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あなたにとって青春とはなんですか?

以前、こんなnoteを書いた。
僕はとにかく青春がだいきらいで、青春なんてこの世に本当に必要ないとまで思っていたけれど、結果的に最近仲直りした、みたいな話である。

誰しもが必ず経験していながら、誰しもが説明するとなると、必ず言葉に詰まるのが「青春」ではないだろうか。
そういう「言葉にできない」感覚、経験はこの世にたくさんある。誰も言葉でどんなものか説明してはいないのに、誰もがそれを同じように感じて、それに影響されたりされなかったりする。

「青春」。青い春である。アオハルである。

この青い春のうちの「青」は、たぶん「青」年期の青であり、この時期が人生の中で華々しいことから、木々が芽吹いたり、花が咲く生の象徴である春にたとえているのだと思う。
そういえば、古語では、花というと、大体さくらのことを指すなんてことを昔勉強したな。昔の人は大雑把なんだなとその時は思ったものだった。

辞書的な意味で考えると、青春はどうにも「華々しい」「活力がある」みたいな意味合いが強そうだ。
しかし僕が青春を苦手なのはここで、これだけで青春のすべてを説明するのはいくらか文字足らずな気がするのだ。

たしかに青春は活力に満ち溢れていた。なんでもできる気がしていた。
そして青春はいつだって、僕らが僕らでいられるように繋ぎ止めている何かだった。でもそれが何かは、この辞書的なステイトメントから読み解くことは難しい。

青春に足りないものは何か。
突拍子もないかもしれないけれど、それは、青春を見る「視点」なのかもしれない。

どういうことかというと、僕らは青春について言及するとき、果たして本当に青春の中にいたのだろうか?という疑問で、そこから青春を読み解けるのではなかろうか、という問題提起である。
一般的に青春というと、若かりし頃の学生時代の思い出や、それらに付随した何かについてのあれやこれやを総括して「青春」という場合が多い。
つまり、青春とは「時代」であって、青春は大きな時間そのものであったということである。

しかし、振り返ってみると、ぜんたいがそのまま青春であったというのは、ちょっと大雑把すぎやしないかというのも思ったりする。
何か、華々しいことや、あとさき考えずに何かくだらないことをやってしまった経験、そしてそれがどうにかなっちゃった時、僕らは「青春だったなあ」などと言う。
青春は、線であるように見えて、実は「点」だったりするのではないだろうか。

そしてそれは、いつだって「過去」として言及される。
「明日は青春だなあ」なんて話すこともなければ、「これ、今まさに青春だ!」と言っていても、厳密には観察して感覚を受信した瞬間からそれ自体は過去である。
それを言い出したら全部過去になってしまうのだけれど、青春はいつも、少なくとも僕にとっては過去にあった。

その上で、過去を振り返ったときに、それをわざわざ「青春」に加工していくのはなぜだろうか。

なぜ青春は過去として記憶されるのか。どうしてそれらを青春と呼ぶ必要があるのか。そういう経験をしたとだけ話せばよいのに、だいたいその思い出には青春ラベルがペチっと貼り付けられている。

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そんな青春に足りないもう一つの要素として、僕が追加したいのが「あきらめる」ことである。
青春はある意味でなんでもできた。なんでもできる気がしていた。そして何もかもがワクワクで、どんな時も勝手に足が動いていた。考えるよりも先に体が動いていたとはこのことだ。

僕らは青春を羨ましがる。つまり少なくとも青春は僕らにとって大航海時代だった。(僕自身はそうでもなかったが)
青春が青春でなくなるとき、たぶんそれは「青春」を話す時だ。

青春に生きていれば、僕らはその時代を青春なんて詠んだりはしない。青春は夢中そのものだ、周りなんて見えないし、上から時代を眺めようなんて野暮なことはしない。前しか見ていないのである。
だからこそ、青春の話をした時、それは「青春に生きていない」ことになる。

では、青春が青春でなくなるときの、心情の変化はどうだろう。
先ほども言及したが、それは「あきらめる」ことである。
青春はある意味でなんでもできた。なんでもできる気がしていた。そして何もかもがワクワクで、どんな時も勝手に足が動いていた。
しかし一方で、当時の僕らは必ず何かの挫折や大失敗に出会う。僕にとってはそれはもう数えきれないほどあったし、そういう思い出こそ頭からしがみついて離れようとしてくれない。楽しい思い出はなんとなく消えていった。

どうにもならない感情がある。
あの子に片思いをして、もしかしたら付き合えるかも、両思いになれるかも、なんて頭の中で考えていても、結果的にはうまくいかないことを突きつけれられる。

どうにもならない実力がある。
部活で県大会でベスト8に入ることも、結構難しいことだったりすることを知る。努力は人を裏切らないという暑苦しくも心強い言葉が、突然刃こぼれをしてまともに壁を切れなくなる。

どうにもならない社会がある。
勉強していい大学にいけば、なんやかんやで人生はうまくいくと思っていた。でも実際はたぶんそうでもなくて、僕らが年寄りになる頃には年金ももらえないかもしれないし、東芝だって経営危機に陥るような時代に生きているのである。

あの頃にあった、「たぶんなんとかなる」というあの全能感、それはとにかく切れ味の鋭い大きな剣で、僕らはいつでもそれを振りかざしていた。
でも、いつの日か、目の前に現れたモンスターは、今まで見たこともないような技を使って、ことごとく僕らの攻撃を無効化させてしまう。物理攻撃で戦おうとしていたら、なぜか相手がいきなりメラゾーマを唱えてきたような、そんな感覚である。

どうにもならない。
どうにかしたいのに、なんとかなってほしいのに、もう戦えるほどの剣がない。あるのはなまくらだけ。なまくらをなまくらとも思わないことこそが青春だったのに、それを見てなまくらだと思った瞬間に、僕らの青春はすでに終わっている。

誰だって何もかも諦めたくはない。きっと当時は本当に野球選手になれると思っていた。当時は本当に憧れのあの子と両思いになれると思っていた。当時は本当に、自分にはなんでもできると思っていた。
でも、青春が自分にとって終わってしまった時、当時を振り返ってそれらを諦めている自分がいることに気がつく。

諦めることは良いことだと思われないことは多い。たぶん、諦めたらそこで試合終了だからだ。
でも、諦めるのはとても気持ちがいい。諦めると、それがノスタルジーになる。諦めると、それが物語として一旦死んでいく。どうにもならなかったんだと、自分の弱さを認めることができた時、それが初めて愛情になる。

そういう「死んだ物語」は僕らの中で「青春」になり、そしてその「青春」こそが、新しい僕らの剣をまた鋭く磨き上げてくれる。
そしてきっと、これから出会う新しい物語と戦う時、その「青春」こそが、僕を僕としてつなぎ止めてくれる。

あなたにとって、青春とはなんですか?

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2019年12月31日
オチのないショートショート


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