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母の胎から運命は

最近は、書こうと思っても書けなくて、いや書きたいことがあるんだけど、躊躇して書けなくて、どんなに疲れていても、書きたい時は、書きたいはずなのに書けない、というふうな変な日々を過ごした。


今では有名になったTempalayと言うバンドが、2014年頃だったか、天才としか思えない胸の奥の郷愁や生の儚さを奏でる曲を歌っていた。あの歌がとても好きだった。当時の3人のメンバーが街や海辺を歩きながら、ときには丘の上でゆるやかに踊りながら撮った映像も素敵だった。正直言ってあの曲が彼らの曲の中でいちばん好きなのかもしれない。彼らの中に音楽と生きる運命が見えたように思う。


音楽という運命。身近にも、ミュージシャンがいるが、あまりにも近すぎてここではちょっと書けないかな。距離というものはとても大事で、それはわきまえないといけない。


そういえば、ある時、ユダヤ人の写真家、ソール•ライターの再来かとハッとする写真に出会った。こんな人が日本に存在するのが不思議だった。その人は若く、まだ無名で、おそらく何も考えず、魂がさまようままにシャッターを切ったのだろう。あのTempalayの初期の曲のような、次の瞬間には消えていく命を捉えたような写真、言葉にならない人生のある一日のある瞬間を捉えたような、あのような写真は誰にでも撮れるものではないのではないか。そんな写真を撮る運命が、彼の中には既に在るのだと感じた。


この世で生きていくにはお金が必要だ。だから、お金が稼げる曲を作ったり、売れる写真を撮ったり、流行る服を作ったり、万人好きする絵を描いたりも、ある部分では、それはアリだ。
だけど、それだけじゃ虚しいよね。


母の胎の中からアーティストの運命を埋め込まれた人は、もうしかたがないから、ジタバタせずに堂々とその運命を全うしてほしい。正直、そう思っている。

それは有名にならなきゃということではない。
酒瓶の配達をしながら自分が信じる曲を書き続けたり歌い続けてもいいし、パン屋で働きながら写真を撮り続けてもいい。あるいは道路工事のアルバイトをしながら絵を描き続けるのも良い。小さな町の雑貨屋の店員をしながら、帰宅したら自宅の机でカンカンと銀を打ってアクセサリーを作るのもいいだろう。

とにかく気負わずにそれをする。一生、楽しみながらやり続ける、それでいいではないか?いったい何を気負うことがあるだろう? 
世間の誰かと自分を比べる?比べてしあわせになるかな?世間が作った基準? ステレオタイプ? ごめんね、だけど、そんなものはくそくらえだよ。人生は長いようで、実はとても短い。


生まれながらにアーティストなるアーティストたちよ。理解しあって、共存していける仲間やコミュニティーの中で、その命の蝋燭を灯し続けてほしい。その稀な、尊い命をどぶに捨てないでほしい。何をしたって人間は生きていけるよ。長々と生きてきて、今はっきりわかるのよ。真実の自分を生きたら、年をとってもやっぱり幸せ。


そんなことを、日々思っている。
思っている。