては重大事態です。紀氏も同様でしょう。
一か月後の12月6日、石川氏の代表者にして位階は従三位の、
石川宮麻呂が亡くなって・・・以後、何の騒動も起きません。全く。

現代の、老舗企業的に置き換えます。

急死した若社長に愛人が居たのは周知の事実で、
子供も生まれていた。しかし認知がされていなかったので
申請していた死後認知が、6年の審査を経て却下されたようなもの?
実際、広成さんはそのような流れで、母方の石川朝臣を名乗ったようです。

当時、皇族から分派した人には「真人(まひと)」という、
朝臣(あそん)とは別の姓(かばね)が与えられていたのですが、
皇族としての認定が為されなくなったせいでしょうか、朝臣の扱いです。
これも現代の話とするならば、愛人及びその子供との関係を断った上で、
暮らしに困らない程度の財産は分与した、みたいな話です。
社会的に抹殺されないだけ、まだしも情の有る部類なのでしょう、か?

石川朝臣(760年より高円朝臣)の広成さんは、出生年が不明です。
708年の後半より後に生まれたのでは?などといった疑惑が生じて・・・
メロドラマかサスペンスか、そんな感じに勘繰る事も可能です。

関係各所への根回しは重要。

この件は、石川氏及び紀氏も納得した上での「嬪」の立場返上、と
考えた方が良いのかも知れません。騒動を未然に防いだ手腕の持ち主、
誰なんでしょうねえ(すっとぼけ)。

数え年の25歳で崩御した文武天皇の、その妻たる女性はおそらく
まだ20代。他の家との婚姻が不可能な年齢ではないと思います。
古代において、まだ若い未亡人が連れ子ごと他の家に縁付くのは
珍しい事ではありません。むしろこうする方が、当の女性を
大切にしているという見方もできます。古代的には。

嬪ではなくなったもう一人、紀氏の娘さんも父親の記録が有りません。
大納言在任中の705年に亡くなった、紀 麻呂(きのまろ)という人物の
血縁者なのは間違い無いと思われます。入内にまでは至っているので。

氏族の代表者といった、身元保証や政治的な支援をしてくれる後援者に
なっていた人物が亡くなる、又は病気等で支援できなくなった途端に
娘さんの立場が不安定になるのは、避けられません。当時も、平安時代も。

想像を膨らませて。

最後に仮説を一つ展開します。否定する根拠が無いだけの想像ですが。

天智天皇の皇子である志貴親王は、紀 諸人(もろひと)という人物の
娘さん、名を橡姫(とちひめ)と記録される女性との間に、709年に
男子が生まれています。天智天皇の孫となる男子の名は白壁王
後の光仁天皇にして、現代の天皇家の直系先祖です。

嬪の立場を離れた紀氏の娘さん、竃門娘さんが橡姫と名を改めて
志貴親王の妻となり、後に天皇となる男子を産んだというのでは、
皮肉の効き過ぎた想像でしょうか。

あくまでも状況証拠だけの、私的な妄想です。

お付き合い頂き、ありがとうございました。

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