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「本物」の奴隷、「偽物」の夏

夏をこんなに待ちわびたのは、一体いつぶりだろうか。
なんて思っていたのだけれど、そういえば、去年も梅雨がなかなか明けなくて、いつになったら夏が来るんだとぼやいていたのを思い出す。
そう思うと、存外夏というものは焦がれることに価値があるのであって、いざやってきてみれば、それはそれで煩わしく感じてしまうものなのかもしれない。かわいそうだなあ、夏。嗚呼、夏。

夏を待ちわびていた去年の自分は、一体何を考え、そして何をしていただろうか、と思い出そうにも、1年前というのはあまりにも近く、そして遠くにあるもので、僕は何も覚えていないことに気づいた。
ところで、「1年前」という日本語になにか違和感があるのだけれど、1年前と去年ってどっちの表現がいいのだろう。

考えていてもどうしようもないので、結局ツイートを見返したりしてみると、禁煙に失敗していたり、なにがしかの炎上商法について思いを馳せていたり、あるいは8月になるとぴたりと発信活動が止んでいたことから、きっと思い悩んでいたのか、暑さに打ちのめされていたのだろうな、ということまでは分析できそうだ。

過去のある自分に対して言ってやりたいことはごまんとあるのだけれど、一番言いたいのは「お前、嘘ついてるよ」ということだ。

当然のことながら、言葉には行動が伴う。
「何を言うかではなく、誰が言うかが大切だ」とはよく言ったもので、実績や経験、感覚に裏打ちされた言葉には説得力が増す。
逆に、特に行動をしていなかったり、その筋で何か実績を残していない人がそのカテゴリについて高らかに発信すれば、たちまち言葉の重みおじさんに殴られてしまうか、あるいはそうはならなかったとしても、世迷言として周囲に相手にされないかのどちらかだ。

そういった「信用」とも称される指標が、一体どのように測定されていくかというのは、思うに「嘘をつかないこと」なのではないだろうか。

いや、それは「嘘」そのものが問題というより、どちらかというと、自らの言葉と、客観的事実にもとづく他者からの評価とが、ある種の一貫性を帯びているかどうか、という話な気もする。

僕は自分の言葉には責任を持っているつもりだったけれど、相も変わらず禁煙には失敗し続けているし、加えて「これをやりたい!」とか、「これができるようになるべき!」だとか、「これが大切なんだ!」であったりだとか、そういう「願い」みたいなものは、だいたい具体的に浮かび上がらず、瞬く間に立ち消えになって、そして気がついた時には「偽物」になっていることにも気づく。

いや、ちがう。
きっとその時僕が書いた言葉も、こうありたいと思う心も、実際は疑う余地もないほどに純粋で、そしてどうしようもなく正直な「本物」であったはずだ。

だというのに、僕といったら、ことごとくそれらを「偽物」にしてしまっているだけなのだ。
そうして偽物の思想と偽物の言葉は、どんどん僕の外堀に溜まっていき、それは次第に僕の外殻を打ち破って、いつしか自分自身を丸ごと偽物にしてしまう。
そう気づくまでは、「自分は好奇心に正直なのだ」とさえ取り繕っていたくらいだ。

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ちょうど、今の生活を始めるまえに、こんなnoteを書いたことをふと思い出した。

自分で書いておきながら、読むのに半年はかかるのであまりおすすめはしないけれど、半年間は暇だという人はぜひ読んでみてほしい。半年間という時間を消費できることだけは保証する。
ちょっと半年はかけられないという人は、以下の要約を読んでほしい。

自分は嘘つきだったということに気づいた。

そう、すでに1年前、僕は自分が嘘つきであることを認めていた。
それっぽい美しさや、それっぽいそれ(それっぽいそれってなんだ)にすがり、それでどうにか自分をつなぎ止めていたことに気づいた、ということを赤裸々に、そしてあろうことか6000文字もかけて説明しているのである、実に滑稽なことこの上なし。

自分が嘘をついていることはずいぶんと前から気づいていたものの、今の僕が過去の自分に伝えたい意味合いは、当時のそれとは少しばかり違っている気がする。

僕は、きっと「それでいいんだよ」ということを伝えたかったのだと思う。

「嘘」はたぶんよくない。よく約束を守らないと怒られるし、おそらく自他共に認める腕利きの嘘つきだと思う。
ウソップのような、人を傷つけず、そして人を笑顔にする嘘つきではなく、あくまで自分のために嘘をつき、そして最終的に、誰かへ突き刺さってしまうナイフのような、この世でもっとも不必要な嘘を放つのである。

しかしながら、先ほども書いた通り、きっと口から言葉が溢れ出る時、それは確かに「本物」であったはずで、同時にそれは、確かな「願い」だったのだと思う。

本当の自分、やりたいこと、好きなこと、必要なこと、信仰、自信、正解不正解、理想の仕事、ていねいな暮らし、将来の夢。(大きな希望、忘れないと書きたい気持ちをぐっと堪えた。)
そういう未来の不確かな願いにも、過去から規定されうる現在の自分像にも、どうせ正しさなんてないし、妥当性もきっとない。

でも、そういう「なりたい自分」とか「目指したい目標」みたいなものが、言葉になって口から出てきてしまった時、それ自体は間違いなく「本物」で、たとえ過去からの「信用」や、「客観的事実」によって僕らが偽物になってしまったとしても、それはそれでいいのではないか?と今は思う。

これまでは、「語り得ぬものについては沈黙せよ」がモットーだったし、何もしていない自分は、何かを語る権利もないと思っていた。
あるいは過去の自分から綴られた言葉に、僕自身が縛り付けられることだって往々にしてあった。

もちろん、嘘を書くことで人に迷惑はかけない方がいい。いいに決まっている。
自分が本物として言葉にしたものが、いつか嘘になって誰かを、ほかでもない自分を傷つけることだってある。
でも、だからといって、僕らは過去に支配されてしまっていいのだろうか。

「過去があなたを規定するのではない、過去の受け取り方で規定される」

とえらい本には書いてあった。きっとその通りだと思う。
その一方で、僕らはどうしようもなく本物を求めてしまう。
そのまま一生本物に呪われて、そして死んでいくのかもしれない。

でも、それでいいのだと思う。
理想の自分や「これが本物だ!」と思うものと、到底本物とは呼べない代物としての自分の差を認め続けるのは、結構というかだいぶつらいし、何より自分にとってあまり良いことはない。

それに、実際のところ偽物だ本物だと自分について考えるのは、かなり時間の無駄だ。馬鹿馬鹿しい。自分でここまで2858文字書いてきて、もはや腹立たしささえ感じている。何やってんだ本当に。

そんな、呆れや怒りすら感じてしまう自分の思考の中にあっても、きっと過去の自分もこうやって考えて、そして「理想」とするような願いを口にしてきたのだろうなあ、と今は思えている。

過去の願いも間違いなく当時の自分で、それがたとえ今の自分とうまくマッチしなかったとしても、昔の僕が、願いを叶えられなかったとしても、そして自分自身が偽物になったとしても、それは未来の願いに口をつぐまなければいけない理由にはなりえないし、そして現在を否定する材料にすらならない。

だから、僕は嘘を書く。
夢も理想も願いも価値観も信条も、初めから自分の中にあれば、それらはぜんぶ嘘で、吐き出したとたんに、ゆらゆらと本物になる。

そして本物になったそれらを追い求めて、僕自身も本物になろうと、偽物が押し寄せる激流に必死に抗う。
たとえ、死ぬまで本物とかいうくだらないものにたどりつけなかったとしても、僕は嘘を書かなければ進めない。それらは僕にとってきっと補助線なんだ。本物になりたいわけじゃない、本物に近づきたいだけなんだ。

はあ、疲れた。

明日このnoteを見たら、これも嘘になっているのかもしれないな。
その時、明日の僕は今日これを書いている愚かな僕に、一体なんて言うのだろうか。

そう思えると、嘘を書くのも案外悪くはないなあなどと思ってしまう。
嗚呼、嘘。





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