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ブルージュの朝

 2011年の春、女友達と二人でベルーギーを旅した。ブリュッセル、アントワープ、ブルージュ。日帰りバスでお隣のオランダやルクセンブルクも訪れた。

 と言っても私が「旅をしている」と感じたのは、女友達がまだ眠っている早朝、一人でブルージュの小さなB&Bの部屋を抜け出した朝だ。私は、石畳の細い小道を、人々が暮らす普通の街、普通の朝を求めて歩いた。街の中心を外れてずんずん行くと、川沿いにメルセデスやBMWなどドイツ製の車が普段着の顔でずらりと駐車していた。やがて煉瓦造りの小さな民家が立ち並ぶ通りにさまよいこんだ。

 ブルージュの家々は間口が狭く、白雪姫の小人の家ではないかと見まごう家の小窓にオレンジ色の灯りがともり、その窓の白い木綿のカーテンの向こうでは、小声で話しながらささやかな朝食を食べている温かな家庭の気配があった。
 ふと一つの赤い扉が開き、お母さんに送り出される少女が出てくる。目の前の東洋人の私を見ても驚きもせず、少女ははにかんだ笑顔で「ボンジュー」と声をかけてくれた。「ボンジュー」小さな声で返し、私も微笑んだ。自転車に乗って彼女は学校へ急ぐ。そっとカメラを構えた私とレンズの向こうのお母さんの目があった。カメラを下ろしたあと「メルシ」と、わずかしかないフランス語のストックで、写真を勝手に撮らせてもらったおわびのようにお礼を言った。

 歩き続けると数台の自転車とすれちがい、その度にはにかんだ表情の男の子や女の子が「ボンジュー」と挨拶してくれる。観光客がこんな住宅街に迷い込むことは滅多にないのではないか。どうしてこの子たちはこんなに無防備なのだろう。見知らぬ街に自分が受け入れられたような気がして、私は幸福をかみしめた。その朝、私はときめいていた。いわゆる名所を訪ねる旅行というものから解かれ、今私は100%自由だ!と心の中で小さく叫びながら歩いた。少し行くと、ソーセージとチーズを売っている小さな肉屋が眠たげな灯りを店内から漏らしている。午前7時。こんな時間から買い物客は来るのだろうか? フランスパンを抱えた若い女性が店に入る。首には柔らかそうな黒いウールのマフラーをぐるぐると巻いて。ベルギーの北端。二度と会えぬ人の手を握るように、そのまま石畳を歩いていたかった。胸が小さく痛んだ。

 時計を見ると7時半が過ぎようとしていた。もうそろそろ帰らないと。女友達は私がベッドにいないので慌てているだろうか。それとも、先に一階のテーブルでひとりの朝食を楽しんでくれているだろうか。お洒落をして石畳をあえてヒールで歩く彼女に私はどこか憧れていた。私ひとりなら確実に尻込みするオペラ劇場に、まるで映画館にでも入るように入って行き、クラシックを心から堪能できる彼女は頼もしく魅力的だった。それでも私にはこの風景が必要なのであった。角に肉屋がありその向こうに学校があり、化粧っ気のない普段着のお母さんが子供を送り出すこの風景。これが私には必要なのであった。