生きるも死ぬも、自らの手で。 Anonymous Gods
神に何を祈ろうか。
明日いい事がありますように。
ごはんを美味しくたべられますように。
美しい木漏れ日を浴びられますように。
あたたかい布団で眠れますように。
あなたが、幸せでありますように。
サラサ
美しくあることを求められ、応えようと努力し、美しくあり続けた。しかし世間も母親も彼女の美しさに答えてくれなかった。恋人も「きれいだよ」と声をかけることもなかった。
だから彼女は自らの手で美しく人生の決着をつけようとした。運命のDIY。生き続けなければならない、という呪いからの脱却。
他人を通してではなく、自分で自分を愛して美しく幕をひいた彼女の最期は幸せだったと思う。美しさは散る瞬間の画ではなく、フレームの外にある。彼女の美はフレームの外で生き続ける。
ナオ
大切なものを大切にすること、を大切に生きてきた。
自分が大事にされなかったから。
でもそれを他社に投影せずに、自分の傷を自分に刻み続ける。大切なものは大切に、自分の棘で傷つけないように、だから距離をとる。サラサが求めた愛の形とは違っていたけれど、ナオはナオの理論でサラサを愛して大切にしていた。
一方自分自身に対しては自罰的で、負の連鎖を自分で断ち切らんとばかりに自身に刻む。でももう彫るところがない…永遠の痛みに限界を感じ始めた頃にアオイが現れ「新しいカンバスを」、と腕を差し出す。サラサとは対象的に、ナオは他人を通して自分を愛することを知る。
カスミ
世界の幸せの形が、この子に当てはまるだろうか。
世界に愛されなかった(と感じている)サラサに出会うことで、これから産まれてくる命が出会う世の中の不条理に、そして不条理が引き起こす(かもしれない)結末に気づいてしまった。自分が「かわいそう」な側にいて、それ故にこの子が不条理に出会う機会は「ふつう」より多いのかもしれないことにも気づいてしまい、この子の幸せは「産まれてこない」ことなのではないか、と。
感受性の強い彼女は揺らぐ。反出生主義的な迷いを抱えたカスミは、アオイの言葉で「フレームの外」に向けられる。ぎゅっと絞った焦点のその外側がきらめいていることを思い出す。
アオイ
彼女については、何を書いていいのかわからない。今という社会を生きる上で、アオイは私にとっての理想だ。
カスミを愛して、彼女の才能を愛して、オフィスごっこなんて揶揄されながらも彼女との幸せのために働いて、色々なものを飲みこんで。
この言葉を言えるまでに、言うために、彼女はどう生きてきたのだろうか。
様々な理不尽や不条理のなかから、美しいものを見つけ出す。大切にする。当たり前のことだけど、社会や日々に揉まれるなかで人はその煌めきをすぐ忘れてしまう。なぜこんな石ころを拾ったのかも忘れてしまい、手放してしまう。
でもアオイは丁寧にそれを磨き続けている。硬い黒い石のすきまからのぞく光を信じて磨いて、ざらついた岩石を美しい宝石に磨き上げて、それを他者と共有する。ひとに見せられたがたついた原石も「もう見たくなーい」とぼやきながらも尊重する。
アオイの根底にはとてつもなく深い慈愛がある。きっと社会や理不尽や不条理に絶望しながらも、あきらめずに愛そうとしているのだと思う。タトゥーを彫りにいったのも、産まれてくる子への誓いというか、十月十日のふたりぶんの血の巡り、陣痛のかわりを刻もうとしたんじゃなかろうか。
アオイをみていて、「親に求められるもの」ってなんだろうとも考えた。両の親がそろうこと?それは必須条件じゃない。母性と父性がそろうこと?それも男と女でなくたっていい。“母“性・”父“性と冠がついているけれど、必要とされるのは性的区分ではなくてきっと愛情の要素のことだ。そこが揺るがなければ、どんな家族のかたちでも「かわいそう」なんかじゃない。
フレームの外を愛するために
「生きづらさ」という言葉が散見されるようになった。今まで誰かの快のために犠牲になっていた人たちが声をあげるようになった。
生きづらい、いやだ、という声はさらにネガティブな反応も生む。捻じ伏せんとする波の重さにまた息ができなくなりそうだ。
濁流にのまれ流された地を裸足で歩く。尖った石で足の裏は血だらけ、いっそ歩くのをやめてしまおうか。そう俯いた先に微かなきらめき。それを丁寧に拾い握りしめて、また歩きだす。道の先にはまだいくつもの光がある。
そうやって生きていけたら。
いつかあの濁流も、皮膚を破る石ころも愛せるだろうか。
どうやったらそんな生き方ができるのだろう。
アオイと話がしたい。
私も彼女に、優しくされたい。
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